開催日:2012年5月12(土)・13日(日)
参加人数:約18台・20名(タンデム2台)
天候:12日は晴れところにより曇り、13日は快晴
今回の一泊ツーリングは渋温泉(金具屋)に泊まり小布施(小京都)・信州善光寺・戸隠(蕎麦の里)をたずねる旅です。一寸プレミアムな歴史を尋ねる趣のある企画をしました。
小布施にある『寄り付き料理の蔵部』で昼食をとりました。
モノトーンで統一された店内は高級感もあり、味だけでなく目でも楽しませて頂きました。蔵部は桝一市村酒造場の酒蔵の一部を改装して作った和食レストランで、名前の由来もここにあります。 その酒蔵で造られた日本酒と、レストランの中心部に据えられた竈(かまど)で炊かれたご飯をお楽しめます。今回はお酒抜きで信州牛ロースの重ね焼きをいただきました。
小布施は栗と北斎と花の街。
小布施は北信濃にあって千曲川東岸に広がる豊かな土地です。特に千曲川の舟運が発達した江戸時代には、交通と経済の要所として栄えました。当時は定期的な市「六斎市」がたち、人、物、情報が集まる北信濃の文化的中核ゾーンでした。交通のクロスポイント「逢う瀬」が現在の地名の由来と言われています。
小布施は観光用に作られた街ではありません。伝統的に生産されて来た栗菓子製造などの産業や、育まれ継承されてきた独自の文化は、そのまま現在の街に自然と溶け込み活かされています。小布施において「文化」とは過去のものではなく現在そのものです。
遠方からの訪問者をお迎えするホスピタリティは、はるか昔より受け継がれてきました。住む人も訪れる人も幸せになれる町づくりのために様々な取り組みがなされています。たとえば「オープンガーデン」。住む人が心を込めてつくった自宅の庭をも来訪者に公開し、楽しんでもらおうという試みです。これは町内全域にくまなく広がり、小布施が「花のまち」として呼ばれるまでにもなりました。
歴史の宿『金具屋』
金具屋は宿屋になる前は松代藩出入の鍛冶屋でした。前を通る道は、善光寺と草津を結ぶ草津街道であり、志賀高原の山越えの宿場町として栄えていたのが渋温泉でした。当時の交通手段は馬や徒歩、馬具の整備や蹄鉄を作っておりました。ところが宝暦四年(1754年)、裏山「神明山」が崩れ、渋はほぼ半分が土砂に埋まるという壊滅的な被害をうけます。金具屋のあった場所も土砂に埋まってしまいました。その災害の復旧中に敷地内より温泉が湧出し、それを機に宝暦八年(1758)に宿屋となりました。前身が鍛冶屋であったため、当時の松代藩主から「金具屋」と命名されたということです。これが金具屋の創業となります。現在の渋温泉が傾斜地になっているのはこのとき崩れた土砂の上に街が作り直されたためです。
渋温泉の老舗旅館、金具屋は、『千と千尋の神隠し』に出てくる旅館「油屋」のモデルになった旅館ということです。金具屋さんの、昭和初期の建物「斉月楼」が千と千尋に出てくる油屋のモデルだとか。 さらに、渋温泉の温泉街は、迷路のように結構入り組んでいて、細い路地道など、まさしく映画と錯覚してしまいそうです。ところで、この老舗旅館、金具屋さんは、国登録有形文化財である「斉月楼」「大広間」を中心に、古きよき日本の温泉旅情を残しております。4つの専用源泉を持ち、泉質の異なる3つの大浴場、無料・予約不要の5つの貸切風呂をめぐる館内八湯めぐりが好評で、もちろんすべて源泉かけ流しで一晩中楽しめます。
昔の建物をそのまま残しておりますので不便な点もありますが、日本建築に興味のある方、温泉が本当にお好きな方におすすめです。もちろん金具屋さん以外にも、渋温泉には、旅館35軒+外湯9ヵ所、源泉の本数は37ヶ所もある温泉街です。カランコロンと下駄を履いての共同浴場の外湯巡りがおすすめです。
金具屋には国の登録文化財に認定されている建物が2棟あります。ひとつは木造4階建ての 「斉月楼」もうひとつは本間130畳の折上げ格天井両方とも昭和11年に完成した建物です。
昭和初期頃の旅館建築というものはそもそもそれまでの日本建築の伝統やしきたりにとらわれない遊び心に富んだ異色な建築が特徴です。現代では存在しえない、当時の宮大工さんの技術や心意気を感じてもらえればと思っています。
信州 善光寺(1400年にわたって参詣者が絶えないご利益のある古刹)
信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。
『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。
↓戸隠神社 中社
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。
境内には雪が残っており、5月半ばではありますが、さくらが満開でした。そして、昼食は戸隠神社の中社大鳥居のすぐ横にある戸隠そばの「うずら家」大行列が出来る人気店です。事前予約はできませんが、バイクで20名で伺いますとの連絡を快く受けて頂き、駐車場を確保して頂きました。蕎麦の味は参加したみなさんで評価はそれぞれ違うと思いますが、私は次回も機会があれば、並んででも食べに伺いたいと思っています。
帰路は戸隠神社奥社前を通過して黒姫山、妙高高原・妙高山を眺めながらツーリングを楽しみました。道の駅「しなの」で休憩をして上信越自動車道・信濃町のICより帰路につきました。
二日間とも天候に恵まれ、昭和のよき時代を感じさせてもらえる温泉と長野県北部の観光名所を堪能することが出来ました。
参加されましたメンバーの皆様、お疲れ様でした。全員が楽しい観光とツーリングが出来て、大成功であったと考えております。また、今回参加できなかった方には次回のツーリングで今回以上に楽しんでいただきたいと考えておりますので、またの機会もよろしく御願いいたします。
Photo/Text by Three village