最近、片づけるということが極端に下手になった。
それが際立つのは現役時代と比べた時で、多くの同僚が雑然と積まれた書類など資料の山のわずかな隙間に灰皿と原稿用紙を置いて鉛筆を走らせているような中で、ボクの机の上だけは電話機がポツンと1台端座しているだけの中央アジアの草原のような広がりを見せていたものだ。
わが家に戻ってもそれは同じで、ほとんど居付くことも無かったが書斎と称していた一角にデンと置かれた大ぶりの机の上にはごく小さな本立てと電気スタンドがあるだけで、きれいな天板が秋晴れの空のように広がっていた。
それが今…
書斎の広々とした机の上は読みかけの本や雑誌の類に加えマスクが顔から外されたままの形を保って放り投げられているかと思えば、夏に愛用したサングラスがケースにも入れられずこれまた放り投げられているといった塩梅である。
それだけではない。
パソコンを置いてある部屋のテーブルも同様で、ここには飲みかけのペットボトルが常に2、3本と、やはり読みかけの本や雑誌の類、気付け薬のウイスキーの瓶を含めて極めて雑然としている。
おまけにサイドテーブルの上も同様で、むしろこっちは脇に置かれている分、がらくた度は一層激しく、筋肉痛の塗り薬がむき出しに転がっているかと思えばベランダ栽培用に買ったホウレンソウのタネの残りが放り投げられたままだったりしている。
まだある。
3か所目は居間兼食堂の大テーブルで、ボクが座る一角にも届いた郵便物をはじめ、PR誌に属するような薄い雑誌がこれまたうず高く積み上がっているという塩梅なのである。
その多くは開封さえしていない。
かつて現役時代には、それが必要なものであるのか、そうでないのかを瞬時に判断していた。
そして必要と判断して仮に机に置いたとしても3、4日経ってもまだ目を通していなければ「やっぱり必要なかった」と判断し、特に中身を改めるわけでもなく捨ててしまっていた。
必要なものなら向こうから何事か発信してくるだろう、電波を送って来るだろうくらいに思っていたからそれは出来た。
悲しいかな、今こうして馬齢を重ねてきていると、3か所に積み上がっているモノドモはたぶん、なにがしかを発信しているはずなのに、こちらがきちんと聞き分けられなくなってしまってるんじゃないか、という感を強くする。
「早く目を通した方がいいよ」「きっと役に立つよ」「あなたのお役には立てません、一刻も早いお暇を戴きたい」などなど…
しかし、悲しいかな現役時代に感度良好だった‶受信装置〟は今や真空管が切れでもしたように、その動きを止めてしまっているかのようである。
多分正月をこのままの状態で迎えられるとは思っていない。
第一、山の神が黙っちゃいないだろう。
分かっているのだ。だったらいっそのこと、もう少しこの混とん雑然を楽しむとするか。
何事にも愛着というのは出てくるものであるからして…冗談です、冗談。
身辺をきれいに保つこと…
これは一つの重要なタシナミというべきものだと思う。
特に、だんだんと歳を重ねていく身なれば、知らず知らずにそのタガが緩くなるのは実社会で嫌というほど見せつけられもし、モノの本などで繰り返し読まされてきたところだ。
一種の醜さがここに凝縮されもする。
残日を数える年ごろになったが、タシナミのない生き方は本意とするところではないからな。
心しなくては。
(見出し写真はクリとカラスウリとボケ)