この映画を見ていて、主人公ファビアンの恋人がコルネリアが、女優になるために、監督と体の関係を持つ。
ファビアンが、そのことを問うシーンで、コルネリアはヴェディングの出身だというセリフがあった。
私は、はっとした。
ヴェディングは、『ベルリン1919』3部作の主人公も住んでいた、いわゆる下級階層のエリアである。
今はお洒落な街になっているけれど、戦後数年までは、そこに住む人たちにとって、ヴェディングという地名が持つ意味、それは辛く悲しく重い、に違いなかったはず。
『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』本編映像
<追記>
『ベルリンバビロン』というワイマール時代を背景に描いた刑事物のドラマがある。
その、あるシーンで、一瞬ヴェディング行きのUバーンが描写される。
ベルリン駅のUバーンのホームで、その車両のドアが閉まるというだけけの描写だった。
私は、そのシーンに、やっぱり、はっとした。
その車両には、疲れ果てた労働者しか乗っていなかった。
<追記2>
『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』で描写されるナチスによる焚書のシーン。
現実に、ケストナーは、自著が燃やされるその場に、居た。
<追記3>
ケストナーの父方はユダヤ系だという。
しかしケストナーは、あくまでも己はドイツ人だという自覚のもと、そのように主張し続けた。
強制収容所へ行くことを怖れたのではない。
己はドイツ人だという確固たる意識があったのだと思う。
アンネ・フランクのお父さんオットー・フランクも、多分、ケストナーと同じ感覚だったのではないかと私は推測する。
人は、血筋ではない。
生きてきた時間、その歴史や文化で培われたなにかが、きっときわめて重要な要素なのだろうと、私は思う。