2年ぶりに開かれた円覚寺の夏期講座初日の3コマをネットのオンライン中継で視聴した。
150人ほどの人数を会場の大方丈に入れての開催で、ボクにもその招待枠が回ってきたのだが、今回は遠慮してオンライン視聴を選択した。
理由はいくつか。
横田南嶺管長の「無門関提唱」はっこれまでずっと聞いてきたので、今回も聴きたかったのだが、その他のその道の大家・専門家による8コマの講義にほとんど食指が動かなかった。
唯一、初日の「江ノ島詣」と「歴史失敗学入門」という2コマだけ、かろうじて聴いてみてもいいなと思ったくらいで、不遜ながら今年のラインナップにはいささかがっかりしたのだ。
オンラインでの聴講料は1日1500円で、日ごとで申し込みができるようになっているため、初日だけ申し込んだのだった。
ただ、残念ながらコマ単位での申し込みは出来ない。
それが可能なら「無門関提唱」だけ選択するってことが出来たのだが…
無門関はこれまで毎年4コマずつ聴いてきて、今年の初日は第45則だった。ということはつまり、4日間で48則に到達するわけで、無門関全48則がこれで完結するという節目だったのだ。
最初から知っていれば、無門関の為だけに6000円の聴講料を払うという選択肢もあったわけで、多分そうしただろうが、ちょとケチったおかげでつまらないことをしたものだと、いささか浅慮を恥じている。
ところで、コロナ禍の大学生が「密」を避けるため、軒並みオンライン講義になってしまって、これが案外不評であるということをしばしば見聞きしていたので、オンラインそのものにあまり期待を寄せていなかったのも事実である。
しかし、ふたを開けてみるとこれが案外集中して聴くことが出来て、結果的には8時半から12時半まで途中2度の15分休みを挟んで4時間の間集中できたことは、収穫だったと思っている。
講師の表情が間近によく分かるというのは案外、重要なのだということを認識させられた。
会場の大方丈で遠くから聴いているより‶かぶりつき〟というのは、集中力を高めるのに役立つ。
まっ、いずれにしたって大学生の場合は一方通行の講義を聴くだけじゃなくて、友達を見つけ、お互いに刺激し合い切磋琢磨することも重要なことだから、やはりオンラインじゃかわいそうで、一刻も早くキャンパスに通えるようになればいいと思う。
何れにしたって今の政権じゃ、それもいつのことになるか分かったものじゃないけど…
これまで梅雨が明けたころに開催されてきた夏期講座が、今回のように5月末にズレたのはほんの3、4年前からのことである。
理由はきちんと説明されたのを聞いた覚えがないのだが、チラッと耳にしたところでは鎌倉五山1位の臨済宗建長寺派の大本山・建長寺からの申し入れで変更になったらしい。
いくら同じ宗派の寺だからといって、80年も続いてきた他の大本山の伝統的行事の日程を変えさせてしまうとはいくら何でも面妖なことだが、ボクは大いに不満を持っている。
何せ、夏期講座のイメージはセミの声を聴きながら、時には汗をぬぐいながら集中して聞き耳を立てるということに尽きる。
お寺の大きな屋根の下というのは障子や戸を開け放てば案外涼しい風が通るもので、たとえ大勢の聴講者が詰めかけて人いきれでムンムンしていても何とかしのげるものなのだ。
ボクは何年か前にじっと聞き耳を立てている人々の頭すれすれに1匹のトンボがスイスイと飛び、やがて入ってきた方角とは反対の方へ飛び去ったのを眺めながら「あぁ、これこそが夏期講座だなぁ~」としみじみ思ったものである。
そもそも5月に変更になってから、以前ほど気乗りがしなくなってしまっているのが残念でならない。
俳句の世界では「夏期講習会」「夏期大学」が季語集に収められているくらいで、これは夏は夏でも初夏を指したものでは決してないのだから…
(見出し写真は円覚寺黄梅院のアジサイ)