私がまだ小学生の時、音楽室で中谷宇吉郎の「雪」にまつわる映写機で投影する映画をみたことがある。
なぜか、クラス全員が床に直に座らせられて観た。
普段は音楽室では椅子に座って授業をしているのに、映写機を投影するときだけ、床に座ったのは、映写機の投影する位置に関係があったのだろうか。
というのは余談で、肝心なのは中谷宇吉郎。
私の、その音楽室で観た、中谷宇吉郎の雪の結晶の美しさに魅入られ、親に、今思えば玩具のような顕微鏡を買ってもらい、雪の結晶を観察しようとしたが、即刻、プレパラートの雪は水になり、結晶観察はできなかった悲しさを覚えている。
それで、息子が小学生の三年生の時、本格的な顕微鏡を買ったけれど、息子は一度も、その顕微鏡を箱から出さなかった。
なぜ、箱から出して使わなかったのかと、息子が長じてから訊くと、立派すぎて勿体なかったと応えた。
そうだった。息子はなんでも大事に仕舞い込む性格だった。
ドイツ製の口にれても安全なクレヨン、ウルトラマンと怪獣、BRIOの木製汽車セットの玩具、ちびた鉛筆、なんでもかんでも大事に仕舞い込んでしまう。
また本題から逸れた。
問題は、中谷宇吉郎。
その中谷宇吉郎の伝記が汐文社から出版されている。
伝記だ!
伝記というのは、私は子ども時から嫌いというか興味が持てず、読んだことがない。
野口英世も、シュバイツアーも、キューリー夫人も。
私は、伝記より、本人が書いたノンフィクションの好きで、子ども時、すごく憧れワクワクし読んだのはヘディンの本だった。
というわけで、中谷宇吉郎の雪に興味を持った私は、中学生になってから、岩波文庫の中谷宇吉郎を読んだ。
この二冊である。
とりわけ『雪』がやっぱり、とても興味深く読んだ。
現在は、子ども為に岩波少年文庫から『雪は天からの手紙』が出版されている。
これは、大人になってから私も読んだが、とても良書である。
伝記を読むなら、本人の書いた本の方が、はるかに面白い。
雪の結晶観察のために、厳冬期の十勝岳の山小屋にこもって顕微鏡を覗く日々の描写は、
かなり、面白い。
「研究」というものは、誠に生真面目というか、その生真面目さにどこか、言っちゃ悪いが滑稽さがあって、それが惹かれるのだと思う。
その真面目さのなかの滑稽さを味わえるのは、やはり、本人が真面目に書いている著書ならである。