この家は、以前 吉祥寺を”街歩き”していて見つけた まことちゃんハウス(漫画家の楳図かずお邸:現在は住んでいない)。
この家ができた当時、「地域の建物としてふさわしくない」と住民から訴訟を起こされました。
赤白の外壁だけみると、当時の、庭木がない状態(木が植えられたばかりで小さい状態)、で見れば、やはり強烈で、「こんな家を毎日見るのは耐えられない」と思う気持ちもわかります。
それから約10年、木は大きく育ち、家をやんわりと隠していました。
今となっては、それほど「嫌」という感情を起こさせるほどではないと思います。
最初から大きな木を植えていれば、住民の感情も変わったのかもしれません。
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この家はハウスメーカーの家だそうで、設計事務所、、建築家、、が設計したわけではありません。
楳図かずおさんという強烈な作家の”表現”です。これも”作品”と言っていいのでしょう。
建築家にたいする一般の人のイメージも、「自分の作品をつくる人」。
確かにそうゆう人は多くいましたし、今はだいぶ変わったけれど、それでも自分の「作品」として設計する人は多いです。意識の大小はあるでしょうけど。。
正直言えば、私にもそれはあります。
ただ、私の設計において、それが”第一”ではありません。
『建築は街を形づくるパーツ』という意識を持って設計しています。
調和するものであり、活性化する力を与えるものでもありたいと思います。
では、
何を持って『作品』なのか?
『受け入れられる作品』と『受け入れられない作品』の境界はどこなのか?
その線引きは難しいです。
『作品性』を追求する事は悪い事ではないと思います。
”デザイン”とは、世界を変える力もあるし、周囲の魅力を再発見し生かす力もあります。
ただ建築は、、、そこに「人」が「使う」という事の上に成り立ちます。
しかも、単体のその建築”内”だけでなく、前を通る人にも、隣の人にも関わってくるものです。
ですから
『作品性』『評価の基準』 の線引きができない以上
設計者、オーナー(発注者) の『自己表現』 だけではいけないと思います。
それは・・・例えば
まことちゃんハウスは、すごく大きな土地の中でなら
誰も文句は言いません。
大きな木で隠されるなら、それほど違和感や嫌悪感をもたれなかったでしょう。
つまり・・・
周囲の人との 感情・感覚 との間に、”物理的な距離感”や目隠しのような”心理的な距離感”があれば
人の気持ちはそうそう刺激されないのです。
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”距離感”を考えていない建築は結構あります。
それはなにも建築家が設計したものだけでなく
ハウスメーカーやディベロッパーの作るものにも多くあります。
そして個人でも「自分の家だから何してもいいだろ」という考えの行動は
同様です。
一歩下って見てみる・・・
”隣の家(土地)から自分の家(建築)を見る”という考察をしてみる・・・
そうゆう『俯瞰する』事が大切です。