無門関提唱第36則「路逢達道」。
横田南嶺管長はあれこれ説いてくれたが、昨日の「倩女離魂」のようにはストンと落ちなかった。
凡人はいつもきれいに理解できるというわけでもないのだ。
記憶に残ったのは「絶体絶命の時にマニュアルを広げて助かる方法を探るのではなく、自らの判断と知恵で乗り切らなくてはそこから逃れることはできないと教えるのが禅の教えです」という解説。
大泥棒の親が息子に免許皆伝を許すかどうかのエピソードを交えながらの解説だけはよく理解できた。
その上で「静かな水面が周囲の景色を見事に映しこむように、心を静かに保ち、澄ませることで自身の心に映るものを冷静に見つめることが出来れば、あらゆることに冷静に対処することが出来る。そこから生まれるのが智慧であり、心を済ませることを学ぶのが禅の修行です」という解説も耳に残った。
心を済ませておくことが大切なのだ。
2時限目は「命の授業~いのちのバトンタッチ」。
幼い娘さんを小児がんで失った鈴木中人さんが命のバトンタッチをテーマに命の輝き、家族の絆、生きる幸せ・働く喜びなどを全国の小学生などに伝える活動を続けている。その授業の再現と紹介だった。
仕事も辞めてこの活動に打ち込んでいるのだという。
なかなか感動的だった。世の中にはすごい人がいるものである。
3時限目というか、今期夏期講座の最終講義は京都清水寺の森清範管主の「仏様のえにし」。
森管主の講義のあと閉講式が行われ横田管長が「仏教の根本問題をかくも的確にわかりやすく話されたことにびっくりした。さすがは森管主」と絶賛したが、そもそも「仏教の根本問題」ってのは何だよ、という程度の認識しかないボクには「あぁそうだったんですか」という気持ちだが、中身はなかなか心に残るものが多く、お笑い芸人など森管主の前では恥ずかしくて悶絶して死んでしまうくらい見事なユーモアにくるまれた話術と共に、あっという間の70分間だった。
機会があればぜひまた森管主の話を聞きたいものだ。京都の人がうらやましい。
中身? う~ん。ゲラゲラ笑い過ぎて大切なところを聞き逃しているんだろうけど…
「人は皆生まれながらに仏さまだと言いはりますが、私たちは『我』の世界に住んでるんです。だから、わがままし放題、口からも言いたい放題。そんなんが仏さんのわけがないおまっしゃろ? 」
「『ガシュウ』って言いまんねん。みんな『我執』の塊や。でもそれが『仏縁』っていうもんに浸っていると染まって来るんですわ。心が。我執が消えていくんです。でもわざわざ浸かりに行く必要あらしまへんのや。生まれた時から浸かってるんです仏縁に。でもそれに気づかないだけなんです」
横田管長もよく口にする。「人はみな仏の心を持って生まれてくる。でもそれに気づく人は少ない。われわれ自身が仏なのです」と。
森管主はこうも言う。
「命の仏格化こそ『仏』です。見える命と見えない命がある。この見えない命に感謝できるかどうかです」。
「命の仏格化」も「見えない命」の説明も聞き洩らしちゃって必ずしも明確ではないけれど、70分話を聞いてくるとこの「見えない命」とやらに感謝できるようにしたいと思うのだ。
意味はそのうち分かるだろう。慌てることはないのだ。
まぁ、4日間毎日4時間ずつ良く学びました。
でも以前のように7月20日前後の開講に戻せないのかねぇ。汗を拭きふきってぇのが夏期講座なんだよなぁ。
円覚寺妙香池のハナショウブ
わが家の「空蝉」の2番花が盛りになってきた
こぼれんばかり
コメント一覧
heihoroku
heihoroku
MOMO
高麗の犬
最新の画像もっと見る
最近の「随筆」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事