ただいま☆
今朝6時ころ田原に到着しました~。
まだ1日しかたっていないなんて信じられない。。。。
日曜の夜10時頃家を出発して月曜の朝7時頃には現地、宮城県山元町に到着。
9時頃からボランティアのお仕事を手伝い夕方5時に終了。
それから仙台市泉にあるコホサーフボードのディーラー『Plus Colors』のショップに行ってオーナー遠藤さんとお話し、美味しい『牛タン定食』をご馳走になり
ちかくのスーパー銭湯に行ってサッパリして仙台を出発したのが昨日の夜9時半ころ。
ノリさんと2人で交代で運転しながら田原に今朝到着したってワケ。
距離にしたら1700Kmくらい???
すごいね、人間動けば不可能なことってない。
それにこの24時間の充実感はスゴすぎる。
遅ればせながら震災後初めて訪れた被災地。
まずは本当に行って良かったな、って思う。
それからまた行きたい、って思ってます。
震災から1年が過ぎ、行政からのボランティア派遣はほぼ終了しているようですが
個人団体でボランティア派遣を引き受けているこれまたボランティアの方たちがいらっしゃいます。
今回は山元町にある、その『テラセン(お寺のボランティアセンター)』にて指示を受け
お手伝いをしてきました。
まずは今年3月に石碑Pで行なった『ISSコールドウオーターチャリティカップ』
での余剰金をこの『テラセン』に預けこの地区の復興に使ってもらうようにお願いしてきました
こちらはツイッターやフェイスブックでも活動内容を公開していますので見てみて。
宮城県山元町。
ここは福島第1原発の避難区域からけっして遠いとはいえないエリア。
お隣も被害が大きかった亘理地区。
海はとてもよい波が立つポイントでも有名で海岸からは低い防波堤が建っているだけで
まったく平らな海と同じ高さに広がる町。
鉄道の『山元駅』もあり線路が海と並行して走っていました。
しかしこのエリア、津波の被害が大きく去年の9月まで一般の人の立ち入りは禁止。
災害後は自衛隊や消防の救援のみ、9月以降はボランティアによる撤去作業もはじまり
廃材などは分別してきれいに山積みされています。
しかし、きっといたるところに家があったであろう町並みはブロックの土台のみが残り
ポツンポツンと数えるほどの家が残っている程度で町は閑散としています。
しかもなんとか残った立派な家も1階部分はめちゃめちゃに破壊されていて、いまだにそのままの状態で放置されている家も多く見かけました。
この町のこのエリアにはほとんど誰も住んでいない。
いまだ仮設住宅から壊れた家に通い、農家を営んでいた人たちが少しずつ少しずつ復興に向けて作業をしている段階でした。
1年経ってもいまだ手付かずのこの山元町と
車で30分も走れば何も無かったように普通の生活をしている町並みもあるし
1時間もかからないところには大きなタウン、仙台市があることがすごいギャップでした。
ものすごく寂しい気持ちになるわたし達とは裏腹に
生まれ育った町を捨てきれず、塩水に浸かっってしまった田畑をもう一度イチから復興させようとがんばるオヤジさんたちの元気で明るい笑顔にこちらのほうが元気をもらう感じでした。
お隣もそのまたお隣の人も荷物をまとめて家を捨て町を出て行ってしまう。
そんな後姿を見ながらも『もう一度。。。』ってトライする60代のオヤジさんたち。
なんとか少しでも力になりたい。
応援したい。
頑張ってほしい。
。。。って微力ながらも感じた私でした。
家の前に松の木を植え、住む気満々。空いてる土地に田んぼの苗を育てるためのビニールハウスを3棟建てるお手伝いをしてきました。
オヤジさんは奥さんと2人暮らし。
津波の時は2階に逃げてなんとか助かったようですが2階の窓からは下を流されていくすべての濁流を見て『もうダメかも。。。』って思ったそうです。
奥さんはその後、怖くて家にも戻れない状態。
だけどオヤジさんは命が助かったことをポジティブに受け止め
一度は諦めかけたけど
『もう一度やろう』って奮起し、また来るかもしれない『津波』も『怖くない』って言っていました。
『来るなら来い!』
。。。って強い意志が伺えました。
オヤジさんたちの強い意志があればまもなく田畑は復興していくことでしょう。
ただ今だ進まない『第1原発事故』の放射能汚染はどうにもならないことが本当に残念。
自然災害はどこにでも起こりうること。
わたしたちの東海エリアでも明日起こるかもしれない。
それは時間があれば復興できる。
でも原発事故だけは起こってしまったらどうにもならない。
オヤジさんたちのパワーで『美味しい宮城のお米』、みんなが安心して食べられる野菜をもう一度作ってほしい、って心から思う。
そして2度とこんな悲惨な事故が起こらないよう
しっかりと意思を持ちたい、ってあらためて認識した1日でした。
安心してサーフィンを楽しみたい。
安全で美味しくヘルシーな物を食べたい。
平和で明るく健康に暮らしたい。
こんな普通の生活を続けていくために大切なことって何か、
もう一度みんなで考えてみましょう
今回いっしょに参加したメンバー☆
オーガナイズしてくれたYUZO、ありがとう&みんな、お疲れ様でした。
今朝6時ころ田原に到着しました~。
まだ1日しかたっていないなんて信じられない。。。。
日曜の夜10時頃家を出発して月曜の朝7時頃には現地、宮城県山元町に到着。
9時頃からボランティアのお仕事を手伝い夕方5時に終了。
それから仙台市泉にあるコホサーフボードのディーラー『Plus Colors』のショップに行ってオーナー遠藤さんとお話し、美味しい『牛タン定食』をご馳走になり
ちかくのスーパー銭湯に行ってサッパリして仙台を出発したのが昨日の夜9時半ころ。
ノリさんと2人で交代で運転しながら田原に今朝到着したってワケ。
距離にしたら1700Kmくらい???
すごいね、人間動けば不可能なことってない。
それにこの24時間の充実感はスゴすぎる。
遅ればせながら震災後初めて訪れた被災地。
まずは本当に行って良かったな、って思う。
それからまた行きたい、って思ってます。
震災から1年が過ぎ、行政からのボランティア派遣はほぼ終了しているようですが
個人団体でボランティア派遣を引き受けているこれまたボランティアの方たちがいらっしゃいます。
今回は山元町にある、その『テラセン(お寺のボランティアセンター)』にて指示を受け
お手伝いをしてきました。
まずは今年3月に石碑Pで行なった『ISSコールドウオーターチャリティカップ』
での余剰金をこの『テラセン』に預けこの地区の復興に使ってもらうようにお願いしてきました
こちらはツイッターやフェイスブックでも活動内容を公開していますので見てみて。
宮城県山元町。
ここは福島第1原発の避難区域からけっして遠いとはいえないエリア。
お隣も被害が大きかった亘理地区。
海はとてもよい波が立つポイントでも有名で海岸からは低い防波堤が建っているだけで
まったく平らな海と同じ高さに広がる町。
鉄道の『山元駅』もあり線路が海と並行して走っていました。
しかしこのエリア、津波の被害が大きく去年の9月まで一般の人の立ち入りは禁止。
災害後は自衛隊や消防の救援のみ、9月以降はボランティアによる撤去作業もはじまり
廃材などは分別してきれいに山積みされています。
しかし、きっといたるところに家があったであろう町並みはブロックの土台のみが残り
ポツンポツンと数えるほどの家が残っている程度で町は閑散としています。
しかもなんとか残った立派な家も1階部分はめちゃめちゃに破壊されていて、いまだにそのままの状態で放置されている家も多く見かけました。
この町のこのエリアにはほとんど誰も住んでいない。
いまだ仮設住宅から壊れた家に通い、農家を営んでいた人たちが少しずつ少しずつ復興に向けて作業をしている段階でした。
1年経ってもいまだ手付かずのこの山元町と
車で30分も走れば何も無かったように普通の生活をしている町並みもあるし
1時間もかからないところには大きなタウン、仙台市があることがすごいギャップでした。
ものすごく寂しい気持ちになるわたし達とは裏腹に
生まれ育った町を捨てきれず、塩水に浸かっってしまった田畑をもう一度イチから復興させようとがんばるオヤジさんたちの元気で明るい笑顔にこちらのほうが元気をもらう感じでした。
お隣もそのまたお隣の人も荷物をまとめて家を捨て町を出て行ってしまう。
そんな後姿を見ながらも『もう一度。。。』ってトライする60代のオヤジさんたち。
なんとか少しでも力になりたい。
応援したい。
頑張ってほしい。
。。。って微力ながらも感じた私でした。
家の前に松の木を植え、住む気満々。空いてる土地に田んぼの苗を育てるためのビニールハウスを3棟建てるお手伝いをしてきました。
オヤジさんは奥さんと2人暮らし。
津波の時は2階に逃げてなんとか助かったようですが2階の窓からは下を流されていくすべての濁流を見て『もうダメかも。。。』って思ったそうです。
奥さんはその後、怖くて家にも戻れない状態。
だけどオヤジさんは命が助かったことをポジティブに受け止め
一度は諦めかけたけど
『もう一度やろう』って奮起し、また来るかもしれない『津波』も『怖くない』って言っていました。
『来るなら来い!』
。。。って強い意志が伺えました。
オヤジさんたちの強い意志があればまもなく田畑は復興していくことでしょう。
ただ今だ進まない『第1原発事故』の放射能汚染はどうにもならないことが本当に残念。
自然災害はどこにでも起こりうること。
わたしたちの東海エリアでも明日起こるかもしれない。
それは時間があれば復興できる。
でも原発事故だけは起こってしまったらどうにもならない。
オヤジさんたちのパワーで『美味しい宮城のお米』、みんなが安心して食べられる野菜をもう一度作ってほしい、って心から思う。
そして2度とこんな悲惨な事故が起こらないよう
しっかりと意思を持ちたい、ってあらためて認識した1日でした。
安心してサーフィンを楽しみたい。
安全で美味しくヘルシーな物を食べたい。
平和で明るく健康に暮らしたい。
こんな普通の生活を続けていくために大切なことって何か、
もう一度みんなで考えてみましょう
今回いっしょに参加したメンバー☆
オーガナイズしてくれたYUZO、ありがとう&みんな、お疲れ様でした。