十和田自然農園

鹿角またぎ自分史 …75年生の足跡~エンディング録です

伝説の山郷~超エコ発電♪

2014年11月29日 01時54分34秒 | 日記・エッセイ・コラム

            2014年鹿角またぎ67歳フォトアルバム


        Dscf2511 佐多六と佐比内沢

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     鹿角市十和田・下草木
     2014年2月27日(木)

 この場所は「下草木」です。 《 佐多六とシロの里 》の周りは杉林のため、東の山(佐比内沢)は見えないので、すぐ側を流れる「根市川」の橋から東の山を望むと…思った通り!目標の「佐比内沢」の全貌と沢の奥の尾根(放牧地)まで全て見渡せる光景が待っていました。 (pm2.5に霞む山なみ)

 佐多六の「運命の日」となった2月のある晴れた日も、おそらくこの景色の「佐比内沢」を登り嶺伝いに「四角岳」へ向かい、手負いのカモシカを三戸境の「来満峠(不老倉銅山)」まで追ったことから、悲劇が起きてしまったのです。 悪いのは獲物を横盗りしたあげく、領地侵犯をなすりつけた三戸マタギ5人衆であるが…【暴力と権力】を振りかざし弱い者を陥れる行為は、いつの世も同じなんですね!

 実は、「佐比内沢」には私も悲しい思い出があります。 10年ほど前…熊の生息調査に行ったことがありました。 その年は雪解けが早く、5月の連休頃には尾根の放牧地まで車で上れました。 尾根から双眼鏡で眼下のブナ林を見下ろすと…ブナの樹上で寝そべったり、新芽を食べたりしている3頭の熊を見つけました。

 この日、花輪支部の後輩『梅戸君』と山へ行った最後の思い出になるとは… 帰り際、しきりに膝が痛いと訴えていたのですが、突然 “ 俺、鉄砲辞めるがら、サコーのライフルは一条さん使ってケレ” と、言い出したのです。
 そして、その数ヶ月後に彼は逝ってしまいました。 死ぬほど痛かったのに、最後の力を振り絞って「佐比内沢」へ行ってたとは全く気付かなかった自分が情けなく、悔いが残ります。

 梅戸君は副支部長として…伏魔殿のような花輪支部の中で、唯一、『 正義と信念と情熱 』を持ち、曲りなりにも精一杯尽くしてくれた後輩であり、仲間から距離を置いた私にも誠意を持って対応してくれました。

 彼が射撃を始めたのは、私が4連覇した昭和46年~49年(全盛期)頃であり、私の射撃を見て… “ 天の人・射撃の神様 ” だと飲み会の度に、当時の“衝撃”を熱く語っていた彼、私もことある毎に『クレー射撃の手ほどき 』をしていた仲でした。 素直な性格から、苦手の「ダブルトラップ」もめきめき上達し、《 鹿角市実猟銃大会 》に、私も応援に駆け付けたある年…彼は見事に【総合優勝】してくれました。

 想えば、師弟関係30年ぶりに私を越える快挙を成し遂げた彼のことが、猟へ出掛ける度…走馬灯のように浮かんできます。
あれ以来、猟期が始まっても、どうしても「佐比内沢」に入ることができません!「アイヌの呪」なのか?「佐多六の悲劇」なのか?「梅戸君の嘆き」なのか? 私も、銃を手放す最後の年に訪れる場所なのかも知れません!  ※参考・・・「佐比内」は、“ さぴない ” と呼び、アイヌ語が語源ではないかと思います。
  




        Dscf2507 熊堂~佐比内沢

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     鹿角市・佐比内沢
     2014年2月26日(水)

 今日はついに熊堂の尾根を下る「発電水路管」と、嶺続きの左側(北側)の「佐比内沢」までを遠く離れた田んぼの中から撮って来ました。 雪かきをしていた老婆から「佐比内沢」の話を聞きました。 よく聞き録れなかったのですが…“さっぴない”とか、『小平さわち』なんとかとも言うようです。 完璧な日本晴れのはずなのに、PM2.5のせいで霞の地球になってしまい…ホント、隣の国には困ったものです。 物を作らせる日本の製造業者が最も悪いのですが…

 この「佐比内沢」奥の嶺(白銀の平な頂)も放牧地になっていて、昔は「級の木」、「小平村」の農家は牛を放牧していたとのことです。 さらに、佐比内沢から尾根伝いに「細地鉱山」への山道があり、今でもこの周辺の人達は「細地」や「四角岳」へキノコ採りや山菜採りに通っているとのことでした。

 ちなみに…ここ撮影地点は、沢の入口に最も近い「級の木」集落の田んぼですが、沢の全貌が見えないのが気になります。 もしかしたら、「級の木」より1kmほど北側の佐多六が住んでいた「草木」集落からなら、「佐比内沢」の全貌が見えるのではないか?と思います。 明日は農園に置いてあるバスの雪下ろしに行くので… 《佐多六とシロの里》 から「佐比内沢」を望んでみます。





       Dscf2504 熊堂・白山神社

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     鹿角市・柴内熊堂
     2014年2月26日(水)

 柴平発電所の少し手前に、「白山神社」がありました。 近くの住民に尋ねると、祀っている神様は…花輪スキー場近くの東山・百合沢にある、「産土神社」と同じ系列の神様だと云うことでした。 後日、境内を上って確認してみたいと思います。 発電所から、ずっと沢の奥にも「山神の神社」があるとのことなので雪が消えたら、上ってみます。





          Dscf2502 熊堂・発電水路管

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     鹿角市・柴内熊堂
     2014年2月26日(水)

 柴内熊堂の発電用水路管を撮りました。 実際、側に行って見ると結構迫力があります。 驚くなかれ、この水路管内の水は、遥か山奥…岩手&青森県境の「四角岳」を源流とする「瀬の沢」から山にトンネルを掘り、熊堂 まで引いた水なのです。

 発電所近くの老人の話では… ほぼ毎日、見学者が訪れるとのことです。
 この親切な老人は、私が「熊堂」に行く度に出逢うので、どうも不思議に思っていたのですが…おそらくは毎日のように見学者が訪れるので、自宅の側を車が通過したら、どんな取材人が来たか?と直ぐ外へ出て来る 『第一村人発見』 的なマニアなのかも知れませんね! 何故なら、老人曰く… “ 今日は貴男が二人目だ ” と言うのです。 なるほど、発電所前の除雪された駐車スペースには、1台のタイヤ跡が残っておりました。 正解です!

 「美の国あきたネット」によると、この水路管の記述があり、最大有効落差は・・・231.26mです。

 発電開始は・・・昭和39年12月6日

 発電形式は・・・水路式   水車の形式は・・・ベルトン   最大出力は・・・2800kw





        Dscf2496 雪坊主?

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     鹿角市十和田・自然農園
     2014年2月16日(日)

 寒い中【見張り役】お疲れ様で~す!2台のワゴン車です。 頭が丸いのは、凍った雪の塊りの上に新雪が積もったためでした。 あまりの重さに屋根のサンルーフ部分は割れて、屋根もへこんでしまいました。 今年の冬は2回ほど雨が降ったため、湿って重くなった雪が凍ったものと思います。

 圧雪で2メートル近い積雪ですから…十和田には、かなりの雪が降りましたね!バンガロー等は2mぐらいの高床式で、屋根はとんがり屋根にしないとダメなことが分かりました。

 でも今年は、花輪のを購入するのでバンガローと鳥小屋は来年以降に持ち越しです。 今ある材料と管鋼材と「アカシア材の原木」を生かして、少しずつ作ることにします。 農園の地下は大湯川の河原だったので…砂利や玉石は大量にあるし、基礎は石積みにしてコンクリートで固めたいですね! 何せ動物達(熊・鹿・猿・キツネ・狸・テン等)は、様々何でも寄って来るでしょうから …  





        Dscf2493 公営柴平発電所~2

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     鹿角市・柴内熊堂
     2014年2月14日(金)

 今猟期もあと1日のみ…毎年、恒例にしている【カラス撃ち】のため、農免道路沿いの柴平地区へ出掛けました。 猟期の2月1日~15日は秋田県では「鴨・雉・山鳥」を捕獲できないし、私は主に「ノウサギ」猟でしたが…晩年は、 “ ウサギ追~いし♪ 彼の山~”が困難になってきました。 しかも兎猟場は、里山も奥山もほとんど【杉植林】され、餌の芝や笹の無い死に山(冬は真っ黒な山)にされ…さらに最近まで県が行った『キツネ保護』により、野兎や山鳥は激減したため、逆に今は保護に努め、猟期末の三日間はカラス駆除の名目で【カラス撃ち】をします。

 柴内地区の田園地帯(長野・上台・級の木・菩提野…)が矢先の確認がとれ、堆肥置き場などにカラスが群がっており、近くの林に隠れていると上空を横切るカラスに発砲のチャンスがあります。 何よりも安全第一に、そして「リンゴ農家」や「北限の桃農家」の方達が喜んでくれる猟も遂行することが、「またぎ」としての使命だと…かってながら自我自尊しているところです。

 菩提野に向かう途中に「熊堂」を通ったので、青空が欲しかったのですが…冬の「柴平発電」を撮って来ました。 奇しくも、昨年夏に会った老人と再会し…水路トンネル堀りの秘話(犠牲者1名)や沢伝いに車道があり、貯水池の峰の奥に神社があること、発電所は昭和38年頃完成し社宅もあり、当初は職員が3名常駐していたことなどを教えてくれました。
 一番衝撃だったのは、その「神社」から嶺伝いに『細地鉱山』へ山道が繋がっていて、途中には50個ほどのもあるとのことです。

 これで、「小平若衆3人が真夜中の山中を、難なく『 細地鉱山 』に辿り着けたのかが理解できました!
 この土地の人達は、ずっと昔から「熊堂」を上って「四角岳」へタケノコや山菜を採りに行ってたと…近寄って来た老婆も話してくれました。 熊堂の人家は私が撮っている直ぐ側から20戸ほど密集して建っています。





        Dscf2495  公営柴平発電所~1

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     鹿角市・柴内熊堂
     2014年2月14日(金)

 昨年夏には緑に隠れ何の小屋か分かりませんでしたが…S39年発電開始から、つい10年前まで職員が住んでいた社宅でした。付近の住民は、再三の取壊しを要請しても持ち主は民間業者なのか、全く聞き入れず現在も廃屋を曝したままとのこと。 左上の水路管と水車建屋の間には車道があり、沢の上流の神社まで続いているそうです。

 さらに、神社から嶺伝いに「細地鉱山」へ行く道がついていて、細地には墓もあるとか! 細地銅山は安政の初め頃(1854~60)最も栄えていて、熊堂ルートは「細地銅山」・「不老倉銅山」への街道の一つでもあるようです。 熊堂の嶺は佐比内まで峰続きなので、放牧地辺りで佐比内ルートと合流しているかも知れません。

 安政の大飢饉の年は…春から冷たい東風(やませ)が吹き、小平村の人達は『これは、細地銅山が山を傷つけているため、四角八面鬼 が怒って風を吹かすのだから、誰か細地の坑夫小屋を焼き払う者は居ないか』と云うことになり、若者3人の代表が先頭に立ち、闇夜に紛れて夜襲をかけ建物を焼き払った。

 これが 「細地鉱山焼討ち事件」である。 責任者3人は「盛岡藩」に捕えられ処刑されるところであったが、運良く「盛岡藩」にお姫様誕生の慶事があり減刑…以後7年の受刑で文久二年(1862)に放免された。
 当時、江戸時代には「天明(1832)の大飢饉」もあり、四角の鬼が東風を吹かすから飢饉になると信じられていたので…「四角岳」麓の細地銅山の採掘を止めさせようと決起した事件であることから、盛岡藩は銅山も大事だが、飢饉に苦しむ農民も救済する意味で情状酌量の裁定をくだしたのではないでしょうか!    参照…《不老倉鉱山誌》

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