horitaakioのgooブログ

88歳の老人ですけれど、天寿の続く限り頑張って見たいと思います

還暦と喜寿と

2003-10-30 10:16:00 | 日記
八代高校昭和37年卒<三七(みな)の会>の皆さんへ

先ずもって皆さんの還暦(「本卦還り」だから0歳)を心からお祝いすると共に、喜寿を迎えた私をご招待頂き立派な記念品まで頂戴したことに深く感謝いたします。

思えば皆さんが県南の名門校に入学してきた昭和34年度、一年一組を担任したのは、同校就任4年目、初めてクラスを受け持った31歳の若輩でした。
入学最初の英語の授業で、いきなり「We shall overcome」(アメリカ黒人の人権運動のテーマ曲)を持ち出して歌唱指導したという青二才ぶり、実は当の本人は全く忘れていたのを今度の会で思い出話に出て来て冷や汗かいたものです。よく覚えていたお方には敬服のほか無し。
その後三年間、毎年度各クラス約三分の一ずつは組替えするという基本方針のもとで二の五、三の二と持ち上がったので、結果的に三年間僕のクラスにいたという不しあわせな人も十数人はあったわけなのです。まあ若気の至り、今にして思えば行き過ぎたり、行かな過ぎたり、心中忸怩たるものがあります。四十数年昔のことだから時効にかかったものとしてお許し下さい。

蔦の絡まる旧校舎(窓際の席の人は毛虫に悩まされたという)を後にして卒業していった皆さんは夫々の道を夫々の力で歩き、夫々の社会で夫々の試練も経て、いつしか還暦を迎える歳になったのです。長かったか、はたまた短かったか、そこは夫々に感懐のあるところでしょう。
学校、役所、会社など定年のある職場では、いわゆる「第二の人生」へと移る年頃なのですが私はこの表現は好きでない。たしかに区切りではあるし、生活環境の変化もあるかもしれないけれど、今までの人生が第一でこれからの人生は第二なのか、変に格差付けないでくれよなって言いたいんです。単なる順序なら納得します。人間生れてから逝くまで人生は一続きなのですから。

さてその人生を76年続けて来て、かなり好き勝手を通して来たほうだけれど、不健康もついてまわりました。A sound mind in a sound body なんて嫌な文句もありますが、ともかくも今回のように皆さんと楽しい一夜を過ごせた幸せをかみしめています。

今後も皆さんが健やかな人生を送られんことを祈念してやみません。有難うございました。

秋風が身に沁みて

2003-10-20 16:21:00 | 日記
八月の末以降、身近で不幸が三つ続いた。
一つは家内が四十年も双子同然の付き合いをしてきた夫人で、私とも親密な交際があったのだが、大腸癌で三ヶ月の入院後に亡くなった。家族や身内の意思で本人には病名を知らせなかったので、最後まで仕事への復帰に意欲を燃やしていた生涯だった。連日病室で見守っていた家内は臨終の場にも立ち会った。

九月半ばには、三つ年上の元同僚が長い療養生活に終止符を打った。本人の遺志でその死も葬儀も他には知らされず身内だけで送ったので、我々は後から奥さんにお悔やみを言うこととなった。我が娘の結婚の仲人もしてもらった仲だった。

そして十月四日、その娘の義父が前立腺ガンで逝去、享年七十八歳。私とは二つ違いの年配でまだ幼い孫たちを共有させてもらった。最後は病院からも離れ、自宅へ戻って介護を受けていたのだが、お通夜と葬儀に列席しながら二年後のおのれの身に思いを至して、かなり落ち込んでしまっていた。
会館で行われた通夜や葬儀の合間、まだ祖父の死に実感の来ない孫たちの面倒を我ら老夫婦で引き受けて、我が家へ連れて来たりしていたが、無邪気にはしゃぐ一年生と少しは状況に察しがつく四年生だった。

ともあれ、老いの心に秋の風が吹きこんで、それから後Cafeめぐりは断絶、その間に多くの方々からお悔やみやお励ましを頂いてきた。有難い限りである。

一昨日、昨日の一泊二日、教え子達の還暦記念旅行に招待されて家内同道で参加、私の喜寿の祝いも受けてきた。何年ぶりかの旅行に出て、くたびれもしたが、気分も吹っ切れた。
ここへ書いて見る元気を与えてくれたのが四十数年前の生徒集団、いまは人生の絶頂期に達した人たちなのである。

秋風と共に、有難さもまた身に沁みる。