
(…大衆はすでに、何世紀にもわたる 先入観に満ちた心(マインド)を持っている。)
彼らは 何が正しく、何が間違っているかを知っているーーー本当は 何も知ってはいないのに! 彼らは 真理とは何か、神とは何か、天国とは何かを知っている。
彼らの 条件づけを 変えることはできない。
彼らにとっては、あなたのもとを去り、自分たちの 先入観の裏づけを与えてくれる どこか別の群れに加わるほうが楽なのだ。
それは実に 奇妙な状況だ。
あまりにも 自分の無知と同一化しているために、自分の 無知が助長されるところでは幸福になり、自分の無知が 暴露され、息の根を止められるところでは 不幸になる。
だが、
これが驢馬のありようだ。
臨済は、あ な た が それを得て 他の人々に 伝えつづける以外に、第三の眼を 保つ道はないと言っている
教典に 保存することはできないし、他の いかなる方法をもってしても 保ちえない。
第三の眼を保つ 唯一の道は、それを 実際に 体 得 す る ことーーー他の人々と 分かち合うことができるほど 充分に体得することだ。
【 その後、臨済は 仏陀の姿勢で端座したまま遷化した。
八六六年、あるいは 八六七年のことである。
二十二人の 大悟した弟子を残して 臨済は去った。】
それは 人間の意識に対する 偉大な貢献だった。
二十二人の 大悟した弟子を残すことは、意識の次元を 引き上げることだーーーたったひとりの人の 大いなる努力、大いなる貢献。
そして、千百年このかた、臨済の弟子たちは 絶えることなく 光明を得てきた。
その法脈は 今も息づき、流れている。
砂漠のなかで途絶えてはいない。
砂漠とは、〝学者たち〟という砂漠のことだ。
その砂漠は、様々な大学の手で つくり出されている。
その 砂漠のなかでは すべてが失われる。
広大な サハラ砂漠の なかでは、意識の小さな川は 大海にたどり着くどころか、ただ 途絶えてしまう。
学識は どれも あなたを大海から 遠ざけてゆく。
なぜなら、この手の学者たちはみな、既得権益を持つ者たちの 奉仕者にすぎないからだ。
彼らには 一定の権益があり、その権益を守るためなら どんな妥協をすることも辞さない。
現に、彼らは あらゆることに 妥協してきた。
(つづく)