「邪馬台国へサイクリング」シリーズのきっかけとなった「まぼろしの邪馬台国」。
その著者宮崎康平氏の邪馬台国比定地が島原半島北部。
島原市と諫早市の中間辺りと考えられていたよう。
そんな聖地巡礼とも言える島原半島北部へ。
熊本港まで車載でオーシャンアロー始発7時30分に乗り込む。
島原港に到着し国道251で北上。
最初の古墳が本日のメイン。
諫早湾干拓堤防道路近くの守山大塚古墳(前方後円墳、4世紀前半)
4世紀前半の前方後円墳ってかなり珍しいのでは。(普通は6世紀頃)
「まぼろしの邪馬台国」でも紹介されている。墓の上に墓で奇妙、要塞のように見える。
墓(古墳)の上から有明海方面の風景。
諫早湾干拓堤防道路を渡る。
諫早湾の水門って閉めても開けても問題があるよう。
まあ、自然に逆らうと良くないって事でしょうか。
対岸に渡って善神さん古墳(円墳、6~7世紀)
本明川/半造川(Google Mapでは2つの名前)を渡って島原方面へ引き返す。
半島の付け根あたり、一本松古墳(円墳、6世紀中頃)があるハズだけど分からず。
たぶん、右前方の林の中でしょう。
諦めてアップダウンがきつい広域農道に入り島原方面に向かう。
海岸線より1~2km程半島内部に入った広域農道から見える田畑はこんな感じ。
本日のランチはこちら「長崎がまだす堂本舗」
ちゃんぽんにギョーザ・おにぎりセット(800円+300円也)
美味しかったけど、まあ普通かな。
田畑から海岸線は近い、古代では稲作はかなり難しかったのでは。
鬼の岩屋古墳へ寄る予定だったけど、看板も無く通り過ぎる。
曲がりくねった田舎道を走って平山古墳(円墳、6世紀後半)を探す。
もしや、前方右の雑草に覆われた小高いの?
そうでした。
次は弥生時代の景華園遺跡、この辺りのハズだけど。。。
まあ、遺跡跡は分からない場合が普通。その場の雰囲気が分かればよし。
島原城下町に入る。
フェリーの時間を気にしながらをサクッとポタリング。
15時45分発のオーシャンアローに。
盲目でありながら九州各地を回り、情熱を傾けて邪馬台国を探されていた宮崎康平氏。
そんな氏が比定したのが島原半島北部。
きっと何か響くものがあるに違いない、感ずるにちがいない。
とやって来たが。。。
弥生時代後期(3世紀頃)は稲作によってムラが作られ、ムラの集合としてクニに。
糧は稲作、鉄器が豊富で武力にも秀でてたクニが邪馬台国だったと思われる。
島原半島北部はそんな条件には合わないのでは。
何故宮崎康平氏が比定したのか?
今日のコースはこちら。
その著者宮崎康平氏の邪馬台国比定地が島原半島北部。
島原市と諫早市の中間辺りと考えられていたよう。
そんな聖地巡礼とも言える島原半島北部へ。
熊本港まで車載でオーシャンアロー始発7時30分に乗り込む。
島原港に到着し国道251で北上。
最初の古墳が本日のメイン。
諫早湾干拓堤防道路近くの守山大塚古墳(前方後円墳、4世紀前半)
4世紀前半の前方後円墳ってかなり珍しいのでは。(普通は6世紀頃)
「まぼろしの邪馬台国」でも紹介されている。墓の上に墓で奇妙、要塞のように見える。
墓(古墳)の上から有明海方面の風景。
諫早湾干拓堤防道路を渡る。
諫早湾の水門って閉めても開けても問題があるよう。
まあ、自然に逆らうと良くないって事でしょうか。
対岸に渡って善神さん古墳(円墳、6~7世紀)
本明川/半造川(Google Mapでは2つの名前)を渡って島原方面へ引き返す。
半島の付け根あたり、一本松古墳(円墳、6世紀中頃)があるハズだけど分からず。
たぶん、右前方の林の中でしょう。
諦めてアップダウンがきつい広域農道に入り島原方面に向かう。
海岸線より1~2km程半島内部に入った広域農道から見える田畑はこんな感じ。
本日のランチはこちら「長崎がまだす堂本舗」
ちゃんぽんにギョーザ・おにぎりセット(800円+300円也)
美味しかったけど、まあ普通かな。
田畑から海岸線は近い、古代では稲作はかなり難しかったのでは。
鬼の岩屋古墳へ寄る予定だったけど、看板も無く通り過ぎる。
曲がりくねった田舎道を走って平山古墳(円墳、6世紀後半)を探す。
もしや、前方右の雑草に覆われた小高いの?
そうでした。
次は弥生時代の景華園遺跡、この辺りのハズだけど。。。
まあ、遺跡跡は分からない場合が普通。その場の雰囲気が分かればよし。
島原城下町に入る。
フェリーの時間を気にしながらをサクッとポタリング。
15時45分発のオーシャンアローに。
盲目でありながら九州各地を回り、情熱を傾けて邪馬台国を探されていた宮崎康平氏。
そんな氏が比定したのが島原半島北部。
きっと何か響くものがあるに違いない、感ずるにちがいない。
とやって来たが。。。
弥生時代後期(3世紀頃)は稲作によってムラが作られ、ムラの集合としてクニに。
糧は稲作、鉄器が豊富で武力にも秀でてたクニが邪馬台国だったと思われる。
島原半島北部はそんな条件には合わないのでは。
何故宮崎康平氏が比定したのか?
今日のコースはこちら。
「まぼろしの邪馬台国」は高1の時でしたか、読み始めましたが、途中で難しくなって最後まで読めませんでした、確か。
古墳探し、案内板が無いと困難なようですが、その案内板判りにくいようで、案内板の案内板が必要みたいですね(笑
島原半島北部、平地が少なく、ここは無いだろうと素人ながらに思ってしまいます。
古本で購入しましたが、文字が小さすぎて読めず。
デジタル本をパソコンで斜め読みしました^^
なんでも自分の故郷を比定するのはかなりためらいがあったとの事です。
そこまでの確信があったのは何故?って感じです。
古墳なら形が有る程度残っていれば分かるのですが、普通の遺跡は調査後に埋め戻されるので標識など無い限り全くわからず^^;
そうなんですよね、あの辺りに吉野ヶ里遺跡規模の集落があったとは考えにくいです。