平方録

こちらの体まで新緑に染まりそうだ

暖房のまったくない、がら~んとしただだっ広い部屋の、凍てついた空気の中で寒さをこらえながら2時間もじっと座っていることを考えたら、今はもう極楽そのものと言ってよい。
誰もがそう思い、感じていると見えて、昨日の円覚寺の日曜坐禅会には100人近い参加者があった。

午前8時の空気はもう暖かく、冬の間中閉ざされっぱなしになっていた大方丈の引き戸はすべて開け放たれ、薄暗い部屋の奥から眺める外の景色は明るさに満ち溢れていて、芽吹き始めたモミジの葉が日に輝いて目に痛いくらいである。
様々な鳥がにぎやかに鳴き交わすさえずりが高く低く、近く遠く届き、時間の経過とともに暖かさを増していく外の空気が流れ込んできて体を包むから、一層心地よさは増していく。

これから梅雨に入る前くらいまでの間は、気温がぐんぐん上がり、緑が色合いを濃くしていく清明で、生気に満ち溢れた季節になる。
昨日はまさにそうした季節の嚆矢だったといってよいだろう。
寒さに身構えることもなくなり、光にあふれた気持ちの良い朝を迎えることができた。
背筋をピンと伸ばして下腹に力を入れて坐り、静かに呼吸を繰り返しながら横田南嶺管長の提唱を聞くわけだが、途中で眠気を催したのには閉口したが、凡人の坐禅とはその程度のものなのである。

提唱は去年の秋ごろからから続いている「盤珪禅師語録」で、漢語で書かれたものが多い「教え」の中で、日本人禅僧の残した語録であるゆえに、古い言葉遣いで分からないところも多いのだが、一応日本語なので漢語を読むよりは頭に入りやすい。
しかも会話調で書かれていて、岡山県あたりのお寺を拠点に活躍した人らしく、その地方の方言かどうかわからないが、語尾に「わいの」という接尾語がつくんであるわいの。ヨコハマのミナト近くで育ったボクが良く口にする「じゃん」みたいなものであるわいの。
そういうところも若干だけれど、親しみがわくというものであるわいの。

語録の中身は初回の提唱のときに、横田管長は「この語録は『人はみな生まれながらにして仏である。しかし、残念なことに、そのことに気づいていないために、無駄な努力を重ねている。自らが仏なのだということに気づかなくてはならないのだ』と言うことを言葉を変え、例示を変えながら繰り返し繰り返し諭しているのです。だから語っているのは1つだけです」と言っていたが、その通りで、毎回毎回、登場人物や場面は違うが同じテーマが繰り返されていく。
眠気の原因にはしないけれども、そういうところにも凡人の凡人たるゆえんが垣間見えるようで、我ながら情けないんである。

例年に増して長かった冬の間中、散歩を除けばロクに体を動かさなかったうえに、食べたいものを食べたいだけ口にしてきたツケは確実にわが肉体に現れていて、風呂に入るたびに鏡に映るわが身を嘆いていたが、着るものが薄くなるにつれていたたまれなくなってきた。
で、ついに部屋の中でもできるエクササイズを再開したわいの。
手始めは腹筋。腹まわりが一番醜く、気になるところだから、まずはこいつを絞ろうという魂胆である。

昨日はとりあえず160回も! やってみた。目標は毎日200回から300回である。
これくらいやれば2か月もあれば何とか格好がつくんじゃないかというのが、これまでの経験則なのだが、単に腹筋運動だけではだめで、たまった無駄な脂肪の燃焼効率を上げるためには、身体全体の筋肉を増やさなければいけないのだ。
その第一歩としてほこりにまみれていたダンベルも引っ張り出してきて腕や胸辺りの筋肉強化に乗り出したところである。

決してナルシストという訳ではないのだが、ぶざまな体をさらしたくないと思っているだけであるわいの。
第一、夏の海辺に出かけられないような体では情けないじゃぁないの。



円覚寺居士林門前のモミジの新葉がすっかり出そろって青空に透き通っている


龍隠庵から見た山門と松嶺院。まだサクラが残ってる


雲頂菴前の階段から北鎌倉台峰の保存緑地を眺める


龍隠庵への階段途中の砂岩にがっちり食い込み、崖の一部となったケヤキと思われる巨木の根っこ


まさに崖の一部になったかのよう


根の上部は堂々たる巨木である
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