「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

真理ーあなたの生得権…02

2013-01-18 19:51:21 | OSHOの講話

それから、質問の第二点ーーー「真理とは何でしょうか? それを部分的に知ることは可能ですか?」


真理は部分的には わからない。
なぜなら 真理は ひとつだからだ。
部分には分けられない。
つまり、いまは少しだけ知り、そして少し、そしてまた少しというように真理を知ることは 不可能だ。
それは そんなふうには起こらない。
真理は ひとつとして体験される。
つまり、段階的な過程ではないということだ。
それは 丸ごと体験され、爆発の中で体験される。
しかし、それは 丸ごとでしか わからないと言うと、あなたは 少し不安になるだろう。
なぜなら、あなたは とても無力に感じているからだ。
どうやって、それが丸ごとわかるというのか?

家の屋根に あっという間に登ったとしても、その人は そこまでのステップを 一歩ずつ登ったのだ。
一歩で屋根に辿り着いたわけではない。
最初の一歩では 屋根の上にはいない。
そして最後の一歩でも、まだ屋根の上にはいないーーー屋根に近付き始めたが、まだ その上にはいない。

徐々に真理へ近づくことは可能だ。
しかし 真理に至ったとき、それは 全体的(トータル)だ。
つまり、真理へは 徐々に近づくことができるが、真理への到達は全体的であり、決して部分的ではない。
それは 決して断片的ではない。
このことを覚えておきなさい。


だから、わたしが あなたがたに与えた 瞑想への入門には 一連の段階があるーーーそれを通して 真理を知ることはないが、あなたは それを通して真理に近づく。
そして わたしが「感情の空(くう)」と呼んだ最後の一歩において、この 感情の空をも 飛び越えるなら、あなたは 真理を体験するだろう。
ただし そのとき、真理は 丸ごとわかる。

神性の体験は、断片的には訪れない。
それは 全体として起こる。
しかし 神性へ至る道は、多くの部分に分けられる。
これを 覚えておきなさいーーー神性へ至る道は 部分に分けられるが、真理そのものは 部分的ではない。
だから、「わたしのような弱い人間に、どうして真理全体がわかるだろう? 少しずつ知ることができるのなら、やっと何とかわかるだろう」などと 考えてはいけない。

いや、あなたにも わかる。
なぜなら、一度に短い距離だけ 道を歩けばいいのだから。
全行程を 瞬時に歩くことはできない。
あなたは 全行程を一瞬にして歩けはしない。
一度に 少しずつ歩んでいかなくてはならない。
しかし、目的地は常に 全体として到達される。
決して 部分的には至れないーーーこのことを 覚えておきなさい。



ある人が 尋ねている。

真理とは 何でしょうか?

(つづく)

真理ーあなたの生得権…01

2013-01-18 00:38:11 | OSHOの講話
(瞑想の道 P.255~265) 親愛なる人たちへ

ある人が 尋ねている。

真理とは何でしょうか? それを部分的に知ることは 可能ですか?
また、そうでないとしたら、それを 成就するために 何ができるのでしょうか?
なぜなら、すべての人が 見者になれるわけではないのですから。



第一に、どの人も 見者になる可能性を持っている。
この可能性を現実に変容させないとしたら、それは 別の問題だ。
一粒の種子が 木に育てないとしたら、それは別の問題だ。
しかし、どの種子も木になるための 秘められた能力を 持っている。
どの種子にも この可能性がある。
そうならないのは、まったく別の問題だ。
肥料を得られなかったり、土壌を見つけられなかったり、水や光を得られなかったら、種子は死ぬだろう。
それは あり得る。
しかし、種子には 確かに可能性がある。

ありとあらゆる人が、見者になる可能性を持っている。
だから、まずは あなたのマインドから、光明を得るのは限られた人の特権だという考えを 捨て去ることだ。
光明を得ることは、特別な人の権利ではない。
そして、この考えを広めた人は、ひとえに自分のエゴを 満足させるためにそうしているのだ。
誰かが、光明を得ることは実に困難で、ほんの 一握りの人にしか 可能ではないと言うなら、それは 彼らのエゴを肥えふとらせているのだ。
これは、幾人かの人が 自分のエゴを満足させる手段にすぎない。
そうではなく、すべての人が見者になる可能性を 持っている。
なぜなら、真理を体験する スペースと機会は、どの人にもあるからだ。

あなたが それを体験しないなら、それは また別のことだと わたしは言った。
そのためには、あなたにこそ責任があるのであって、あなたの 可能性に責任はない。

ここに座っている わたしたち全員に、起き上がって歩く力 がある。
しかし、歩かずに 座り続けているとしたら何になるだろう?
あなたは 力を活性化することで、それを見出だす。
使わないでいる内は、それを知ることはない。

今、あなたは ただここに座っている。
あなたに歩く能力があることは 誰にもわからない。
また、自己の内側を見つめても、自分でも この歩くという能力の場所を特定できないだろう。
あなたは それを見つけられない。
歩く能力があるかどうかは、歩いてみた後で はじめてわかる。
そして、自分が その能力を持っているか否かは、光明を得ようと試みる過程を体験した後でこそわかる。
試みない人は きっと、この可能性を持っているのは 一握りの人だけだと 感じるだろう。
それは 間違いだ。

だから 第一点ーーー真理に至るのは すべての人の特権であり、すべての人の生得権なのを 理解することだ。
この点においては、誰も特権など 持ってはいない。


(つづく)