Blog ©ヒナ ─半径5メートルの毎日から見渡す世界

ラテンアメリカでの日々(1999〜)、さいたま市(2014〜北浦和:2021〜緑区)での日記を書いています。

アティトラン湖湖畔における先住民素朴画「コーヒーの摘み取り」

2021年08月07日 | 日本で暮らすなかでの日記

 Webでちょっと雑用をしていると、とあるブログに眼が止まった。それはどうやら岐阜にあるコーヒーの自家焙煎販売店、「まめ蔵」のオーナーさんがつけられているブログで、オーナーさんがある日、グァテマラから輸入したコーヒーを焙煎しようとコーヒー豆の開封したら、トウモロコシの粒が混ざってたらしい。

 そこで著者冥利に尽きる話なんだが、拙著『トウモロコシの先住民とコーヒーの国民』を取り出し再びページを開いて頂いたようだ。ナカタが1999年から足かけ15年ほど、何十回ともしれず入り浸り、それこそ難産に難産をきわめて「産んだ」我が子のような一冊なので、こうやって人の手に抱かれていると思うと、正直、あの日々の苦労がすべて吹っ飛ぶというモノである。

 ぜひ、「トウモロコシ!?」と題したこのページを訪ねてもらえれば。

 というのは、このページの文章もありがたいこと極まりないのだが、右列に並んだ写真のなかに、コーヒーの花がある。これは、日本に暮らす人は、まず見たことはないかと思う。

 

 そこで、今日は、コーヒーを美味しく飲む「消費」に関することではなく、コーヒーの生産のことについて、まだまだ浅いレベルだが書かせてもらおうと思う。

 

 コーヒーというのは、まずよく誤解されているのだが、トマトとか胡瓜を育てるみたいに水をやらなくていい(まぁ、木なんで)。

 ラテンアメリカ全体は知らない(つまり樹木となるロブスター種のブラジルとか)が、こと、メヒコ南部からコスタリカあたりまでの(アラビカ種の栽培)地域でいえば、気候に春夏秋冬というモノはない。前にも書いたと思うが、人口の集中する栄えた都市部はだいたい標高2000メートル弱くらいにあるから、年中、日本のゴールデンウィークからさらに湿気を取って一層快適になった「常春」が一年中続く。だからナカタがいくら京都出身だからといって、おみやげに「よーじや」のあぶらとり紙を持っていったところで、有り難られることはない。一日外回りをしたとしても、夕方に額がオイリーになることはない。

 その代わり、「雨季」と「乾季」が半分ずつある。だいたい4月末頃のセマナサンタ(復活祭)──日本のゴールデンウィークのように、一週間くらい、飲食や観光関係以外、街が止まる──を終えての5月半ばくらいか。

 ある日、突然、警報レベルの雨が降る。そこからずっと毎日毎日。それが約半年後の11月半ばまで。時折、(8月に多いが)「あれ?!」と思うほど降らない日が続いたりするが、基本毎日毎日。

 それでも、日本の梅雨みたいなイヤらしさはない。だいたい小1時間ほどで、ピタッとやむ。コレもまた面白いし趣があり。ナカタはこの雨期の方が好きだ。ドッカーンとスコールが降ってやんだ後の、夕暮れのあの「キリっ」と引き締まった空気がとても気持ちいい。

 また、雨期だといえど、午前中はそれはそれは見事な快晴。公園には週日の昼間でも、何やってんだかわからんオッちゃんが楽しそうに延々喋ってる。それが午後に突然、ホントに10分くらい建物に入っていたら気付かないくらいの速さで、空に鉛のような雲が隙間もなく鎮座している。気付いた時には時すでに遅し。

 だからこの辺の国で、雨期には毎日折りたたみ傘を持っていけばいいや、というのは大間違い。どんなに大事な会議がはじまろうが、初めてのデートの待ち合わせがあろうが、降り出したらもうおしまい。傘なんて差したところで、守れるのは首から上だけ。

 正解は、「雨が止むまでどこかの店先で雨宿りをして、偶然居合わせたヤツらとペチャクチャどーでもいいことを話す」。

 「いやぁ、そこまで来てたんだけど雨が降ってきたやん。だから遅れたの」という言い訳は、この辺の国では「親が急に倒れた」くらい通る。だって考えてみたら、そんななか、カノジョが遅れずにちゃんとやって来たところで、アタマからカバンから全部ずぶ濡れだったらどうしようもない。

 グァテマラにおけるコーヒー栽培は、この季節の移り変わりにピタッと同調する。コーヒー栽培に、水やりは必要ない。コーヒーの木は、ほったらかしにしていてもそれなりに毎年実を付けるが、それでは高品質の豆は取れない。いくつか、長いスパンを見据えての、目の前の収穫アップを我慢せねばならない点がある。

1)実をビッシリ付けた枝はその年でポキッと折ること。次の年も実は成るが、精製する際の巨大プールに放り込んだ時ですでに、水に浮く程度のスカスカの実でしかない。

2)せいぜい2メートル弱のコーヒーの木が、なんとなく薄らと影に覆われるくらいのいわゆる「シャドウ・ツリー」を植えなければならない。日光カンカン照りで育てれば、沢山の実が成るが、やはり一粒一粒が、ボテっとズッシリすることはない。これも「わーい。沢山取れた!」ではなく「収量は慎ましやかだが結果、高収入」というアタマの発想転換が必要になる。

3)成木の寿命はまぁ20年とか30年とかいった具合だが、数年に一度は、根元10センチくらいの所から、幹ごとバサッといかなければならない。これをすればもちろんその年は収穫ゼロとなるが、やがて切り口の傍から新芽が出てきて、3年もすれば、リフレッシュされた若い枝から、ズッシリ甘い(コーヒーの実って果肉、甘いんですよ)コーヒーが取れる。豆のカタチも、何というか、ラグビーボールというよりかは、炊いた玄米みたいにカワユイ。

 まだまだ幾つもあるが、それは拙著に・・・

 ということで、こうした作業を雨期がはじまるまでに終わらせないといけない。雨期になったら除草はしなくてはならない(昨今、オーガニックが叫ばれるので、除草剤ではなく先住民たちが手で抜かなければ高値が付かない)が、樹齢も5年6年とか以上いなると、木が地面に影を作るので雑草も生えない。基本、ほったらかし。

 マヤ系先住民は、基本「トウモロコシの人間」なので、食べ物の基本(主食)がトウモロコシであるばかりか、マヤ文化なるものもすべて、トウモロコシに根ざしている。マヤ族の創世神話みたいな『ポポル・ヴフ』という書物があるが、赤色のトウモロコシの粒から神は人間の血を作り、白い粒からは、黒い粒からは・・・とたしか、いろいろと神の人間創造の物語が記されていたと思う。これらは、グァテマラ唯一のノーベル文学賞作家アストゥリアス(Asturias, Miguel Angel)の代表作「トウモロコシの人間(Hombre de Maíz)」が刊行された20世紀半ばに「先住民主義(Indigenismo)」が興隆したことで一層国際的に有名となり、いまでも先住民の村の食堂で、トルティージャをおかわりする時、オバちゃんに「もっとトルティージャ!。だってオレはトウモロコシの人間だぞ」などと口にしたりする。

 いま、日本でもグァテマラ産のコーヒーは「高級ブランド豆」としてデパ地下とかで売られていると思う。「キリマンジャロ」とか「モカ」などと並んで売られるようになったのは、しかし2000年くらいからだとおもう。それこそ(もちろん面識などあるはずもないが)この「まめ蔵」のオーナーさんならご存じだろうが、こうした超高級豆は、まず第一に種類でいえばロブスターではなくアラビカ。そして第二に、収穫されるのは(気候にもよるが)標高1500メートルくらいの高冷地での水はけの良い火山灰質が有利。そして精製は、面倒くさくてコストもかかるがマメを傷つけない水洗式。これらが、ナカタのお世話になったグァテマラ中西部山岳地帯にポッカリ浮かぶアティトランコ湖畔の先住民村落では、気候・地質・湖水といった条件で可能であった。

 だから村人は、自らそのアイデンティティーの基盤でもあったトウモロコシ栽培をやめて、その土地にコーヒーを植え、現金収入を得て、観光化への設備投資に回し、現在、わたしのいま住んでいる一軒家のオーナーが(わたしと同じように)ごきぶりホイホイ煮誘い込まれるが如く魅惑されて、ワンサカ外国人が暮らしている、という塩梅だ。

 しかしだからといって、村人は「コーヒーという手があったか!」とこぞって栽培に乗り出したわけではない。まず第一に、トウモロコシは単年作物で自給用だ。対してコーヒーを植えたところで、最初の三年はまず収穫は見込めない。逆に肥料だの除草だので支出はかさむばかり。しかも収穫できたところで、それを食べて生き延びるということにはならない。それ相当の貨幣経済へ家族の命運を預ける覚悟が必要となる。

 この辺の葛藤は、別に書いた文章があるので、興味があれば是非。日本では、コーヒーについて「美味しい入れ方」とか「酸味と苦みのバランス表」とか、消費に関する知識は溢れかえっているが、生産サイドに関してはほとんど知られていない。また、サン・ペドロ・ラ・ラグーナ村ではなく、グァテマラに暮らすマヤ系先住民とコーヒー栽培の歴史についてはこちらに。

 さて、そんな葛藤のなか、ナカタはコーヒー栽培に乗り出したあるおばあちゃんに聞き取りにいった。女性がコーヒー栽培を切り盛りするというのは当時他に例がなかった。他界した父親からの財産相続で少しばかりのトウモロコシ畑を、その辺貧乏小作人でも雇って切り盛りしてもらおうとくらいにしか思っていなかったところ、兄が強力にコーヒーをなぜ植えないのだとプッシュしてきたという。「わたしは女だからあまり興味が無いの。好きにして」と兄に任せていたという。

 そんなもじもじしている彼女を、兄は雨期が終わった3日後、半ば強引に手を引いて、兄がコーヒーに植え替えた、彼女相続の畑に連れて行った。一面に真っ白な花が咲いていて、「雪は見たことが無いけどそんな感じなの?」と、彼女は日本から来たというナカタに聞いた。

 日本では、時たま、稲の花でこういうエピソードを聞くが、コーヒーもそうで、雨期が終わったのをどのように気付くのか。瞬く間にあちこちのコーヒー畑が、一斉に咲きほこる小さな小さな白い花で真っ白になる。

 この「まめ蔵」さんのブログを除いて、コーヒーの花の写真を見た時、ふとこのことがアタマに想起した。

 

 さて、と。毎度毎度のコトながら、ここまでは脱線話。ここから本題をチラッとだけ。

 この「まめ蔵」さんのブログ。

 開封したグァテマラ産のマメ袋からトウモロコシが出てきたという話。

 本来、常識的に考えたら、コーヒー大農園に先住民なんて、ブラジルのコーヒープランテーションで働かされてきた黒人のように、何やら深く痛ましい歴史の匂いがしそうなモノなのだが。

 ここで拙著を取ってもらったのはとても興味深い。そしてブログまで書いて頂いた。あとでお礼のコメントのひとつもちゃんと書かねばと思うのだが、少しはその言及して頂いた当人ならではの、世界で絶対他のどのコーヒー研究者も気付いていない、そしてナカタもいままで一度も書いたことのない「ネタ」を、このブログに絡めてひとつ。

 この「まめ蔵」のオーナーさん。

 たしかにサン・ペドロ・ラ・ラグーナ村のコーヒー栽培に乗り出して、裕福になった先住民のなかから、世界的にも有名になった先住民素朴画の画家が出てきたのだが、ブログの最後に「店のカウンターに飾ってある、ペドロ=ラファエルの喫茶店に飾られた絵とは似ても似つかぬ、チープな「コーヒーの摘み取り」の絵を眺めるのでした。」とある。

 ブログ本文はリンクで飛んでもらって読んでもらうのが筋というモノ。ここではその「チープ」な画のスクショだけを載せておこう。「チープ」とは完全なオーナーさんの謙遜だ。とても貴重な画である。

 まずもってこの絵が店に飾ってあるということ自体が、もの凄く意味深でして。

 じつはこの「コーヒーの摘み取り」という、あまりにも歴史的意味の深いテーマ、そのなかでもこの「コーヒーの摘み取り」を俯瞰する真上からのアングルで描くというのは、2005年くらいから、ある若者が描き始めたのがきっかけで、観光客にバズって、あっという間に流行した手法で。

 コレはじめたのは、何も海外留学組のエリート先住民素朴画家の息子でも何でもない、ただの周りの見よう見まねで「真上から描いてみた」だけの話で。

 その当人に、偶然聞き取りをしていて、この絵の手法を思いついた経緯を聞いて背筋が凍ったのですが。

 

 グァテマラは、1960年から1996年まで、内戦を経た。とくにエフライン・リオス=モント元陸軍総司令官の軍事独裁政権の時がイチバン残酷で、内戦終結後の「真相究明委員会(REHMI)」の出した数でも約20万人ほどが殺され、その大半が非戦闘員で、かつその大半が先住民だった。先住民の誰もが、国軍に忠誠を誓うか、ゲリラにつくかを明示せねばならず、逆側について切り裂かれたナカタの知人の友人は、話し合う時は都市の公園のベンチで、互いに背を向けて両親や親族の安否情報を交換していたという。

 そしてこの俯瞰図で「コーヒーの摘み取り」を描きはじめた青年。

 この内戦の絶頂期、彼は国軍に付いていた。

 彼の任務は、軍のヘリに同乗して、自分の生まれ育ったこの村に潜む、みんなみんな顔見知りなはずのゲリラを目を凝らして上から発見することだった。

 

 これが、先述の拙著の「序章」にて、ブッ込みたいと思っていたエピソードの候補二つのウチ、最終的に落とした方のヤツです。

 もうひとつの、「やはりこっちだろう」というのが拙著に載せた「一本の折れる枝」という題した、同じく「コーヒーの摘み取り」の画です。こちらは出版社のものでもあるので、ここには書けないですが。

 



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。