”独り言 その1” のつづき
では邪馬台国は九州の何処なのか?
この半年ほどで読んだ本などを参考としてサイクリングでの体感を加味。
普通は一冊の本として書かれている内容を素人考えでザックリと綴ってみた。
魏志倭人伝の原文・訳はこちらを参考にした。
30分もあれば現代語訳は読めるので興味ある方はどうぞ。
僅か2000字程であるが、弥生時代後期3世紀頃の倭国(日本)が記述された唯一の書物である。
複写版の一部 (Wikipediaより抜粋)
邪馬台国までの行程、倭国の様子などが記されている。
この行程によれば魏志倭人伝の御一行は
帯方郡(ソウル辺り)を出発し、狗邪韓国(プザン辺り)を経由し対馬海峡を渡って倭国に上陸。
邪馬台国までの方位と距離(もしくは移動日数)が記されている。
末廬国に上陸し、伊都国、奴国、不弥国と進み、それらの距離や戸数が記されている。
その後に「投馬国まで南へ水行20日」、「邪馬台国まで南へ水行10日・陸行1か月」とある。
不弥国まで距離(里数)で記されていたのが、ここで水行/陸行での日数となる。
邪馬台国を比定するにキモとなるこの「水行/陸行」が何とも悩ましい。
そのままの方位と距離(日数)を辿ると邪馬台国は九州のはるかかなたの南方になってしまう。
よって都合良く方位や距離を原文から変えたり、一部部分のみの解釈で邪馬台国が比定されているのが実態である。
※邪馬台国関連本は概ねこの解釈(こじつけ)の根拠を長々と説明している。
ある面、やむを得ないかと。魏志倭人伝の記載に全て合致させるのは無理と思われる。
比定地としては大きくは畿内説と九州説が有る。
畿内説は方位を南を東に、九州説は距離を短く原文から変えている。(解釈している)
行程の解釈は大きくは以下の3種類になる。
③「水行10日・陸行1か月」は帯方郡を起点とした距離(日数)とし①もしくは②に当てはめる。
普通に読めば①、少し歪曲すれば②、かなり歪曲して③のような感じだろうか。
しかし、
①では九州のはるか南にに行き着く。(方位もしくは距離を変えて解釈する必要有り)
②では南に水行するにも水路が見当たらない。(到着地点が出発地点の南と解釈すれば成り立つかも)
③とすれば水行と陸行の日数の辻褄は合うが、前後の文脈からするとかなり無理が有る。
尚、一里の距離、水行/陸行での一日の移動距離についてもいくつか解釈はあるが、
一里は約75mくらいが妥当だろう。(現在の一里は約3.9km)
水行/陸行での移動日数は途中で立ち寄ったりしてかなり多くの日数を要したと思われる。
ここで水行/陸行で悩んでいるより、
まずは帯方郡からの総距離が1万2千里との記述を基に考えた方が良さそう。
そうすると伊都国から1500里(もしくは不弥国から1300里)南の地点となる。
まずは伊都国を比定したい。
行程以外の記述に注目しても「伊都国」がキモと思える。
・「伊都国」は郡(中国)の使者が往来し常に足を止めるところである
・「伊都国」には大率(女王の代理人のような役責)がおかれて諸国は怖れている。大率は帯方郡から使者がくると港に出向いて確認する
・「伊都国」のみ”都”と言う敬う漢字を使っている。他の国は蔑んだ漢字を当てている。
更に下記の記述も気になるところ。
・「女王国より以北はだいたいのところは記載出来るがその他は詳しくは知る事が出来ない」
・「女王国の東へ海を渡って千里行くとまた国(倭種)がある」
これより以下の事が言えるのではなかろうか。
・伊都国には女王が信頼できる重要な人物を置いている。
・伊都国には港が有り、大陸との窓口となっている。
・伊都国、奴国、不弥国は邪馬台国の北に有り遠くは無い。
・女王国の東には海が有り千里先には倭人が住む国がある。(東の海に面しているかは不明)
重要な国、キモである伊都国は何処か?
対馬、壱岐と海峡を渡りに末廬国に上陸している。
壱岐からの方位/距離から上陸地点が東松浦半島の呼子辺りか唐津市付近。
いずれにしろ末廬国は東松浦半島で間違いなかろう。
2018.10.13撮影 唐津湾
「末廬国から東南に陸を500里行くと伊都国に到着する」
500里は約40km程度と考えられ伊都は怡土(糸島市)が最も有力である。
ただ、唐津(東松浦半島)の東南では無く東〜北東にあたる。
唐津(東松浦半島)から東南へ40km程度行けば佐賀県小城市辺りか。
ただ、郡の使者が必ず立ち寄り、港がある事や地名、出土品からもやはり怡土(糸島市)なのでしょう。
2018.10.13撮影 糸島市平原遺跡
唐津から伊都へ行くには現在の海岸線沿いの道は海の中なので峠越えとなる。
峠を越える為に東南方向へ向かったと考えれば方角的にも説明がつく。
伊都国は怡土と比定すれば奴国は室見川中流域辺りから福岡県春日市辺りか。
2018.10.13撮影 室見川近くの吉武高木遺跡
不弥国は連続説、放射説いずれでも福岡平野内と考えられる。
伊都国もしくは奴国、不弥国から南へ水行しようとすれば川しかない。
それを確かめる為に宝満川沿いをサイクリングした。
その時の水量では舟で宝満川を行くのは無理と思われたが、季節や当時の状態によっては可能だったかも。
2018.10.20撮影 宝満川
※当時は水路によって博多湾と有明海は繋がっていたとう言う説もある。
伊都国が怡土と比定出来、奴国、不弥国も福岡平野と比定した。
邪馬台国が畿内と考えられないのは、
九州にある伊都国及び周辺国を当時のインフラで畿内から支配・コントロール出来ると思えないから。
よって邪馬台国の方角としては記されている通り糸島市及び福岡平野の南の方向に間違いないだろう。
伊都国から1500里(もしくは不弥国から1300里)100~120km南の地点。
移動したルートにもよるだろうが、その地点は筑紫平野から熊本平野辺りと言える。
帯方郡からの総距離1万2千里より有る程度比定出来た。
ここで行程の解釈①、②、③の各案を当てはめて考えてみる。
<①の場合>
水行/陸行の日数の変更が必要。
「邪馬台国は熊本にあった」がこの説で有り、日数は改ざんされて伝わったとの解釈
仮説した日数(距離)で考えれば熊本となるが、都合よく原文を変えているとも思える。
<②の場合>
伊都国から直に南の方向への水路は無いが、水行10日・陸行1か月は延べでかかった日数と考えれば成立しそう。
また、「水行10日・陸行1か月」は水行すれば10日、陸行では1か月とも解釈出来るとの事。
そうすれば水行としては、平戸・島原半島経由で有明海に出るコース(これは無いか)や
博多湾にそそぐ御笠川、宝満川、築後川から有明海に出るコースが考えられる。
博多湾~有明海の水路が有れば好都合。
陸行しての1か月は長すぎる感じだが筑紫平野から熊本平野辺りは考えられる。
<③の場合>
水行/陸行の日数を歪曲しなくても筑紫、熊本平野は成立しそう。
①,②,③いずれでも筑紫平野から熊本平野は成立するかな。
では筑紫平野と熊本平野のどっち?
熊本平野と言いたいところだけど、この記述が気になる。
「女王国より以北はだいたいのところは記載出来るがその他は詳しくは知る事が出来ない」
邪馬台国が熊本平野とすると筑紫平野がポッカリと空く。
それは無いなー。
宇佐は神話との結び付きも有りミステリアスで面白いのだが、伊都国との繋がりが難しい。
2018.11.10撮影 宇佐神宮
島原半島北部は地形や他国との繋がりから無理が有りそう。
2018.11.4撮影 島原半島北部の水田
すっきりとしていないけど一番無理のない解釈は筑紫平野では無かろうか。
現時点では筑紫平野と比定するが、考えが変わる事は大いに有り得るかな。
また、筑紫平野としてもその何処なのか?
吉野ヶ里?、朝倉?、旧山門郡?、八女?、、、
それともやっぱ熊本平野?、、、などなど。
ペースは今までよりは落とすとして邪馬台国探しの旅は続けたい。
2018.10.20撮影 吉野ヶ里歴史公園
2018.7.1撮影 山鹿市方保田東原遺跡
殆ど斜め読みだけど参考とした書籍は以下(読んだ順)。
伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった
井沢元彦 逆説の日本史
高木彬光 邪馬台国の秘密
井沢元彦 卑弥呼伝説
宮崎康平 まぼろしの邪馬台国
竹内睦奏 古事記の邪馬台国
齋藤茂樹 理系脳で紐解く日本の古代史 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する
喜多暢之 魏志倭人伝を探る
渡邊 徹 邪馬台国への道 熊本・宮地大地に眠る失われた弥生の都
歴史ミステリー倶楽部 地図で読む日本の古代史
孫栄健 邪馬台国の全解決
青松光春 神話の世界から邪馬台国へ
八尋秀喜 秘められた邪馬台国
吉田武彦 邪馬台国はなかった(1/4程度で中断)
また、検索すればネット上にも溢れるくらい邪馬台国関連の記事/HPがある。
その中でも下記は充実しているのでご参考までに。
邪馬台国大研究
邪馬台国大研究 本編
狗奴国私考
では邪馬台国は九州の何処なのか?
この半年ほどで読んだ本などを参考としてサイクリングでの体感を加味。
普通は一冊の本として書かれている内容を素人考えでザックリと綴ってみた。
魏志倭人伝の原文・訳はこちらを参考にした。
30分もあれば現代語訳は読めるので興味ある方はどうぞ。
僅か2000字程であるが、弥生時代後期3世紀頃の倭国(日本)が記述された唯一の書物である。
複写版の一部 (Wikipediaより抜粋)
邪馬台国までの行程、倭国の様子などが記されている。
この行程によれば魏志倭人伝の御一行は
帯方郡(ソウル辺り)を出発し、狗邪韓国(プザン辺り)を経由し対馬海峡を渡って倭国に上陸。
邪馬台国までの方位と距離(もしくは移動日数)が記されている。
末廬国に上陸し、伊都国、奴国、不弥国と進み、それらの距離や戸数が記されている。
その後に「投馬国まで南へ水行20日」、「邪馬台国まで南へ水行10日・陸行1か月」とある。
不弥国まで距離(里数)で記されていたのが、ここで水行/陸行での日数となる。
邪馬台国を比定するにキモとなるこの「水行/陸行」が何とも悩ましい。
そのままの方位と距離(日数)を辿ると邪馬台国は九州のはるかかなたの南方になってしまう。
よって都合良く方位や距離を原文から変えたり、一部部分のみの解釈で邪馬台国が比定されているのが実態である。
※邪馬台国関連本は概ねこの解釈(こじつけ)の根拠を長々と説明している。
ある面、やむを得ないかと。魏志倭人伝の記載に全て合致させるのは無理と思われる。
比定地としては大きくは畿内説と九州説が有る。
畿内説は方位を南を東に、九州説は距離を短く原文から変えている。(解釈している)
行程の解釈は大きくは以下の3種類になる。
③「水行10日・陸行1か月」は帯方郡を起点とした距離(日数)とし①もしくは②に当てはめる。
普通に読めば①、少し歪曲すれば②、かなり歪曲して③のような感じだろうか。
しかし、
①では九州のはるか南にに行き着く。(方位もしくは距離を変えて解釈する必要有り)
②では南に水行するにも水路が見当たらない。(到着地点が出発地点の南と解釈すれば成り立つかも)
③とすれば水行と陸行の日数の辻褄は合うが、前後の文脈からするとかなり無理が有る。
尚、一里の距離、水行/陸行での一日の移動距離についてもいくつか解釈はあるが、
一里は約75mくらいが妥当だろう。(現在の一里は約3.9km)
水行/陸行での移動日数は途中で立ち寄ったりしてかなり多くの日数を要したと思われる。
ここで水行/陸行で悩んでいるより、
まずは帯方郡からの総距離が1万2千里との記述を基に考えた方が良さそう。
そうすると伊都国から1500里(もしくは不弥国から1300里)南の地点となる。
まずは伊都国を比定したい。
行程以外の記述に注目しても「伊都国」がキモと思える。
・「伊都国」は郡(中国)の使者が往来し常に足を止めるところである
・「伊都国」には大率(女王の代理人のような役責)がおかれて諸国は怖れている。大率は帯方郡から使者がくると港に出向いて確認する
・「伊都国」のみ”都”と言う敬う漢字を使っている。他の国は蔑んだ漢字を当てている。
更に下記の記述も気になるところ。
・「女王国より以北はだいたいのところは記載出来るがその他は詳しくは知る事が出来ない」
・「女王国の東へ海を渡って千里行くとまた国(倭種)がある」
これより以下の事が言えるのではなかろうか。
・伊都国には女王が信頼できる重要な人物を置いている。
・伊都国には港が有り、大陸との窓口となっている。
・伊都国、奴国、不弥国は邪馬台国の北に有り遠くは無い。
・女王国の東には海が有り千里先には倭人が住む国がある。(東の海に面しているかは不明)
重要な国、キモである伊都国は何処か?
対馬、壱岐と海峡を渡りに末廬国に上陸している。
壱岐からの方位/距離から上陸地点が東松浦半島の呼子辺りか唐津市付近。
いずれにしろ末廬国は東松浦半島で間違いなかろう。
2018.10.13撮影 唐津湾
「末廬国から東南に陸を500里行くと伊都国に到着する」
500里は約40km程度と考えられ伊都は怡土(糸島市)が最も有力である。
ただ、唐津(東松浦半島)の東南では無く東〜北東にあたる。
唐津(東松浦半島)から東南へ40km程度行けば佐賀県小城市辺りか。
ただ、郡の使者が必ず立ち寄り、港がある事や地名、出土品からもやはり怡土(糸島市)なのでしょう。
2018.10.13撮影 糸島市平原遺跡
唐津から伊都へ行くには現在の海岸線沿いの道は海の中なので峠越えとなる。
峠を越える為に東南方向へ向かったと考えれば方角的にも説明がつく。
伊都国は怡土と比定すれば奴国は室見川中流域辺りから福岡県春日市辺りか。
2018.10.13撮影 室見川近くの吉武高木遺跡
不弥国は連続説、放射説いずれでも福岡平野内と考えられる。
伊都国もしくは奴国、不弥国から南へ水行しようとすれば川しかない。
それを確かめる為に宝満川沿いをサイクリングした。
その時の水量では舟で宝満川を行くのは無理と思われたが、季節や当時の状態によっては可能だったかも。
2018.10.20撮影 宝満川
※当時は水路によって博多湾と有明海は繋がっていたとう言う説もある。
伊都国が怡土と比定出来、奴国、不弥国も福岡平野と比定した。
邪馬台国が畿内と考えられないのは、
九州にある伊都国及び周辺国を当時のインフラで畿内から支配・コントロール出来ると思えないから。
よって邪馬台国の方角としては記されている通り糸島市及び福岡平野の南の方向に間違いないだろう。
伊都国から1500里(もしくは不弥国から1300里)100~120km南の地点。
移動したルートにもよるだろうが、その地点は筑紫平野から熊本平野辺りと言える。
帯方郡からの総距離1万2千里より有る程度比定出来た。
ここで行程の解釈①、②、③の各案を当てはめて考えてみる。
<①の場合>
水行/陸行の日数の変更が必要。
「邪馬台国は熊本にあった」がこの説で有り、日数は改ざんされて伝わったとの解釈
仮説した日数(距離)で考えれば熊本となるが、都合よく原文を変えているとも思える。
<②の場合>
伊都国から直に南の方向への水路は無いが、水行10日・陸行1か月は延べでかかった日数と考えれば成立しそう。
また、「水行10日・陸行1か月」は水行すれば10日、陸行では1か月とも解釈出来るとの事。
そうすれば水行としては、平戸・島原半島経由で有明海に出るコース(これは無いか)や
博多湾にそそぐ御笠川、宝満川、築後川から有明海に出るコースが考えられる。
博多湾~有明海の水路が有れば好都合。
陸行しての1か月は長すぎる感じだが筑紫平野から熊本平野辺りは考えられる。
<③の場合>
水行/陸行の日数を歪曲しなくても筑紫、熊本平野は成立しそう。
①,②,③いずれでも筑紫平野から熊本平野は成立するかな。
では筑紫平野と熊本平野のどっち?
熊本平野と言いたいところだけど、この記述が気になる。
「女王国より以北はだいたいのところは記載出来るがその他は詳しくは知る事が出来ない」
邪馬台国が熊本平野とすると筑紫平野がポッカリと空く。
それは無いなー。
宇佐は神話との結び付きも有りミステリアスで面白いのだが、伊都国との繋がりが難しい。
2018.11.10撮影 宇佐神宮
島原半島北部は地形や他国との繋がりから無理が有りそう。
2018.11.4撮影 島原半島北部の水田
すっきりとしていないけど一番無理のない解釈は筑紫平野では無かろうか。
現時点では筑紫平野と比定するが、考えが変わる事は大いに有り得るかな。
また、筑紫平野としてもその何処なのか?
吉野ヶ里?、朝倉?、旧山門郡?、八女?、、、
それともやっぱ熊本平野?、、、などなど。
ペースは今までよりは落とすとして邪馬台国探しの旅は続けたい。
2018.10.20撮影 吉野ヶ里歴史公園
2018.7.1撮影 山鹿市方保田東原遺跡
殆ど斜め読みだけど参考とした書籍は以下(読んだ順)。
伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった
井沢元彦 逆説の日本史
高木彬光 邪馬台国の秘密
井沢元彦 卑弥呼伝説
宮崎康平 まぼろしの邪馬台国
竹内睦奏 古事記の邪馬台国
齋藤茂樹 理系脳で紐解く日本の古代史 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する
喜多暢之 魏志倭人伝を探る
渡邊 徹 邪馬台国への道 熊本・宮地大地に眠る失われた弥生の都
歴史ミステリー倶楽部 地図で読む日本の古代史
孫栄健 邪馬台国の全解決
青松光春 神話の世界から邪馬台国へ
八尋秀喜 秘められた邪馬台国
吉田武彦 邪馬台国はなかった(1/4程度で中断)
また、検索すればネット上にも溢れるくらい邪馬台国関連の記事/HPがある。
その中でも下記は充実しているのでご参考までに。
邪馬台国大研究
邪馬台国大研究 本編
狗奴国私考
どうも肝心の「魏志倭人伝」の記載自体が不正確なようですね。しかし、不正確なほど浪漫が掻き立てられるのもまた事実。
今後も邪馬台国の探索を続けてください。
天さんにお褒め頂くとなんともこそばゆいです^^
殆ど受け売りの内容ですが、自分なりにまとめようと(納得しようと)すると結構苦戦しました。
枯れている脳みそにアルコールを注ぎながら何とか着地した感じです^^
そうなんですよね、唯一書き残されている「魏志倭人伝」が矛盾しているので今まで確定されていないようで。
ネットをうろつくと様々な愛好家がいらっしゃい、そののめり込みの深さに驚かされます。
今後は頻度は少なくなるでしょうが、もう少しサイクリングで回ってみようかと。
長々と独り言を綴ったので憑き物が落ちた感じです(笑)
とは言え、また探し求めてさまよっていそうです^^
その際に丸ポストを見つけたら報告します!