「人間は考える葦である」
17世紀フランスの数学物理学者で思想家でもあったパスカルのこの表現は、我が国でもかなり広く用いられているのだが、私が知ったのは旧制中学の物理の授業で「パスカルの原理」とやらが出てきた際の脱線話であった。彼の著書「パンセ」の中にこの言葉があるのだという。
はじめて聞いた時、いっぱしの文学少年気取りだった私はその言葉の含蓄ありげな響きにわけも無く感動して、そんなことまで知ってる物理の先生を見直したりしたものだ。
しかしですよ。今にして思うに「人間は考える○○である」の○○に別の名詞が入っても成り立ちそうな気がする。あなたなら何をいれますか? たとえば「考える豚」とかね。
それが「葦」でなければならぬ理由が、或いは「パンセ」の中に書かれているのかも
知れないが、残念ながら読んではいない。
おそらく無いと思う。このような警句のたぐいは感性から発するものだから。「豚」との差は品の良さで歴然なだけだ。
私なりに考えたのだが「葦」は(フランスではいざ知らず)古来、和歌や俳句の題材に多く扱われ、人の生活に密着した存在だった。現代では河川改修とやらで無風流なコンクリートが巾をきかせているが、広い河原に密生した葦原を風が渡る姿が四季を通じて見られたであろう。
人の一生を葦に関する季語で案ずれば、幼少期、青く尖った芽が育つ春の「葦の角」、ぐんぐん伸びる成長期に「葦青葉」夏の盛りに「葦茂る」、壮年期に開く「葦の花」そして秋、白い「葦の穂」が風になびき、やがて「葦の枯れ葉」となって、老年期には茶っぽい茎だけが冬の風にさらされ「枯れ葦」と化す。
昨日、大阪の小学校時代同級生だった老友の訃報が届いた。このcafeでも付き合った仲だったのに。ただ冥福を祈るばかり、明日は我が身かと。
枯れ葦の日に日に折れて流れけり 闌更
17世紀フランスの数学物理学者で思想家でもあったパスカルのこの表現は、我が国でもかなり広く用いられているのだが、私が知ったのは旧制中学の物理の授業で「パスカルの原理」とやらが出てきた際の脱線話であった。彼の著書「パンセ」の中にこの言葉があるのだという。
はじめて聞いた時、いっぱしの文学少年気取りだった私はその言葉の含蓄ありげな響きにわけも無く感動して、そんなことまで知ってる物理の先生を見直したりしたものだ。
しかしですよ。今にして思うに「人間は考える○○である」の○○に別の名詞が入っても成り立ちそうな気がする。あなたなら何をいれますか? たとえば「考える豚」とかね。
それが「葦」でなければならぬ理由が、或いは「パンセ」の中に書かれているのかも
知れないが、残念ながら読んではいない。
おそらく無いと思う。このような警句のたぐいは感性から発するものだから。「豚」との差は品の良さで歴然なだけだ。
私なりに考えたのだが「葦」は(フランスではいざ知らず)古来、和歌や俳句の題材に多く扱われ、人の生活に密着した存在だった。現代では河川改修とやらで無風流なコンクリートが巾をきかせているが、広い河原に密生した葦原を風が渡る姿が四季を通じて見られたであろう。
人の一生を葦に関する季語で案ずれば、幼少期、青く尖った芽が育つ春の「葦の角」、ぐんぐん伸びる成長期に「葦青葉」夏の盛りに「葦茂る」、壮年期に開く「葦の花」そして秋、白い「葦の穂」が風になびき、やがて「葦の枯れ葉」となって、老年期には茶っぽい茎だけが冬の風にさらされ「枯れ葦」と化す。
昨日、大阪の小学校時代同級生だった老友の訃報が届いた。このcafeでも付き合った仲だったのに。ただ冥福を祈るばかり、明日は我が身かと。
枯れ葦の日に日に折れて流れけり 闌更