[ どうしようもない私が歩いている 山頭火]
ことの起りは父親の放蕩散財とそれを苦にした母親の投身自殺(長男種田正一11歳)だった。
彼は祖母に引き取られて早稲田大学文学部まで進んだが中退、零落した父親と故郷山口県防府近在で酒造業を始めたのだが、元大地主の放蕩者と文芸と酒に浸る息子、うまくいくわけがない。
大正五年倒産し一家離散、彼は妻子を連れて熊本へ逃れたのだった。時に三十五歳。
熊本市内で「雅楽多」と号する額縁屋を営んだが店の仕事は妻にまかせっきりで、地元の文芸仲間との交遊に明け暮れた。酒乱でかなりすさんだ生き方だったという。
こんな生活環境の中で大正二年、荻原井泉水の自由律俳句に共鳴して俳誌「層雲」に初投句して以来毎号投句を続けて頭角を現わし、花形作家として選者に抜擢されるまでになった。
しかし、ここで私見を述べるならば(乏しい資料の中での管見だが)当初の自由律俳句の作品は旧来の有季定型の枠から飛び出しはしたが、発想や字数などではあまり変化が見られず、口語を無理してひねくりまわしたってなもののようだ。表現法、語法には或る種のパターンさえ見受けられる。技巧に走って感激が無いのである。この頃の山頭火の句も例外たりえなかった。
現今我々が目にする彼の句が生まれるには、まだこの後の人生の辛酸が必要なのだった。
大正八年、妻子を熊本に残して単身上京、つてをもとめてセメント工場や市臨時雇として図書館に勤務したりしていたが、その間に祖母や父が死去、妻の実家から送られて来た離婚届に署名捺印して返送したので離婚が成立した。「層雲」への投句も次第に減り、九年「紅塵」と題する数句を最後に山頭火の名は俳誌から消えた。どういう暮らしぶりだったのか小生には知るよしも無いが、十二年の関東大震災で焼け出された身の帰る所は別れた筈の妻子の家しか無かったのである。
そして彼の生涯の転機となる椿事がその翌年の暮れに起こった。
泥酔したあげく走って来る熊本市電の前に大手を拡げて仁王立ちしたのだ。幸いのろのろ運転のチンチン電車のこと、急停車して事なきを得たのだが、或いは朦朧とした意識の中で電車が停まらないことを望んでいたかも知れなかったと思う。(というのも後日の旅日記や草庵暮らしの記述の中で,何度もの自殺未遂が読みとられ、彼の思いは生と死の間を揺れ動いていたのだ)
[生死のなかの雪ふりしきる 山頭火]
ともあれ進路妨害事件で警察から酔っ払いを貰いさげたのは顔見知りの新聞記者で、市内の禅寺の住職に彼の身柄をあずけた。そこで得度、剃髪、座禅修行にはげみ、十四年から約一年間、近郊の観音堂の堂守として近郷の行乞、布教に従事したのだった。
[松はみな枝垂れて南無観世音 山頭火]
しかしそのままで終わらぬのが山頭火なのだ。十五年四月、安住の堂を捨てて野山をさすらい歩く行乞の旅にでた。その足跡は九州、山陽、山陰、四国におよび、昭和四年三月に熊本の「雅楽多書房」に戻りついている。この旅の間に書き綴った日記は八冊あったそうだが、一年後再び旅に出る前に焼き捨ててしまっている。過去の一切を葬って新たな不退転の旅へ出たのだ。
[焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火]
◇ ◇ ◇
やっとこれで冒頭の「行乞記」へ戻ってまいりました。時に山頭火四十八歳、彼の生涯は残すところ僅か十年でした。そしてその十年が今日に知られる彼の本物の中身なのですが、この小文では触れ得ません。いつかまた小生に気力と体力が残っていれば書いてみたいとも思いますが、「まんず、無理だべ」と鬼めがぬかしております。
さて、昭和五年九月九日、新たな行乞の旅に出た山頭火が最初に足を踏みいれたのが八代だったこと、偶然そうなったのでしょうが我々市民にとって(山頭火ってなんだ?という人のほうが大部分かもしれませんが)幸いなことなのです。嬉しいことです。
小生自身は本来よそ者ですが、昭和三十年に着任して以来住み着いて約五十年になりますから、こんなこと言っても叱られないと思います。ただ山頭火が行乞にまわったという八代がどんな町だったか知るよしもないのが残念です。日記にはただ「十一時より三時まで市街行乞」と書いてあるだけですが「市街」という言葉は田舎には使いませんね。町並みは整ってたのかも。
宿では「夜は餞別のゲルトを飲みつくした」とあって,さすがに“水飲むごとく酒を飲む”と自分で言うだけのことがわかります。同宿四人、とりどりの無駄話を楽しんでいた様子、陰気な気質じゃあなさそうです。後日の日記のような俳句は書いてありません。
九月十日は「午前中八代町行乞、午後は重い足をひきずって日奈久へ」。今は道路も整備され住宅なども増えていますが、三里(12km)の野道は寂びしかったかも。足が重かったでしょう。
宿では以前に同宿したお遍路さんとまたいっしょになったり、方々の友へ久しぶりに「音信」しています。その中に次のように書いたそうです。
「・・・私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅へ出ました。
・ ・・・歩けるだけ歩きます。行けるところまで行きます。」
その次に書いてある文章です。
「温泉はよい。ほんたうによい。ここは山もよし海もよし」
山頭火は無類の温泉好きだったようで、放浪先の各地でも温泉を楽しんでいたようです。
この部分だけ取り上げるとそのまま日奈久温泉のコマーシャルになりますね。事実日奈久では彼が泊まった木賃宿「織屋」がそのまま保存され、山頭火に関する資料やグッズを並べてあります。
「山頭火まつり」のような催しも行われて、上記の文がキャッチフレーズに使われてます。
しかし日記にはまだ続きがあるんです。
「出来ることなら滞在したいのだが---いや一生動きたくないのだが(それほど私は労れてゐるのだ)」
これが彼の本音だったのです。旅に出て行乞に歩いて、酒を飲んで句を作って、漂泊の俳人と称せられているけれど、心底は疲れていたんですね。放浪を続けながら一方では庵を結んで定住したい気持も常にあったようです。後に数箇所で願いが叶うわけですが必ずしも満足していなかったふしも見えます。暖かい後援を受けつつ松山の「一草庵」で最期を迎えたのですが。
[ おちついて死ねさうな草枯るる 山頭火 ]
ことの起りは父親の放蕩散財とそれを苦にした母親の投身自殺(長男種田正一11歳)だった。
彼は祖母に引き取られて早稲田大学文学部まで進んだが中退、零落した父親と故郷山口県防府近在で酒造業を始めたのだが、元大地主の放蕩者と文芸と酒に浸る息子、うまくいくわけがない。
大正五年倒産し一家離散、彼は妻子を連れて熊本へ逃れたのだった。時に三十五歳。
熊本市内で「雅楽多」と号する額縁屋を営んだが店の仕事は妻にまかせっきりで、地元の文芸仲間との交遊に明け暮れた。酒乱でかなりすさんだ生き方だったという。
こんな生活環境の中で大正二年、荻原井泉水の自由律俳句に共鳴して俳誌「層雲」に初投句して以来毎号投句を続けて頭角を現わし、花形作家として選者に抜擢されるまでになった。
しかし、ここで私見を述べるならば(乏しい資料の中での管見だが)当初の自由律俳句の作品は旧来の有季定型の枠から飛び出しはしたが、発想や字数などではあまり変化が見られず、口語を無理してひねくりまわしたってなもののようだ。表現法、語法には或る種のパターンさえ見受けられる。技巧に走って感激が無いのである。この頃の山頭火の句も例外たりえなかった。
現今我々が目にする彼の句が生まれるには、まだこの後の人生の辛酸が必要なのだった。
大正八年、妻子を熊本に残して単身上京、つてをもとめてセメント工場や市臨時雇として図書館に勤務したりしていたが、その間に祖母や父が死去、妻の実家から送られて来た離婚届に署名捺印して返送したので離婚が成立した。「層雲」への投句も次第に減り、九年「紅塵」と題する数句を最後に山頭火の名は俳誌から消えた。どういう暮らしぶりだったのか小生には知るよしも無いが、十二年の関東大震災で焼け出された身の帰る所は別れた筈の妻子の家しか無かったのである。
そして彼の生涯の転機となる椿事がその翌年の暮れに起こった。
泥酔したあげく走って来る熊本市電の前に大手を拡げて仁王立ちしたのだ。幸いのろのろ運転のチンチン電車のこと、急停車して事なきを得たのだが、或いは朦朧とした意識の中で電車が停まらないことを望んでいたかも知れなかったと思う。(というのも後日の旅日記や草庵暮らしの記述の中で,何度もの自殺未遂が読みとられ、彼の思いは生と死の間を揺れ動いていたのだ)
[生死のなかの雪ふりしきる 山頭火]
ともあれ進路妨害事件で警察から酔っ払いを貰いさげたのは顔見知りの新聞記者で、市内の禅寺の住職に彼の身柄をあずけた。そこで得度、剃髪、座禅修行にはげみ、十四年から約一年間、近郊の観音堂の堂守として近郷の行乞、布教に従事したのだった。
[松はみな枝垂れて南無観世音 山頭火]
しかしそのままで終わらぬのが山頭火なのだ。十五年四月、安住の堂を捨てて野山をさすらい歩く行乞の旅にでた。その足跡は九州、山陽、山陰、四国におよび、昭和四年三月に熊本の「雅楽多書房」に戻りついている。この旅の間に書き綴った日記は八冊あったそうだが、一年後再び旅に出る前に焼き捨ててしまっている。過去の一切を葬って新たな不退転の旅へ出たのだ。
[焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火]
◇ ◇ ◇
やっとこれで冒頭の「行乞記」へ戻ってまいりました。時に山頭火四十八歳、彼の生涯は残すところ僅か十年でした。そしてその十年が今日に知られる彼の本物の中身なのですが、この小文では触れ得ません。いつかまた小生に気力と体力が残っていれば書いてみたいとも思いますが、「まんず、無理だべ」と鬼めがぬかしております。
さて、昭和五年九月九日、新たな行乞の旅に出た山頭火が最初に足を踏みいれたのが八代だったこと、偶然そうなったのでしょうが我々市民にとって(山頭火ってなんだ?という人のほうが大部分かもしれませんが)幸いなことなのです。嬉しいことです。
小生自身は本来よそ者ですが、昭和三十年に着任して以来住み着いて約五十年になりますから、こんなこと言っても叱られないと思います。ただ山頭火が行乞にまわったという八代がどんな町だったか知るよしもないのが残念です。日記にはただ「十一時より三時まで市街行乞」と書いてあるだけですが「市街」という言葉は田舎には使いませんね。町並みは整ってたのかも。
宿では「夜は餞別のゲルトを飲みつくした」とあって,さすがに“水飲むごとく酒を飲む”と自分で言うだけのことがわかります。同宿四人、とりどりの無駄話を楽しんでいた様子、陰気な気質じゃあなさそうです。後日の日記のような俳句は書いてありません。
九月十日は「午前中八代町行乞、午後は重い足をひきずって日奈久へ」。今は道路も整備され住宅なども増えていますが、三里(12km)の野道は寂びしかったかも。足が重かったでしょう。
宿では以前に同宿したお遍路さんとまたいっしょになったり、方々の友へ久しぶりに「音信」しています。その中に次のように書いたそうです。
「・・・私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅へ出ました。
・ ・・・歩けるだけ歩きます。行けるところまで行きます。」
その次に書いてある文章です。
「温泉はよい。ほんたうによい。ここは山もよし海もよし」
山頭火は無類の温泉好きだったようで、放浪先の各地でも温泉を楽しんでいたようです。
この部分だけ取り上げるとそのまま日奈久温泉のコマーシャルになりますね。事実日奈久では彼が泊まった木賃宿「織屋」がそのまま保存され、山頭火に関する資料やグッズを並べてあります。
「山頭火まつり」のような催しも行われて、上記の文がキャッチフレーズに使われてます。
しかし日記にはまだ続きがあるんです。
「出来ることなら滞在したいのだが---いや一生動きたくないのだが(それほど私は労れてゐるのだ)」
これが彼の本音だったのです。旅に出て行乞に歩いて、酒を飲んで句を作って、漂泊の俳人と称せられているけれど、心底は疲れていたんですね。放浪を続けながら一方では庵を結んで定住したい気持も常にあったようです。後に数箇所で願いが叶うわけですが必ずしも満足していなかったふしも見えます。暖かい後援を受けつつ松山の「一草庵」で最期を迎えたのですが。
[ おちついて死ねさうな草枯るる 山頭火 ]