「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

三つ目の質問、02

2013-01-19 17:30:35 | OSHOの講話
(…あらゆる過去の条件付けを洗い流すことは、一人一人の手の内にある。)


昨日まで、あなたは 怒っていたーーー怒るのは自由だ。
この二十年間 毎日怒ってきた人は、当然のことながら 怒りに 縛られるだろう。
たとえば 二人の人がいるーーーこの二十年間、絶えず怒ってきた人が ある朝起きると、ベッドのとなりにスリッパが 見当たらない。

二十年間 怒ることがなかった人が ある朝起きると、これまたベッドのとなりにスリッパが見当たらない。
この状況で、怒り出す可能性が高いのは どちらだろう?
最初の人、つまり二十年間 怒ってきた人が 怒り出すだろう。
この意味で、彼は 縛られている。
なぜなら 何かが自分の起こってほしいように起きないと、二十年に及ぶ 怒りの習慣が、たちまち内側に湧き起こるからだ。
二十年に及ぶ 条件付けのために、いつもしてきたのと同じことをしたくなるという意味で、彼は縛られている。
それにしても、強く縛られているあまり、彼が 怒らない可能性は ゼロなのだろうか?

いや、誰も そのように縛られてはいない。
まさに その瞬間、気づくことができたら 立ち止まれる 。
怒りが やって来るのを阻止することは可能だ。
怒りは変容できる。
そして そうするのなら、二十年に及ぶ習慣が問題になろうとも、彼を 完全に引き止められはしないーーーなぜなら、習慣を生み出した人が それに対抗するなら、完全にそれを打ち破る自由を手にするからだ。
何度もその実験を行えば、それから自由になるだろう。


過去の行為は あなたを縛るが、完全に縛りはしない。
行為は あなたを 捕らえるが、完全に捕らえはしない。
それには 鎖があるが、あらゆる鎖は 壊すことができるーーー壊せない鎖はないーーー壊れないものは、鎖とは呼べない。

鎖は あなたを縛るが、あらゆる鎖には 壊されるという可能性がもともと備わっている。
壊せない鎖があったら、それを 鎖とは呼べまい。
あなたを 縛り、それでいて壊すこともできるものこそ 鎖と呼べる。
あなたの 行為は、壊すこともできるという意味で 鎖だ。
人の 意識は常に自由だ。あなたには 常に、重ねてきた歩みや、歩んできた道を 戻る自由がある。

だから 過去はあなたを制限するが、あなたの 未来は完全に自由だ。
一方の足は 縛られているが、もう一方は 自由だ。
過去という足は 縛られるが、未来という足は 自由だ。
望むなら、あなたは この未来という足を、過去という足が繋がられている方向へ上げることができる。
すると、あなたは 束縛され続けるだろう。
望むなら、あなたは この未来という足を、過去という足とは 反対の方向へ上げることもできるーーーすると、あなたは 自由であり続けるだろう。
それは あなたの手の内にある。
両足が 自由である状態は、モクシャ すなわち光明と呼ばれる。
そして、とことん最低なたぐいの地獄は、両足が 縛られた状態だ。

こうした理由から、過去や 過去生を恐れる必要はない。
そうした行為を行った者は、それでもなお 別の行為を自由に行なうことができるのだからーーー。



ある人が尋ねている。
観照者になったあと、考える者は誰ですか?


あなたが 観照者であるとき、思考はない。
何かを 考える瞬間、あなたは もはや観照者ではない。

(つづく)

三つ目の質問、01

2013-01-19 12:12:49 | OSHOの講話
(…人の行為は、何生もの行為の結果に縛られているのでしょうか? もしそうなら、今生で 一人一人が手にしている生とは何なのでしょうか)


質問はこうだーーー「もし わたしたちが、過去の行為や過去生の価値に支配されているなら、いま わたしたちに何ができるのでしょうか?」。
もっともな質問だ。
人が 完全に 過去の行為に縛られていることが真実なら、自分自身の手の内にあるものは 何だろう?
いま わたしたちに できることは何か?
そして 過去の行為に まったく縛られないことが真実なら、何かを為すことの意味とは何だろう?ーーー過去の行為に縛られないなら、いま 何をしようと 明日は縛られることはないのだから。

つまり、今日 何かいいことをしても、明日 その善行から 恩恵を得る可能性はない。
そして、もし完全に 過去の行為に縛られているなら、何を しようと意味はないーーーなぜなら 人は何もできず、完全に縛られているからだ。

これに対して 完全に自由であるなら、何かを為すことに意味はない。
何をしようと 明日は それから自由であり、過去の行為は 自分に 影響を及ぼさないからだ。
だから 人は 完全に縛られてもいないし、完全に自由でもないーーー 一方の足は 縛られ、もう一方は 自由だ。


その昔、ある人が ハズラット-アリに尋ねた。
「人は自分の行為から自由なのでしょうか、それとも縛られているのでしょうか?」

アリは言った。
「一方の足を上げなさい」

その人は、左右のどちらを 上げようと 自由だった。
彼は 左足を上げた。
すると アリは言った。
「では、もう一方を 上げなさい」

その人は答えた。
「あなたは 気が狂っているのですか? もう片方は、もはや上げられません」

アリは尋ねた。
「なぜだね?」

その人は答えた。
「一度に 一本しか上げられないのです」

アリは言った。
「人の生の場合も同じだ。
あなたには 常に二本の足がある。
しかし 一度に 一本しか上げられないーーー 一方は 常に縛られているのだ」。


だから あなたには、自由に動ける足の助けを借りて、縛られた足を 自由にする可能性が存在する。
しかし、縛られたほうの足のせいで、自由なほうを縛り付ける可能性も存在するのだ。


過去に 何をしたのであれ、あなたは してしまった。
そうするのは自由であり、あなたは そうしてしまった。
あなたの 一部は凍りつき、縛られている。
だが、ほかの部分は まだ自由だ。
あなたは、自分がしたのと反対のことを 自由に行うことができる。
反対のことをすることによって、あなたは 以前したことを 帳消しにできる。
違うことを することによって、それを 打ち破れる。
より良いことを することによって、それを しりぞけられる。


あらゆる 過去の条件付けを 洗い流すことは、一人一人の手の内にある。

(つづく)

二つ目の質問、真理とは何でしょうか?…02

2013-01-19 11:04:47 | OSHOの講話
(…真理の体験はあなた自身のものだ。真理の体験は常に個人的であり、他人には伝えられない。)


だから わたしは、あなたに真理とは何かを説くつもりはない。
何かを あなたに隠しておきたいからではなく、語ることができないからだ。
遠い昔、ウパニシャッドの時代、誰かが 見者のもとに行き、「真理とは何でしょうか?」と尋ねるたびに、見者は その人を鋭く見据えたものだ。

再びその人は、「真理とは何でしょうか?」と尋ねた。
さらに、「真理とは何でしょうか?」と 三度尋ねた。

すると 見者は言った。
「わたしが 何度も話しているのに、あなたは 理解しない」

その人は言った。
「何を おっしゃっているのです? わたしは三回尋ねました。
そして、あなたは 三回とも沈黙していました。
なのに あなたは、何度も話したとおっしゃるのですか?」

すると見者は言った。
「わたしは、あなたが わたしの沈黙を理解できることを願っている。
なぜなら、そのとき あなたは 真理とは何かを理解するだろうから」

沈黙こそ、それを語る 唯一の方法だ。
真理を知った者は 沈黙した。
真理が 語られるとき、彼らは 沈黙する。


沈黙することができたら、あなたは それを知るだろう。
沈黙していないなら 知り得ないだろう。
あなたは 真理を知ることができるが、ほかの人に 理解させることはできない。
わたしが 真理とは何かを 語ろうとしないのはこのためだーーーなぜなら、それは語ることができないのだから。




ある人が尋ねている。

人の行為は、何生もの行為の結果に 縛られているのでしょうか?
もしそうなら、今生で 一人一人が手にしている生とは、何なのでしょうか?


(つづく)

二つ目の質問、真理とは何でしょうか?…01

2013-01-19 09:36:11 | OSHOの講話
(ある人が尋ねている。)
真理とは何でしょうか?


それを 言葉で語るすべはない。
今日に いたるまで、それを人間の言葉で語るのは 不可能だったーーーそして 将来も語られることはないだろう。
かつて わたしたちは、それを語るに充分足りる豊かな言語を 持っていなかったわけではないが、将来 それを語れることもない。
それは、決して語られることはないだろう。

これには 理由がある。
言語は 他者との コミュニケーションを目的として編み出されたものだ。
言語は 人との コミュニケーションのために つくられたものであって、真理を表現するために つくられたものではない。
そして、言語をつくった人々が、真理を 知り得ていたとは思われない。

だから 究極の真理には 言葉がないのだ。

そして 真理を知った人々は、言語を通して知ったのではなく、沈黙を通して知った。
つまり、真理を体験したとき、彼らは 完全に沈黙していた。
そこには いかなる言葉も存在しなかった。
だから 問題があるーーー体験ののち、それについて 語り始めたとき、彼らは ひとつの点に気づいたーーー真理は 言葉で表現するすべがないことを。
それ に言葉を与えることは不可能だ。
そして 彼らが 言葉を与えたとき、言葉は 不完全で、事足りないものだった。

そして、こうした言葉だけをもとに 論争が生まれたーーーまったく同じ言葉についてだ!
なぜなら、あらゆる言葉は不充分であり、真理を 表現できないからだ。
それらは、ちょうどヒントのようなもの。
あたかも誰かが 月を指差しているようなものだ。
もし、それを月だと思って 指をつかんだら問題になるだろう。
指は 月ではない。
ただの 指標だ。
指標に しがみつく人は、厄介なことになる。
指が指していたものが 目に見えるよう、あなたは 指を放棄しなければならない。
あなたは 言葉を落とさなければならない。
すると、そのとき はじめて真理の一瞥を得るだろう。
しかし、言葉に しがみつく人は この体験を逃すだろう。

わたしが あなたに、真理とは何かを 説くすべがないのはこのためだ。
そして、説くことを主張する人は、自分自身を 欺いている。
誰かが あなたに真理を説いたら、彼は 自分とあなたを 欺いている。
真理は 説明のしようがない。
もちろん、いかに真理を 体験するかを説くすべはある。
真理を 知るための 手法や過程なら説明できる。
しかし、真理とは何であるかは 語れない。

真理に至る手法はあるが、真理の 定義はない。
この三日間、わたしは こうした手法を検討してきた。
そして あなたは、わたしたちが真理そのものを完全に無視したと感じているかもしれない。
わたしは 真理について話してきたが、そもそも 真理とは何かは語らなかった。

そうだ、それは 語れない。
体験できるのみだ。
真理は、説明できないが 体験できるーーーそして それは あ な た の 体験となるだろう。

手法は 与えることができるが、真理の体験は あなた自身のものだ。
真理の体験は 常に個人的であり、他人には伝えられない。



(つづく)