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国難の時代

政府が迷走を続けている。二大政党が切磋琢磨し合ってより良い世の中なるかもなんて甘いことを考えていたのがいけなかったのだろうか。バカの集まりは2つあってもバカの大集合だと判った。かく言うぼーずもバカにかけては自信があるのだが、あの情けなさには負ける。

さんざん言い尽くされていて、今更言うのも恥かしいのだが、今どんな時かが判ってないことに腹が立つ。え?こんな時だから、首相をリーダーシップあふれる人に代えて・・・言いたい事は判るが、それが誰なのか言ってみろ。穴の開いた金魚すくい(今はポイと言うらしい)でも上手く使えば何匹かはすくえるじゃないか。張り替えている時間は無い。・・・穴あきポイ扱いしてごめんね、菅クン。

ぼーずが高校の時だ。江戸末期から明治にかけて、能力のある指導者が数多く輩出したことが列強国の餌食にならずに済んだ大きな理由の一つだと習った。確かに、外国の力に頼り、国を売って国民を支配しようという輩が出なかったことは評価されるべきだと思う。

でも、人材が豊富だったと言うのは歴史的偶然なんだろうか。この歳になって思うようになったのだが、指導者だけが優れている国と言うのはあり得ないだろう。恐らく、多くの国民に意識が高かったんじゃないだろうか。情報量ではなく意思の力が。

海外から新しい事を学ぼうという意欲も大きかった。政府に招聘された外国人学者の給料は極めて高かった。明治10年でいうと北大で有名なクラーク博士が月俸600円、ドイツ人で古代の象に名前を残すナウマンや、貝塚の発見者モースは350円を貰っていたという。

同じ年、伊藤博文、板垣退助の月俸が500円、後の東大総長、山川健次郎が東京大学教授補として23歳で70円の月給を貰っていたという事からしても極めて高い給与であったことが判る。それだけ彼らから知識を受け取ろうという意欲があったからに違いない。

言い古された言葉であるが、『一国の政治は、しょせんその国の国民の民度以上に出るものではない』は真理だろう。国民が危機感を持ち、多くの人が国の行く末を考えるような状況にならないと優れた指導者は現れないのじゃないだろうか。

註:『』の言葉はマックス=ウェーバーの言葉という事だ。
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