(…あらゆる過去の条件付けを洗い流すことは、一人一人の手の内にある。)
昨日まで、あなたは 怒っていたーーー怒るのは自由だ。
この二十年間 毎日怒ってきた人は、当然のことながら 怒りに 縛られるだろう。
たとえば 二人の人がいるーーーこの二十年間、絶えず怒ってきた人が ある朝起きると、ベッドのとなりにスリッパが 見当たらない。
二十年間 怒ることがなかった人が ある朝起きると、これまたベッドのとなりにスリッパが見当たらない。
この状況で、怒り出す可能性が高いのは どちらだろう?
最初の人、つまり二十年間 怒ってきた人が 怒り出すだろう。
この意味で、彼は 縛られている。
なぜなら 何かが自分の起こってほしいように起きないと、二十年に及ぶ 怒りの習慣が、たちまち内側に湧き起こるからだ。
二十年に及ぶ 条件付けのために、いつもしてきたのと同じことをしたくなるという意味で、彼は縛られている。
それにしても、強く縛られているあまり、彼が 怒らない可能性は ゼロなのだろうか?
いや、誰も そのように縛られてはいない。
まさに その瞬間、気づくことができたら 立ち止まれる 。
怒りが やって来るのを阻止することは可能だ。
怒りは変容できる。
そして そうするのなら、二十年に及ぶ習慣が問題になろうとも、彼を 完全に引き止められはしないーーーなぜなら、習慣を生み出した人が それに対抗するなら、完全にそれを打ち破る自由を手にするからだ。
何度もその実験を行えば、それから自由になるだろう。
過去の行為は あなたを縛るが、完全に縛りはしない。
行為は あなたを 捕らえるが、完全に捕らえはしない。
それには 鎖があるが、あらゆる鎖は 壊すことができるーーー壊せない鎖はないーーー壊れないものは、鎖とは呼べない。
鎖は あなたを縛るが、あらゆる鎖には 壊されるという可能性がもともと備わっている。
壊せない鎖があったら、それを 鎖とは呼べまい。
あなたを 縛り、それでいて壊すこともできるものこそ 鎖と呼べる。
あなたの 行為は、壊すこともできるという意味で 鎖だ。
人の 意識は常に自由だ。あなたには 常に、重ねてきた歩みや、歩んできた道を 戻る自由がある。
だから 過去はあなたを制限するが、あなたの 未来は完全に自由だ。
一方の足は 縛られているが、もう一方は 自由だ。
過去という足は 縛られるが、未来という足は 自由だ。
望むなら、あなたは この未来という足を、過去という足が繋がられている方向へ上げることができる。
すると、あなたは 束縛され続けるだろう。
望むなら、あなたは この未来という足を、過去という足とは 反対の方向へ上げることもできるーーーすると、あなたは 自由であり続けるだろう。
それは あなたの手の内にある。
両足が 自由である状態は、モクシャ すなわち光明と呼ばれる。
そして、とことん最低なたぐいの地獄は、両足が 縛られた状態だ。
こうした理由から、過去や 過去生を恐れる必要はない。
そうした行為を行った者は、それでもなお 別の行為を自由に行なうことができるのだからーーー。
ある人が尋ねている。
観照者になったあと、考える者は誰ですか?
あなたが 観照者であるとき、思考はない。
何かを 考える瞬間、あなたは もはや観照者ではない。
(つづく)
昨日まで、あなたは 怒っていたーーー怒るのは自由だ。
この二十年間 毎日怒ってきた人は、当然のことながら 怒りに 縛られるだろう。
たとえば 二人の人がいるーーーこの二十年間、絶えず怒ってきた人が ある朝起きると、ベッドのとなりにスリッパが 見当たらない。
二十年間 怒ることがなかった人が ある朝起きると、これまたベッドのとなりにスリッパが見当たらない。
この状況で、怒り出す可能性が高いのは どちらだろう?
最初の人、つまり二十年間 怒ってきた人が 怒り出すだろう。
この意味で、彼は 縛られている。
なぜなら 何かが自分の起こってほしいように起きないと、二十年に及ぶ 怒りの習慣が、たちまち内側に湧き起こるからだ。
二十年に及ぶ 条件付けのために、いつもしてきたのと同じことをしたくなるという意味で、彼は縛られている。
それにしても、強く縛られているあまり、彼が 怒らない可能性は ゼロなのだろうか?
いや、誰も そのように縛られてはいない。
まさに その瞬間、気づくことができたら 立ち止まれる 。
怒りが やって来るのを阻止することは可能だ。
怒りは変容できる。
そして そうするのなら、二十年に及ぶ習慣が問題になろうとも、彼を 完全に引き止められはしないーーーなぜなら、習慣を生み出した人が それに対抗するなら、完全にそれを打ち破る自由を手にするからだ。
何度もその実験を行えば、それから自由になるだろう。
過去の行為は あなたを縛るが、完全に縛りはしない。
行為は あなたを 捕らえるが、完全に捕らえはしない。
それには 鎖があるが、あらゆる鎖は 壊すことができるーーー壊せない鎖はないーーー壊れないものは、鎖とは呼べない。
鎖は あなたを縛るが、あらゆる鎖には 壊されるという可能性がもともと備わっている。
壊せない鎖があったら、それを 鎖とは呼べまい。
あなたを 縛り、それでいて壊すこともできるものこそ 鎖と呼べる。
あなたの 行為は、壊すこともできるという意味で 鎖だ。
人の 意識は常に自由だ。あなたには 常に、重ねてきた歩みや、歩んできた道を 戻る自由がある。
だから 過去はあなたを制限するが、あなたの 未来は完全に自由だ。
一方の足は 縛られているが、もう一方は 自由だ。
過去という足は 縛られるが、未来という足は 自由だ。
望むなら、あなたは この未来という足を、過去という足が繋がられている方向へ上げることができる。
すると、あなたは 束縛され続けるだろう。
望むなら、あなたは この未来という足を、過去という足とは 反対の方向へ上げることもできるーーーすると、あなたは 自由であり続けるだろう。
それは あなたの手の内にある。
両足が 自由である状態は、モクシャ すなわち光明と呼ばれる。
そして、とことん最低なたぐいの地獄は、両足が 縛られた状態だ。
こうした理由から、過去や 過去生を恐れる必要はない。
そうした行為を行った者は、それでもなお 別の行為を自由に行なうことができるのだからーーー。
ある人が尋ねている。
観照者になったあと、考える者は誰ですか?
あなたが 観照者であるとき、思考はない。
何かを 考える瞬間、あなたは もはや観照者ではない。
(つづく)