それでは、<厚生年金基金のミイラ化>という事態は、何を象徴しているのでしょうか。行政サイドからと企業サイドから考えて見ましょう。
一口で断言すれば、それは日本の社会全般にわたる戦後方式の機能不全ということ、それを証明しているのが超低金利でしょう。
行政サイドにすれば、政治を巻き込んでの戦後官僚体制、つまり統制・計画経済の手法が手詰まりになったということ。企業サイドでは培われてきた日本型資本主義(本来の株主がいない資本主義の作り出した数々のインフラストラクチャーの束、持ち合い、含み益経営、ゼネラリストの法人代表、三種の神器等)の統治能力が効かなくなってしまったということ。
この両者に共通している考え方のスタイルは演繹的思考法式、ちなみにマルクスやケインズのよう、あるいは欧州大陸的なと言うか、始めに理念有りき、という思考スタイルです。
いずれにしろ、嵌まり込んだこのドロ沼から抜け出すのは大変なことです。その大変さは、全面的な解決策、官僚の好きな「抜本策」、ゼネラリトの改善計画、天才のひらめき等々では効果が期待出来ない点にあります。それは、持ち合いではないですが、<持ち寄る>ということでしか達成されないような<或るもの>なのです。
小手先の改善に留まり、従前を引きズルか、まったく新しいものとして再生するのか、今後の興論・議論に待つところが大きいと考えられますが、財政運営の弾力化、給付設計の弾力化もさることながら、基金の独立法人としての地位を確立・担保したいものです。
厚生省と厚生年金基金連合会と基金と内外金融機関等との協力のもとに基金に蓄積された、蓄積されつつある基金制度のインフラ(財政診断手法、受託者責任、受給権保護、時価評価基準、支払保証制度、数理無用論、資産運用ノウハウ等々)は、問題含みの経過的な成果とは言え日本に唯一確立されたものであり、今後の日本の年金文化、資産運用文化の中心足りえるものと考えられるし、現行法体系の歪を組み替えるときの基盤足りえるものでしょう。
この基盤のうえに、政府の金融ビッグバンの指針を生かし「公的年金はスリム化していかなければなりません。これは大方のコンセンサスですし、日本の置かれた状況を見るとその方向しかありません。」(厚生年金基金連合会発行「企業年金」2000/2月号-インタビュー矢野朝水厚生省年金局長に聞く)のかもしれません。日本人の老後生活も、アメリカのように<家族→制度→個人>(フィディリティのプレゼンテーション)という方向へ動き出しているのでしょうか。
2.基金問題のインパクト
●<人様のお金>が要請する効率市場
厚生年金基金に積み上がった年金資産(Other people's money)の実態は<人様のお金>だが、これを効率的に運用したいという基金の希望はシンプルです。不幸なことにこのシンプルさを達成することが従来拒まれていたのです。そこで、基金が要請するというより、<人様のお金>が要請する効率市場をどう確保・確立して行くかが問われることになりましょう。
始めに、過去に何度か行われた市場操作(PKO)に代表される大蔵省・通産省の産業資本移転は日本経済にとって無用になっているという認識が必要、今になっては余計なお世話ですし機能しなくなっているということは白日の下に晒されています。
次に、企業サイドには日本独特の資本主義(本来の株主がいない法人資本主義)の改造が必要、とはいえこれは現在、<平成の黒船>である国際会計基準への対応で海外から強要されてはいますが。
この対応である含み益経営のキャッシュ・フロー経営化、株式持ち合いの解消、退職金の後払い賃金説の導入、EVA等の企業評価指標による株式価値算定等々の大波が各企業を襲っていますが、これは逆に言えば、これらの種々な手法の逆の手法で大幅な市場操作(PKO)を産業資本配分の大義で政治・司法を巻き込んで大蔵省・通産省は行ってきたということです。
これが日本の統制・計画経済、日本型資本主義の実態であったのでしょう。そこには、資本の論理を全面的に制御・懐柔しようというマルクス主義的なロジックが仕掛けられていたということでしょう。
ここでは、<人様のお金>という個人の金は国家目的に、更に日本独特な企業経営の文脈(For the Kaisha)に没収されていたのです。この意味では、日本は崩壊したソ連以上に成功した(?)共産主義国であったのでしょう。国の復興、礎の確立をなし得て、世界一の債権国、つまりストックの積み上げを果たしたのですから世界で唯一共産主義の成功例ということです。その点では、中国にすら勝っているでありましょう。しかし、成功した共産主義とは言え、孤立したこの世界は現実に立ち行かなくなっているのです。
次に、行政サイドの規制の網、特に5.3.3.2規制に代表される資産運用に対するそれは失われた損失を考えると気の遠くなる程であります。幸い、最近これはほとんど撤廃されました。
さらに、資産運用機関にはお上の方を向くことなくエンド・ユーザーに向いた質の高いサービスの提供を負託されるでありましょう。敵対的な「契約」的経営から負託に応じる「信認」的経営への移行を期待したいものです。
そこでは、一定限度以上の株式取得により持ち合い株を滞留させ流動性を阻害するなどということは考えられません。基金は、そういう手段になる恐れのある資金を信託銀行や生命保険会社へ資産運用とは言え提供してはなりません。基金は、委託先が無くなってしまうなどと言うぬるま湯感覚を脱却し新しい運用機関を探すことになりましょう。お任せ運用の無責任体質はこういうところに本質的な問題を秘匿しているのです。
それこそ、基金の受託者責任を果たせなくなるのではないでしょうか。そういう運用機関が残存するのであれば、それこそ議決権行使の対象でしょう、あるいはそういう運用機関は使うに足りないということでありましょう。
そのような運用機関の解約、撤退、シェアの削減、限定使用等々、基金の選別が始まっています。つまり、効率市場を阻害する運用機関に資産運用を委託するなどということは考えられなくなってきているのです。そのような運用機関をターゲットにした基金の戦略(筆者は、事務所で「資産運用機関の勝手格付け」というのを試みています)というのが現実に動き始めていますが、個々の基金の力は未だ運用機関にとっては脅威とまでは認識されていないようです。
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