いちのかやのブログ

情報共有を目的とした素っ気ないブログです 笑
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地獄の法 気を取り直して第二章に

2023-02-18 20:35:55 | 日記
気を取り直して第二章に。
第一章は頑張って読んだ節があるので、今度はアプローチを変えて、地獄の部分をスルーして読んでみました。
まぁまぁ、それは置いておいてという読み方です。
 

何となく読んでいくうちに、ある考えが焦点を結び始めました。

これは、お経だ...
それも今のご時世に沿ったお経。
 
浄土真宗の住職が、法要の時にいつもおっしゃっている、お経はご先祖さまの為と言うよりは、お貸しした教本に口語調で書いてある通り、生者の日々の心得を書いたものですという説法を思い出しました。
 
それと同時に思い浮かんだのは、見掛けに惑わされて、大事なことを見落としかねない自分の思考回路。
驚愕しました。
やられましたね...。
 
そう考えると、最初に書いた
「天使のコスプレの教祖」も同じことなのかと思い当たります。
 
「見掛けに惑わされてはいけない」
今まで何度、このように注意されたでしょうか。
その言葉をストレートに言うのではなく、気づかせる著者の力量に感服しました。
 
これは、私がご利益を得ようとする貪欲さの成せるわざでしょうか?(笑)
適当なことを言っていますでしょうか?
いいえ、そうではないでしょう。
 
今日はここまでです。

 


地獄の法を読んでいます

2023-02-18 02:49:51 | 日記

地獄の法を読んでいます

今日はお堅くならない程度にちゃんとした文体で書きます。
 
週末で早目に帰宅できたので「地獄の法」幸福の科学出版を読んでいます。
数時間で読めるかなと思っていたのですが、第二章に入ったところで難儀しています。
 
第一章はとても興味深く読み進める事ができました。
色々な宗教の事が書いてあり、経済、歴史、思想にも言及されていて宗教の本だという感じはしませんし、普通に面白いです。
 
ただ、それぞれの宗教や歴史については、信徒であればそのまま受け入れても、さほど問題はないのかも知れませんが、ここに書かれている事だけが真実だという保証はないので、信徒以外の人が読むとすれば、そういう前提だ、として読むしかないのかなと思いました。宗教団体の書籍なので、そこは別に考えなければ...ですね。
 
その第一章の終わりに「地獄はある」という事が、そして第二章からは色々な地獄について詳しく書かれています。
ここでフリーズしてしまいました...。
(残りは宿題として、また後日に。)
 
 
私の想いは、天国も地獄もあるかもしれません、でも「考える必要がない」なのですよ。
懸命に業を残さないように、できるだけ他者に貢献できるよう努めて今を生きるだけです。
 
こんなふうに思っています。
世界は本当はひとつの意識あるパワー(宗教的には神様)で、それぞれの物体はその存在の表現物。
だから地球と私とこれを読んでくれている方は元々一体。
(世界人類皆兄弟ではありません!笑 違いますからね!同じ源に繋がるパワーです)
意識の一つ一つは、他の意識と出会い業を作っていく。
物体は滅びるから、業を解消もしくは手放せなければ意識は残りいずれ転生する。
肉体から離れた意識(魂)は次の転生まで源(神様のみもと)へ戻る。
源に行けない魂は、現世に執着が強いか、何かの理由で迷子になったのでしょうか?分かりません。
 
業はカルマ、パワーは波動と表現する方が多いかもしれませんね。
 
善と悪について。
この世の善を見て感動する自分や悪を見て激怒する自分がいます。
でも、その善悪は私が自分の立場で見た場合のものです。
別の立場の方には逆かもしれません。
どこから見ても悪なのであれば、それはそういう役割を選んできたと思うしかないと考えます。
ですから、自分が閻魔大王になってはいけないと戒めてはいますが、難しいですね。
こんな事では、次もまた転生してやり直しです。
 
でも、この世界は愛が充満していると思いませんか?
悪が充満していると思えば、それが地獄なのではないでしょうか。
 
言葉を綴るのは難しくて、時に多すぎたり、足りなかったりします。
このブログも読む方それぞれ受け取り方が違うと思うので、不快に思われたらごめんなさい。悪意はありません。
 
別の話しをします。
とあるところで私はこう書きました。
「私は私でしかない」
 
これの意味は丁寧に書けば「私は私自身でいる事しかできない」でした。
 
でも私の書き方が悪かったので誤解されたようです。
いつの間にか、「私は私の勝手にする」「私は私の好きなようにする」と解釈されました。
でも、そういう事だったのです。
誤解させてごめんなさい。
誤解された方が、これをお読みになっていて、それでもお考えが変わらなかったり、また別の解釈をされても、それはその方の自由であり、それを受け入れます。