ケセランパサラン読書記 ーそして私の日々ー

◆『二日月』の、いとうみく氏 講演

         

 このブログでアクセス数が、ずーっと一番、多いのは、『二日月』について書いたページ。
 私は、どんなことを書いたっけ、と読み直してみると、ほんと、たいしたことを書いていない。
 アクセスして下さる方への情報としては、極めて不親切。
 それなのに、驚くほどの人がアクセスしてくれて、ありがたいと思う。

 それで、というわけではないが、こんな講演があるよ、とお知らせを、してみる。
 きっと、面白い話しが聞けそうだって思うんだよね。


 あらためて、『二日月』に向き合ってみよう。 
 と、考えてはみたが、やっぱり、まだ、書評らしきものは書けそうにないようだ。
 う~むぅ。
 いっぱしのことを、書きたいと思ってるんだろうなぁ。(ここが、わたいのアホなところだんよね~)
 
 それで、視点を変えて、この物語を読んだ小学生に、私の言葉を聞いてもらえるなら、どんな言葉を、私は言うのだろうかと、探してみる。

 一番、感想文に書いて欲しくないのは、「感動しました」って、言葉かな。
 次に、おかあさんは、きっと主人公である健常者の杏ちゃんも、妹で障害を持って生まれた芽生ちゃんも、同じに愛しているし可愛いと思っているって、そういうきれい事も、書いて欲しくないかな。

 いやいや、まだ、いたいけな小学生に、こんなこと望むのは、これって、かなり社会のウサを見てきた大人目線の注文かも。


 だけど、どうしても、思う。
 杏ちゃんと芽生ちゃんのおかあさんって、きっと二人の子どもを生んだ者として、心の中は、きっと混沌、模糊なんじゃないか。いつも、ナニモノかに耐え、ナニモノかと、闘う日々なんだと。

 そういう、ナニモノかと、対峙しているのは、主人公の杏ちゃんも同じなわけで、その杏ちゃんの心中を、思う時、一人の大人として、子を育てた者として、私は、無力感に襲われるんだよね。
 なーんも、適切な、アドバイスをできないわけじゃん。

 ナニモノかというものが、何かって、私は、まだ分からないんだけど、
 『二日月』というフィクション=物語の力って、こういうことを、読み手に、直に感じさせることをしてしまう、そういう「物語の力」が、あるということだと、思う。

 で、作者いとうみくって、つくづく、児童文学作家だと思うのは、やっぱり、ちゃんと、前を向いてみせてくれるんだよね。
 なーんも、適切なアドバイスもできない読者も、ちゃんと、救われる。

 それが、207ページ。
 オシマイから三行目。

   でも、あたしはもう知っている。

 この、センテンス。
 たった、ひとこと。

 そうなんだよ。
 知ることができるんだよ。人は。
 って、だから、どんな絶望の中にあっても、希望を失ってはいけないんだよって、私は、ボソリと思う。

 

 やっぱ、ろくな事も、書けてないなぁ……。
 
 

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