(2)「年金基金」というビジョン
①時代の要請
30年余経過してきた厚生年金基金は、凍結の事態となりしばしの執行猶予を宣せられたのですが、これをもっけの幸いとしてこの間に厚生年金基金制度の抜本的・根本的な問題を考えるべき時なのでしょう。
厚生年金基金は、ここにきて官民両方の苦境の影響を全面的に受けることになってしまいました。厚生省の凍結の事態は、公的年金のスリム化という要請が現実的な対応の場面で暗礁に乗り上げましたということであり、その派生現象で、基金も同様の凍結の事態になったということです。一方、企業の退職金は退職給付債務会計の導入で賃金後払い説に断定されたということで、突然の巨額債務の出現により、代行返上や給付削減や基金解散や、さらには確定拠出型年金への移行等が議論されるようになってきました。
とは言え、単に基金の問題ばかりを切り離して直線的に考えるということはもはや出来ない錯綜した事態になっていますし、それは世界レベルの経済・社会の動向を踏まえ、日本の政治・財政・法律・行政・経済・社会・金融・企業動向等の多面的踊り場を巻き込む必要があることを多くの人々がコンセンサスとしてきているのです。
それには、アインシュタインも言うように文脈の変更、経路の再構築が必要でしょう。曰く「人類が直面しているさまざまな難問は、それが出てきた思考のレベルでは解決できない。思考のレベルを変えるべきです。人類が今なさねばならないのは、新しい思考を発見することだ。」(日比野省三『突破の科学』)というように。
そして私たちが、400年間パラダイムの支配者であったデカルト思考に代わる
パラダイムとして提案したのがブレイクスルー思考なのだ。・・・・・・・。ブレイクス
ルー思考は、デカルト思考のように穴を掘って、要素部分に入り込んで物事を考え
る思考ではない。山に登り、全体から物事を考える思考方法なのだ。
そこで重要なのはシステム論だ。システムは、「①複数の要素があり、②その要
素のあいだに、互いに関連性があり、③目的・機能をもつもの」と定義できる。
日比野省三『突破の科学』ー「ブレイクスルーを使いこなす」
(私事に渡りますが、筆者のこの『人様のお金』の論究は、ことによると「新しい思考」の発見を目指している方法論探求の作業なのかもしれないと、再々の<突然の羞恥>の到来があるのに無知と明晰さに欠けた傲慢な文章を書きながら顔面を赤らめつつ、僭越にも、ふと考えてしまいました。
ここまで読み進んでいただきました皆さんも、スパッと切り裂いた明晰な知性の舌鋒の鋭さとは無縁の重複部分の再々の登場に、忍耐も事切れる状態に放り置かれ、もうとっくにこの本を投げ出したくなっていらっしゃるでしょう。
落着しそうもない無数の素材の衝突、抽象化されることのない過剰なフレーズの浮遊、
否定につぐ否定のダメージ、一向に見えてきません新たな建設、ドメスティックなもののマドリングスルーな乱舞……・。ことによると、このように捨象しきれないドメスティックなもののムーブメントの渦中に放り置かれて、人知れず強制されているのかも知れない思考のレッスンに思わず<断定の大鉈>を振り落としましょうとしていらっしゃることでしょう。いつまでも<決まらない>、というか<決めない>筆者に怒りさえ感じていらっしゃるでしょうと考えられます。
そうではありましょうが、皆さん、いましばらくの猶予をお願いいたします。もう、終わりにしますので。)
②政府からも企業からも独立
そこで、基金問題の最も根本的な問題としてあるのが、厚生年金基金と言えば、<社会保障代行制度>と<企業退職金代替制度>ということに集約されてきましたが、この是非について議論を避ける訳にはいかないでしょう。この際、徹底的にこの点を極めなければなら
ないでしょう。
厚生年金基金に課せられた機能が、国の社会保障政策の一環として所得再分配機能なのか、国費のコスト削減機能なのか、あるいは又、企業法人の功労報奨的退職金の非課税対策手段なのか。何れにしても、両者共その根幹にある方法論は統制というスタイルであるのは上述してきたとおりであり、両者共その対象(国民であり従業員)の<上からの強制>、<知らしめず>のファッショ的支配であることには違いがありません。
赤ん坊はぼやけた目で私を見ようとした。その瞬間、妻と私はウォール街なんか
どうでもよくなってしまうような素晴らしい仲間なんだと知った。もし私がこの時
の考えを心の中心に保持していることができたら、多分すべてが全く違ったものに
なっていたことだろう。
しかし、私自身がいろいろな意味で赤ん坊であった。
D.レビン/W.ホファー『インサイドアウト』
ーウォール街証券マンの栄光と転落
どちらにしても、多様に議論することは出来るでありましょうが、官民互いに都合良く互いの権益確保のために統制手法のファッショで厚生年金基金を勝手に使ってきた経緯は拒みようもありません。このレベルでは、<人様のお金>という認識はなく、互いに<自分たちの金>呼ばわりしてやってこられたのでしょう。そこに基金の使い勝手の良さがあったのですし、そういう機能の重複している点に曖昧さが積算され、概念の混乱、合成の誤謬をもたらしたとも考えられるのではないでしょうか。厚生年金本体とその代行の凍結の事態と退職給付債務導入のPBO爆弾の事態で、従来の概念、機能はすでに限界にきたことを明示したのであります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/83/0e64ff4328710dc3f222a78402500244.jpg)
ことここに至って、厚生年金基金の機能を官僚と法人資本主義の統制手法から分離しました明確なコンセンサスにすることが要請されるのではないでしょうか。つまり、政府も企業も背景に退かせ、政府からも企業からも独立しました法人として、社会保障と退職金の頚木から脱した民間企業社員の老後資金システムとして機能させるようには出来ないものでしょうか。統制から自由になりましたフレームワークを創れないものでしょうか。
これを達成するためには、当面「顔の見えない厚生年金基金」に対する工夫、ハイブリット型等への変更検討や加入員台帳の定期配布(年金額だけではなく政府の免除掛金額と企業の掛金負担額も明示しました)や、WWW上に加入員個々の現在値(または将来の予想値年金額)を情報公開(前ぺージ参照)するとか、企業は一定率の掛金拠出のみで積立不足金の企業負担も掛金抑制やコントリュビューション・ホリディもない財政運営、金融子会社として登記、柔軟な給付制度の確立、理事会の権限充実、代議員会の廃止、会社人事から独立した基金採用の人事、事務費掛金の返上、年金経理から事務費の捻出、企業のIR活動のような情報開示の徹底、とくにインターネット等を使いましたスピーディーな双方向情報のやり取り等々、課題山積を工夫していかなければならないでしょう。招来的には、年金適用・給付事業と資産運用事業を分離し、年金適用・給付事業はアウトソーシングとし、資産運用事業は金融子会社にしてインハウス運用とすることなども検討することになりましょう。
③厚生年金基金のインフラ・ノウハウ
30年余の経験の蓄積されたもの、或いは一部形成途上、又は試行錯誤中とは言え、厚生年金基金を中核としてまがりなりにも官民の協力で打ち立てられた老後資金確保のインフラ・ノウハウは、日本では他に類を見ない貴重な無形財産です。企業年金の今一つの制度の適格年金の世界にそういうものがあるかと言えば、資産運用基本方針も、資産運用委員会も、時価評価基準も、財政運営規程も、分散投資手法も、受託者責任研究会も、支払保証事業等もないままです。だいたいが適格年金は年金ではなく、一時金制度なのです。又、機関運用を別にして、個人の資産運用の世界でも何かそのようなインフラ・ノウハウが育成されているかと言えば、投資信託、商品ファンド等で一部インフラ整備が始まったばかりという程度でしょう。更に、企業の財務畑のゼネラリストが考える余資運用とは、年金の資産運用がインフラ・ノウハウの点でも全く性格が違うことを認識していない現実があります。だいいち、資産を<自分たちの金>だと思い、<人様のお金>などという意識はまったくないし、だいたいが資産運用そのものに関するインフラの整備さえ皆無なのですから。
基金は、このような状況で日本の資産運用文化形成のフロント・ランナーとして、経験と形成されたもの、形成されつつあるものの基盤の上に、更に一層の研鑽が求められるところです。法理(契約と信認)、財政(統制計画経済と市場経済)、行政(裁量行政から事後監視型行政)、会計(簿価から時価)、資産運用(お任せ運用から運用指図)、国民意識(依存体質から独立独歩へ、サラリーマンからオーナー意識へ)等々の多方面の各ジャンルの展開を刺激し促進していくことになります。
ロッキィーズ物語
19 さよならメッセージ
拝啓 新年も明け、新チームづくりに希望を馳せておられることと存じます。年
頭より、兵庫南部地震があり、なにやら不安な気持ちの幕開けとなりました。
さて、昭和五十二年春、新林の杜に少年野球クラブとしてスタートし、皆様に愛
され、皆様と共に活動して参りました「新林ロッキーズ」、残念な気持ちでいっぱ
いですが、部員が少なくなりチーム構成が不能となり、十八年の活動の歴史に幕を
閉じることになりました。
永い間、本当に、本当に有難うございました。
その間、皆様から頂きました熱き友情、暖かい励まし、そして、数多くのよき想
い出と、チーム一同、深く感謝申し上げると共に、心より御礼申し上げます。
想い出のたくさんつまった十八年、チーム関係者も野球優先の休日でしたが、こ
れからはそれぞれが何かを見つけていくことでしょう。ただ、野球を忘れることは
出来ません。これからも、街でお会いしましたら声をかけさせていただきますし、
暫くはグランドに足が向くかもしれません。その節はよろしくお願い申し上げます。
本来でしたら、ご挨拶に伺い御礼を申し上げるべきはずではございますが、まず
は、書中をもって御礼方々ご挨拶申し上げます。
皆様方のご健康とチームのご活躍を心より、心よりお祈り申し上げます。
最後に、熱き友情を永遠にお願い申し上げ、ご挨拶とさせて頂きます。
敬具
平成7年2月1日
新林ロッキィーズ
代表 N.R
コーチ 一同
①時代の要請
30年余経過してきた厚生年金基金は、凍結の事態となりしばしの執行猶予を宣せられたのですが、これをもっけの幸いとしてこの間に厚生年金基金制度の抜本的・根本的な問題を考えるべき時なのでしょう。
厚生年金基金は、ここにきて官民両方の苦境の影響を全面的に受けることになってしまいました。厚生省の凍結の事態は、公的年金のスリム化という要請が現実的な対応の場面で暗礁に乗り上げましたということであり、その派生現象で、基金も同様の凍結の事態になったということです。一方、企業の退職金は退職給付債務会計の導入で賃金後払い説に断定されたということで、突然の巨額債務の出現により、代行返上や給付削減や基金解散や、さらには確定拠出型年金への移行等が議論されるようになってきました。
とは言え、単に基金の問題ばかりを切り離して直線的に考えるということはもはや出来ない錯綜した事態になっていますし、それは世界レベルの経済・社会の動向を踏まえ、日本の政治・財政・法律・行政・経済・社会・金融・企業動向等の多面的踊り場を巻き込む必要があることを多くの人々がコンセンサスとしてきているのです。
それには、アインシュタインも言うように文脈の変更、経路の再構築が必要でしょう。曰く「人類が直面しているさまざまな難問は、それが出てきた思考のレベルでは解決できない。思考のレベルを変えるべきです。人類が今なさねばならないのは、新しい思考を発見することだ。」(日比野省三『突破の科学』)というように。
そして私たちが、400年間パラダイムの支配者であったデカルト思考に代わる
パラダイムとして提案したのがブレイクスルー思考なのだ。・・・・・・・。ブレイクス
ルー思考は、デカルト思考のように穴を掘って、要素部分に入り込んで物事を考え
る思考ではない。山に登り、全体から物事を考える思考方法なのだ。
そこで重要なのはシステム論だ。システムは、「①複数の要素があり、②その要
素のあいだに、互いに関連性があり、③目的・機能をもつもの」と定義できる。
日比野省三『突破の科学』ー「ブレイクスルーを使いこなす」
(私事に渡りますが、筆者のこの『人様のお金』の論究は、ことによると「新しい思考」の発見を目指している方法論探求の作業なのかもしれないと、再々の<突然の羞恥>の到来があるのに無知と明晰さに欠けた傲慢な文章を書きながら顔面を赤らめつつ、僭越にも、ふと考えてしまいました。
ここまで読み進んでいただきました皆さんも、スパッと切り裂いた明晰な知性の舌鋒の鋭さとは無縁の重複部分の再々の登場に、忍耐も事切れる状態に放り置かれ、もうとっくにこの本を投げ出したくなっていらっしゃるでしょう。
落着しそうもない無数の素材の衝突、抽象化されることのない過剰なフレーズの浮遊、
否定につぐ否定のダメージ、一向に見えてきません新たな建設、ドメスティックなもののマドリングスルーな乱舞……・。ことによると、このように捨象しきれないドメスティックなもののムーブメントの渦中に放り置かれて、人知れず強制されているのかも知れない思考のレッスンに思わず<断定の大鉈>を振り落としましょうとしていらっしゃることでしょう。いつまでも<決まらない>、というか<決めない>筆者に怒りさえ感じていらっしゃるでしょうと考えられます。
そうではありましょうが、皆さん、いましばらくの猶予をお願いいたします。もう、終わりにしますので。)
②政府からも企業からも独立
そこで、基金問題の最も根本的な問題としてあるのが、厚生年金基金と言えば、<社会保障代行制度>と<企業退職金代替制度>ということに集約されてきましたが、この是非について議論を避ける訳にはいかないでしょう。この際、徹底的にこの点を極めなければなら
ないでしょう。
厚生年金基金に課せられた機能が、国の社会保障政策の一環として所得再分配機能なのか、国費のコスト削減機能なのか、あるいは又、企業法人の功労報奨的退職金の非課税対策手段なのか。何れにしても、両者共その根幹にある方法論は統制というスタイルであるのは上述してきたとおりであり、両者共その対象(国民であり従業員)の<上からの強制>、<知らしめず>のファッショ的支配であることには違いがありません。
赤ん坊はぼやけた目で私を見ようとした。その瞬間、妻と私はウォール街なんか
どうでもよくなってしまうような素晴らしい仲間なんだと知った。もし私がこの時
の考えを心の中心に保持していることができたら、多分すべてが全く違ったものに
なっていたことだろう。
しかし、私自身がいろいろな意味で赤ん坊であった。
D.レビン/W.ホファー『インサイドアウト』
ーウォール街証券マンの栄光と転落
どちらにしても、多様に議論することは出来るでありましょうが、官民互いに都合良く互いの権益確保のために統制手法のファッショで厚生年金基金を勝手に使ってきた経緯は拒みようもありません。このレベルでは、<人様のお金>という認識はなく、互いに<自分たちの金>呼ばわりしてやってこられたのでしょう。そこに基金の使い勝手の良さがあったのですし、そういう機能の重複している点に曖昧さが積算され、概念の混乱、合成の誤謬をもたらしたとも考えられるのではないでしょうか。厚生年金本体とその代行の凍結の事態と退職給付債務導入のPBO爆弾の事態で、従来の概念、機能はすでに限界にきたことを明示したのであります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/83/0e64ff4328710dc3f222a78402500244.jpg)
ことここに至って、厚生年金基金の機能を官僚と法人資本主義の統制手法から分離しました明確なコンセンサスにすることが要請されるのではないでしょうか。つまり、政府も企業も背景に退かせ、政府からも企業からも独立しました法人として、社会保障と退職金の頚木から脱した民間企業社員の老後資金システムとして機能させるようには出来ないものでしょうか。統制から自由になりましたフレームワークを創れないものでしょうか。
これを達成するためには、当面「顔の見えない厚生年金基金」に対する工夫、ハイブリット型等への変更検討や加入員台帳の定期配布(年金額だけではなく政府の免除掛金額と企業の掛金負担額も明示しました)や、WWW上に加入員個々の現在値(または将来の予想値年金額)を情報公開(前ぺージ参照)するとか、企業は一定率の掛金拠出のみで積立不足金の企業負担も掛金抑制やコントリュビューション・ホリディもない財政運営、金融子会社として登記、柔軟な給付制度の確立、理事会の権限充実、代議員会の廃止、会社人事から独立した基金採用の人事、事務費掛金の返上、年金経理から事務費の捻出、企業のIR活動のような情報開示の徹底、とくにインターネット等を使いましたスピーディーな双方向情報のやり取り等々、課題山積を工夫していかなければならないでしょう。招来的には、年金適用・給付事業と資産運用事業を分離し、年金適用・給付事業はアウトソーシングとし、資産運用事業は金融子会社にしてインハウス運用とすることなども検討することになりましょう。
③厚生年金基金のインフラ・ノウハウ
30年余の経験の蓄積されたもの、或いは一部形成途上、又は試行錯誤中とは言え、厚生年金基金を中核としてまがりなりにも官民の協力で打ち立てられた老後資金確保のインフラ・ノウハウは、日本では他に類を見ない貴重な無形財産です。企業年金の今一つの制度の適格年金の世界にそういうものがあるかと言えば、資産運用基本方針も、資産運用委員会も、時価評価基準も、財政運営規程も、分散投資手法も、受託者責任研究会も、支払保証事業等もないままです。だいたいが適格年金は年金ではなく、一時金制度なのです。又、機関運用を別にして、個人の資産運用の世界でも何かそのようなインフラ・ノウハウが育成されているかと言えば、投資信託、商品ファンド等で一部インフラ整備が始まったばかりという程度でしょう。更に、企業の財務畑のゼネラリストが考える余資運用とは、年金の資産運用がインフラ・ノウハウの点でも全く性格が違うことを認識していない現実があります。だいいち、資産を<自分たちの金>だと思い、<人様のお金>などという意識はまったくないし、だいたいが資産運用そのものに関するインフラの整備さえ皆無なのですから。
基金は、このような状況で日本の資産運用文化形成のフロント・ランナーとして、経験と形成されたもの、形成されつつあるものの基盤の上に、更に一層の研鑽が求められるところです。法理(契約と信認)、財政(統制計画経済と市場経済)、行政(裁量行政から事後監視型行政)、会計(簿価から時価)、資産運用(お任せ運用から運用指図)、国民意識(依存体質から独立独歩へ、サラリーマンからオーナー意識へ)等々の多方面の各ジャンルの展開を刺激し促進していくことになります。
ロッキィーズ物語
19 さよならメッセージ
拝啓 新年も明け、新チームづくりに希望を馳せておられることと存じます。年
頭より、兵庫南部地震があり、なにやら不安な気持ちの幕開けとなりました。
さて、昭和五十二年春、新林の杜に少年野球クラブとしてスタートし、皆様に愛
され、皆様と共に活動して参りました「新林ロッキーズ」、残念な気持ちでいっぱ
いですが、部員が少なくなりチーム構成が不能となり、十八年の活動の歴史に幕を
閉じることになりました。
永い間、本当に、本当に有難うございました。
その間、皆様から頂きました熱き友情、暖かい励まし、そして、数多くのよき想
い出と、チーム一同、深く感謝申し上げると共に、心より御礼申し上げます。
想い出のたくさんつまった十八年、チーム関係者も野球優先の休日でしたが、こ
れからはそれぞれが何かを見つけていくことでしょう。ただ、野球を忘れることは
出来ません。これからも、街でお会いしましたら声をかけさせていただきますし、
暫くはグランドに足が向くかもしれません。その節はよろしくお願い申し上げます。
本来でしたら、ご挨拶に伺い御礼を申し上げるべきはずではございますが、まず
は、書中をもって御礼方々ご挨拶申し上げます。
皆様方のご健康とチームのご活躍を心より、心よりお祈り申し上げます。
最後に、熱き友情を永遠にお願い申し上げ、ご挨拶とさせて頂きます。
敬具
平成7年2月1日
新林ロッキィーズ
代表 N.R
コーチ 一同
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