horitaakioのgooブログ

88歳の老人ですけれど、天寿の続く限り頑張って見たいと思います

慌しい九月

2005-09-15 11:10:00 | 日記


♪し~ずか~な~し~ずかな~~♪筈の秋が選挙カーの哀願絶叫で始まった。

4日(日)は町村合併で大きくなった八代市の新市長、市議選の投票日
11日(日)は衆議院選の投票日、その間には台風14号の襲来もあった。

そしてこの後19日(月)には地域婦人会による敬老会。75歳以上の対象者
として私も招待状もらったが、婦人会役員してる老妻の方が大変である。

23日の秋分の日が(金)になったので三連休、その最後の日曜日25日に
地元新聞社による金婚夫婦表彰を市が伝達する式が行われる。

私たち夫婦は昭和30年(1955年)3月に結婚したからその該当者なのだ。
新聞紙上に氏名が発表されたので、当の新聞販売店の来訪や写真館2軒
洋服屋、はては県会議員からまで郵便物が届くという煩わしさもあるが
嬉しかったのは目ざとく名前を見つけた教え子からの電話である。
「先生の体調が許せば祝宴でも・・」

小生若い頃から多病、夫婦とも大きな手術を何度も受けた身でありながら
50年の歳月を連れ添えたことは奇蹟に近いと思っている。
二人ながら病院と縁の切れない昨今ではあるが。

八月に

2005-08-01 11:38:00 | 日記
     もう八月ですねえ。ほんと早いですねえ。
     私に残された時間がどんどん減っていく。

                        六十年前のこの月のあの強烈な衝撃。
                        忘却の霧の中でもなお閃光を放つ。

     爾後の生涯の変革の連鎖は
     今にして思えば驚嘆の一語。

     よくぞまあ持ちこたえて
     21世紀の空気を吸うけれど

                        彼岸から呼ぶ声も大きさを増す昨今。







再会・・また別口の

2005-06-09 15:31:00 | 日記
先月上旬に三人の女性と五十数年ぶりの再会を果たして以来、電話、手紙、宅配便などなど余韻は月末まで続いた。その間には、家内の方も幼馴染の老女達との温泉一泊旅行が十数年ぶりに復活したりもした。

そして二度あることは三度とか、先日また別口の再会があった。やはり十年ぶりくらいになると思う。
大阪での小学校の同級生が卒業時の担任先生(九十歳を超えてなお矍鑠)を囲む会を毎年開いている。復活第一回(1981年)とその翌年とはこちらもまだ現役で元気だったから、はるばる九州から馳せ参じたものだが、その後は病気続きで節目に二度ばかり顔だした程度。しかし24年間今なお続いているのは驚嘆に値する。
その間会員のうち四人はすでに鬼籍に入った。(その一人Y君はメールの交換やネット碁対局のほか、このCafeでもbluephenixというHNで付き合っていた。退会手続のないまま彼のページは未だに残っている)

そのY君も含めて親交のあったK君とF君の三人が以前から「ホッタ君を励ます」九州旅行を計画していたのだけれど、延び延びになってるうちにY君は逝き、「今年六月には必ず二人で行くから」と電話が入っていた。そして6月4日に実現したのだ。

たまたま土曜日だったので会社が休みの息子を熊本から呼んで案内の運転手をさせた。二人とも別々ながらずうっと前に我が家へ迎えたことがあったけれど、八代見物はしていない。午後三時半過ぎに駅まで迎えに行き、市内を通り抜けて花菖蒲と庭園が売りの「松濱軒」へ。(その前に向かいの市立図書館にちょっとはいった。実はそこに拙作切り絵の作品が掛けてあるので)

花菖蒲はやや盛り過ぎていたが池の面には睡蓮、ぐるっと一巡りして写真撮ったりしたあと、あずまやに腰掛けて缶入り冷茶飲みながらおしゃべり、気がついたら閉園時間で無人になっていた。

その後は八代城址(濠をめぐらした高い石垣と神社、桜とつつじの庭園)で時間つぶしてから家内が予約していた小料亭で夕食。こちとらは下戸、客人も酒量は僅か、老人向けと思える料理(家内が注文しておいたコース)をつつきながら、趣味の話、孫の話、仲間の話などしてるうちに、大阪を離れて60年たった小生がいつのまにか彼らと同じ関西アクセントでしゃべってるのに気付いて我ながら驚いた。そういうものなのかと。
二時間ばかり居てケータイ(これも家内のを借用してきた)でうちに電話、息子を呼んでホテルまで送り届けて別れた。

「こんどは八十のお祝いやで」とK君が言った。さあ三年後の話、どこかで鬼めが笑っているような。 


再会・・浦島太郎的な

2005-05-27 16:22:00 | 日記
その時、浦島太郎は二十歳だった。思いも寄らず手にした玉手箱、その蓋を開けると立ち昇る白い煙の中に現れたのは七十七歳の老人の姿。箱の中には五十数年の時空の流れが閉じ込められていた。おとぎ話の如く面白おかしく暮らした歳月ではない。世を渡る術を尽くして生き延びてきた軌跡がそこにはある。

龍宮城へ向かう前に親しくしていた人たちと太郎が玉手箱を開けてから初めて顔を合せたらどういうことになるか。太郎自身も老いさらばえたが、その人たちも変貌してるに違いない。まして相手が女性だとすれば。想像もつかない。

例え話でも夢でもなく現実にこんな出会いが先般あった。或る日突然の電話。
「わかります? 先生。 TKです」
 ん? TKさんなら妹の同級生で親友、年賀状は来たが全く会っていない。
「若々しい声だねえ。七十になったんでしょ」 
「そうですよ。馬鹿は歳取らないって」
「うんうん」
「何ですかあそれ、先生そんなとこで肯定しないでくださいよお。
そちらの声は九十のお爺さんみたい」・・・(馬鹿でない証拠さ)
「実は同級生のYSさんがHM先生と話した際、「先生に会ってみたい」とおっしゃったそうです。私たちもお会いしたいし、よければHM先生と三人でお伺いしますがいかがでしょうか」
「そりゃあいいね。マッチ箱みたいな狭い家だが壁面いっぱいに切り絵作品掛けてるから是非来てくださいよ」

今年は昭和80年にあたるそうだけれど、昭和23年4月から24年3月までの一年間、両親の故郷の新制中学校で英語教師をした。
その時に同年齢の新人(音楽の先生)だったのがHM先生、二年生の生徒だったのがあとの二人というわけだが、一別以来今日までお互いの消息もはっきりせず、会う機会も無かった。それが今、五十数年ぶりに再会が実現したのだ。運命のいたずら?

先生とTKさんは熊本市在住だがYSさんはこの日のためだけにはるばる横浜から出て来たのだ。
新八代駅へさし向けたタクシーから我が家の前に降り立った三人の老婦人の姿を迎えての感想は? 我が使い古した脳細胞は全く予想が白紙だっただけに微妙な反応に揺れた。ここで詳細に記述しても読者には縁の無いことだが。

それからの三時間半余りは、普段一人で部屋ごもりしている腰の悪い老人とは完全に別人格だったと、今にして思う。
三脚立ててセルフタイマーかけてソファーに並んだ四人を撮影しながら「うまく撮れてなかったら自殺するよ」なんて言った。するとカメラ扱ったこと無いと言うTKさんが、HM先生と小生のツーショットを「写ってなかったら自殺」と言いながら撮った。

切り絵の話、パソコンの話、作曲の話、古いアルバムを取り出して二十歳の美人先生とかわいい少女の昔話、席を居間に移してから、貰い物のブルマンの封を切ってコーヒー入れたり、お菓子つまんだり、たまたま家内が大学病院の診察日で不在だった分も含めてしゃべりまくり、動きまわった。
列車の時間に合わせてタクシー呼んで三人が去った後は、さすがに普段の老骨に戻っていた。

話はまだ終らない。その一時間ばかり後、電話が鳴った。
「先生、今どこに居ると思います?」 TKさんの声。
「HM先生のおうちですよお」 
あと二人も替わって電話に出た。女三人寄れば何とやら、さぞ話が弾んだことだろう。






春ですねえ

2005-04-17 14:13:00 | 日記
この前は春休みの最終期にやってきた孫たち、今やそれぞれ六年生と三年生に進級して、同じサッカークラブに所属することになった。
その練習が終わってから昨土曜日に母親(我が娘も四十代半ば)の車でやってきて一泊、今日午後には帰って行った。その間我がPCはほぼ完全に占領されてしまう。二人とももう手馴れたもので、好き勝手にお目当てのサイトへ進入してはまりこんでいる。交代の問題があってもめるのだが、やはり兄貴が強いけれど譲ってやる度量もあるにはある。

PC取られてる間、もひとりはPS2やGBなどでゲームやってるわけで全く別々に遊んでいる。かってはふたりでゴッコ遊びしてた時期もあったのだけれど。なにしろ身長はすでに母親のそれにせまってるんだから。

今は相互の会話や共通の鼻歌などに成長した彼らの姿を眺めながら、なにかと話相手をつとめるジイサマも老いた。



Golden Wedding

2005-03-27 13:43:00 | 日記
思いかえせばさすがに長い歳月だった。細部はすでに遥かな忘却の淵に沈んでしまっているのだが・・・

1955年(昭和30年)3月27日に結婚した我々夫婦、本日なんと50回目の記念日を迎えた。洋風で言うところの金婚式なのだ。

人生八十年といわれる現代でも二人揃って生きながらえているのは、やはりおめでたいことなのだろう。夫々に幾度か大病も患い、今もその尻尾を引きずりながらの生活だから、なおさら信じ難いことでもある。

自分流の生き方しかしない我侭亭主に付き合い、一男一女を育てあげ、外孫ながら二人の男の子のお相手をしている老妻にとっては、単なる通過点に過ぎないかもしれぬ。

さはさりながらこれも人生の節目の一つ、祝杯でも上げるとするか・・・残念ながら二人とも酒も飲めぬ体調なのだ。

三月は

2005-03-01 13:44:00 | 日記
三月一日が定例の卒業式だった。
その前後に大学入試があって卒業生には必ずしもいい日程とはいえなかったのだが。
通算すれば三十数回臨席していることになる。

三年間というと長い期間のようにも思えるが、過ぎてしまうとあっという間のことであった。私にしてみれば三分停車の特急を見送る駅員のごときもの、彼らの行く先に幸あれと祈るのみ。やがて次の列車が来る。

その後期末考査、成績作成と多忙、すぐに入学試験があり採点、合格発表まで激務が続いた。そして終業式、月末には定期異動が発表になる。学校の春はせわしないものなのだ。

そのような三月から別れて二十年の歳月が流れた。いまはもう不毛の生活をただ送るだけの我が身。






節分ばい

2005-02-03 11:17:00 | 日記


節分ばい   豆撒きしゅうかい

鬼どもば  うっぱらうとたい

福の神ん  こらっせば良かばってん

ぬしがえにゃ 用ん無かちゅうて

はってかすかも  しれんとばい

そぎゃんときゃあ  しょん無かけん

二人つんぬうで  しゃば渡らんばんたい


熊本県も南部の方言ですが、注釈をつける
ほどのものでなし、どうぞご推測下さい 


あらたまの

2005-01-02 10:37:00 | 日記
あらたまの としのはじめゆ ひむかしの がらすまどより あさひかげ さしこみくれば 

わがいれし きりまんのかの ほのかにも へやにみちたる ひとりいて たばこくゆらし 

たまきはる いのちながらへ ゆくすえの たつきしのばゆ 

すえのよの さもあらなむを うかららの なげかふすがた 

しかすがに もへばかなしも


  
あさかげの みちくるへやの たまゆらは こほひいふふみ たばこすふとき








大つごもり

2004-12-31 14:51:00 | 日記
いつものことながら、大晦日ともなれば老妻はおせちの支度にばたばたしている。離れてアパートに一人暮らしの息子が今日から帰って来るし、多分正月二日には娘と孫たちが来るから、相応の用意はしておかねばならぬ。
一方こちとらはといえば相変わらず我が城にこもってパソコンにへばりついている。

この時期に思い浮かぶのが樋口一葉の短編「大つごもり」(明治27年)だ。はじめて読んだのは旧制中学時代、えんえんと続いてなかなか「。」が来ない擬古文に一種の脅威を感じながらも読み通した。
文学少年気取りの青二才はその結末の簡潔明快さに感服したものだった。

貧困のうちにわずか24歳で病死した彼女が残した数少ない作品群は、77歳となった今なお、愛して措くことのないものなのだが、その彼女の肖像がなんと五千円紙幣に使われたのだ。
何を思って選んだのか知らないが、生涯お金に苦しんだ彼女の、しかも陰影の薄い白っちゃけた下手くそな画像をみるたびに、これは彼女への冒涜だと一人腹に据えかねているジイサマなのである。