誰でもそうだとは思うが、味覚は年により変わる。ジャリの頃は結構嫌いなものが多いが、大人になってそれを食べられるようになったという人は多いと思う。自分を振り返っても、塩うに・刺身類、特にマグロの赤身・塩サバ・肉の脂身がダメだったのに、今や脂身以外は好きな食べ物に変わっている。
残念なのは子供の頃はまだ跳ねている活きたアジを売りに来る人がいたのに、こっちが全然食べなかったこと。開いて刺身で食えばいくらでも酒が飲めたのに・・・ちょっとジャリには無理があるか。また、鰻の蒲焼は大好きだったが、皮がダメで剥がしてから食っていた(笑)。なんちゅう、もったいない食い方、親も怒れよ!
タレのかかったご飯が大好きで、ほぐした蒲焼の身を乗せて食べていたのだが、いつの間にか皮ごと食べるともっと美味いことが分かったようだ。大学生になり、同い年の従弟が鰻屋でバイトをしていたが、昼の賄いはタレのかかったご飯だったそうだ(笑)。親戚中が落語の“始末の極意”かよ!と笑う中、筆者だけは羨ましかったのを覚えている。
とは言え、自分の金で鰻屋に入ったのは20代後半だったのでかなりの奥手と言えよう。浜松を去る日が近づいたので記念に駅近くの大國屋という店に入ったのが最初だった。異動先は鰻で有名な埼玉だったが、若い頃はそう行きたいとも思えず、地元で食った覚えはない。鰻が好きになり、わざわざ行くようになったのは南千住の尾花という店。行き始めの頃は天然鰻を出すので有名な店だった。
南千住が遠い上に、調理以外の待ち時間が嫌だった。尾花は広い座敷に一度に客を入れ、それがはけた後にまた次の客を入れる。真夏に2ラウンドも待つのが馬鹿らしくなってきた。その後は食べ歩き友の会?の友人が連れて行ってくれた東長崎の鰻家(冗談でなくウナギヤという屋号)が気に入って、関西に帰るまでここに通っていた。
こちらは本田宗一郎の近所で、良く食べに来ていたと大将から聞いた。『あんたが今座っている席(カウンターの左端)が宗一郎の定席で、鰻さばくのじっと見てたよ』と言われ、オヤジの席なんだとちょっと感激。一人で行く時はいつもそこに座っていた。夏、演奏に来た塩次伸ちゃんと食いに行ったのもいい思い出だ。
故郷に帰って来てからは持ち帰りが多くなった。西宮には銀座竹葉亭の支店もあるのに、何故? それはえびす商店街にあった川魚屋、藤本の蒲焼がメッチャ美味かったから。ここの親父が備長炭で焼き上げた蒲焼はこの辺で一番美味かったと思う。一時、息子さんと一緒に仕事をしていたので、その人には悪いが親父が焼いているのを確認してから買っていたくらいだ。コロナが流行り出した頃だったろうか、店をたたまれたのが残念だ。
今日も自宅でうな丼。最近はやりの焼く前にぬるま湯で蒲焼を洗い、タレを落とすやり方でやってみた。裏をこんがりと焼いてから、アルミフォイルに置いて、酒とタレをかけ、フォイルを閉じてからじっくりと焼く。いつもは丼の中に一枚入れて二段にするだが、見栄えがもう一つなのとご飯の量が多くなるので、並列で置いてみた。しかし、もう一回藤本の蒲焼が食いたかったな(笑)。