@1961kumachin 以前、ある死刑求刑事件の第1回公判前にクロ現で前科報道がされ、かつ、現在の矯正システムでは構成が難しいとまで言っていたことがありました。司法記者界隈では物議を醸したようですが、NHKのモラルは一夜にして崩れたのではないのですね。
続き 昭和50年代くらいまでは、人の家のインターフォンにマイクを突きつけるのは芸能ワイドショーのすることで、決して報道のすることではない、という一線があった気がするが、高校生くらいのときにNHKの記者がマイクをインターホンに突きつけているのを見て、何かが崩れ去ったような気がした
更に続き 今後更にこのラインで一発当てよう、再犯したら売り込もうという傍聴マニア、更にはマスコミによる傍聴マニアの囲い込み、ともう阿鼻叫喚たることになりかねんなあ。前科報道の対応策を考えなければ
心電図というのは異常かどうかだけの判断なら専門医であれば、3秒でできます。いや実は0.3秒位でやってるのかもしれません。
要するに、黙秘権はメディアやその背後の国民との間でも保障されなければならないし、捜査情報を報道するのであれば、被疑者・弁護人にも武器台東が確保された中で反論の機会が与えられなければならないというもの。僕は、マスコミによる糾問的な活動への警鐘と理解した。
複雑な冠動脈狭窄にワイヤを通せる、そうできるまでの積年の労苦を感じさせずやすやすとやりこなす者をエキスパート(専門家)と呼ぶなら、そうしたスキルの使用が、他者(社会)にどう影響するかを自覚し、どう使うべきかを知っている者がプロフェッショナル。
2013年明けましておめでとうございます。いよいよ参院選の年。ふるさと香川県のあん入りもちと白みそのお雑煮をいただき、住吉大社と大阪天満宮での元旦宣伝に向かっています。
あまり知られてませんが、共産党が出してるしんぶん赤旗はわずかな援助金のみでほぼボランティアで毎朝配達されてます。明日は久しぶりの休刊日なので、今夜はお疲れさまの気持ちを込めて慰労会を企画(*^^*) pic.twitter.com/jnFFGejA
親の死は否が応でも子を成長させる。いつか必ず来る逃れられない事柄。僕はこの2年間でいきなり両親を失ったけど、人生で二回も家を失ったけど、生きてる。嫌になった事もいくらでもあったけど生きてる。寂しくて寂しくて泣く日もあるけど生きてる。生き抜かないと。最後のその日まで生き抜かないと。
♪Shakira - Ojos Asiyoutu.be/W_FhSD6Jovkレバノン系の母を持つシャキーラ。この曲ではお得意のベリーダンスを披露しています。※ベリーダンスとはアラブ文化圏で発展したダンスのことで、イスラム時代以前のエジプトが発祥とされている。
心電図を3秒で正しく読めること。タイトな冠動脈狭窄にワイヤーを通すこと。こうしたスキルは、なぜそうできるかと聞かれると即座に説明できない。いわば暗黙知。こういうの上手に言語化,形式化できる人がよい教育者なのだろうなあ。私はちょっと苦手。
JP2とベネ16と保守が続いたので,少しリベラルに戻るのじゃないだろうか? 前のコンクラーベに取りざたされたアフリカの枢機卿とか。
使い道が定かでない土地を7億円で買う・・・車もろくに走らない道路を14億円市税を投入して拡幅する・・・・「お金がないから」という理由で保育園・学童保育・児童館などの民間委託。減らせる経費は7千万円・・・????。ちょっとおかしすぎると思いませんか?
米軍基地・オスプレイ:講和条約時、米軍の位置付けで日米協議。1951年ダレス「我々が望むだけの軍隊を望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する、それが米国の目標である」、それが日米行政協定、今日の地位協定。何にも変わってないのです。米軍に関する限り、占領時代と同じなのです
世界中のベリーダンサーが憧れるエジプトのFifi Abdo(フィフィ?アブド)ベリーダンス界のスーパースターに君臨する彼女はどれだけの金を積まれても踊らないと言われていますが、昨年秋に初来日を果たし素晴らしいダンスを披露してくれました。bit.ly/XCaByf
オサマ・ビン・ラディン宅急襲で、シールズ元隊員がオサマと対峙した際の印象について「彼(オサマ)は混乱しているようだった。予想よりも背が高かった」「オサマだ、バーン、任務完了。」 goo.gl/ceewq
逮捕前の容疑者が街中を歩いてる様子が隠し撮りされてたりする。しかもそれがニュースに平気で流されてて良いのでしょうか?つまり逮捕前にメディアに情報が漏れてるってことですよね?RT@tanakaryusaku PC遠隔操作事件。今度は大丈夫なのだろうか? マスコミは、はしゃいでいるが
東京と酒田を毎週往復して英語を教えているのだけど、地方でネイティブ・スピーカーを雇う余裕のない学習塾とか、意欲や能力はあるのに適切な学習方法で指導してもらえる機会のない中高生に、それこそ日本語という限界を超えた知へのアクセスを切り開きたいという気持ちで取り組んでいる。