「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

【第八話 心地の法】09

2013-06-12 22:09:21 | OSHOの講話



(…大衆はすでに、何世紀にもわたる 先入観に満ちた心(マインド)を持っている。)

彼らは 何が正しく、何が間違っているかを知っているーーー本当は 何も知ってはいないのに! 彼らは 真理とは何か、神とは何か、天国とは何かを知っている。

彼らの 条件づけを 変えることはできない。
彼らにとっては、あなたのもとを去り、自分たちの 先入観の裏づけを与えてくれる どこか別の群れに加わるほうが楽なのだ。



それは実に 奇妙な状況だ。

あまりにも 自分の無知と同一化しているために、自分の 無知が助長されるところでは幸福になり、自分の無知が 暴露され、息の根を止められるところでは 不幸になる。
だが、
これが驢馬のありようだ。



臨済は、あ な た が それを得て 他の人々に 伝えつづける以外に、第三の眼を 保つ道はないと言っている

教典に 保存することはできないし、他の いかなる方法をもってしても 保ちえない。

第三の眼を保つ 唯一の道は、それを 実際に 体 得 す る ことーーー他の人々と 分かち合うことができるほど 充分に体得することだ。



【 その後、臨済は 仏陀の姿勢で端座したまま遷化した。
八六六年、あるいは 八六七年のことである。
二十二人の 大悟した弟子を残して 臨済は去った。】


それは 人間の意識に対する 偉大な貢献だった。

二十二人の 大悟した弟子を残すことは、意識の次元を 引き上げることだーーーたったひとりの人の 大いなる努力、大いなる貢献。

そして、千百年このかた、臨済の弟子たちは 絶えることなく 光明を得てきた。

その法脈は 今も息づき、流れている。
砂漠のなかで途絶えてはいない。


砂漠とは、〝学者たち〟という砂漠のことだ。

その砂漠は、様々な大学の手で つくり出されている。

その 砂漠のなかでは すべてが失われる。

広大な サハラ砂漠の なかでは、意識の小さな川は 大海にたどり着くどころか、ただ 途絶えてしまう。

学識は どれも あなたを大海から 遠ざけてゆく。

なぜなら、この手の学者たちはみな、既得権益を持つ者たちの 奉仕者にすぎないからだ。

彼らには 一定の権益があり、その権益を守るためなら どんな妥協をすることも辞さない。

現に、彼らは あらゆることに 妥協してきた。


(つづく)

【第八話 心地の法】08

2013-06-12 17:57:39 | OSHOの講話



臨済は 息を引き取る前に 弟子たちに言った。

「私が逝ったのち、私の正法眼蔵を滅してはならないーーー私は おまえたちに宝蔵を与えた。
私は おまえたちを 玄旨へと導いた。

私は おまえたちに第三の眼を気づかせた。

誰にも それを 壊させてはならない 」


【 一番弟子の 三聖が言った。】

【「誰が あえて滅したりするでしょう」】ーーー
ーーー誰に 壊せるでしょう?

あえて壊すほどの勇気が 誰にあるでしょう?

【臨済は応じた。
「今後、誰かが 正法眼蔵について尋ねたら、おまえは どう応える?」

三聖は「喝!」と叫んだ。

臨済は言った。
「盲驢馬が 正法眼蔵を滅するなどと 誰が思っただろう」】



三聖は 抜かりなく応答している・・・・・・。
「喝!」と叫ぶことは 臨済によって 禅の伝統にもたらされた。

問いに応えることが できないとき、問いが 回答不可能なものであるとき、一喝することは、少なくとも 一瞬のあいだ、即座に相手を 沈黙させる。
それが 答えだ。
「沈黙するがいい、そうすれば わかる」と。

言葉で多くを 言うのではなく、ただ 大声で怒鳴る。
相手は ただショックを受ける。


一瞬のあいだ、心は鋭敏になる。
「何が起こっているのだろう?
ひじょうに 筋が通って、理にかなった質問をしたのに、この人は 私を怒鳴っている!」が、あまりに素早く、道理も 筋道もなく 怒鳴られるので、頭(マインド)は その意味を つかむことができない。

そこで 頭は静かになるーーー少なくとも 一瞬のあいだは。

三聖は大声で「喝!」と 怒鳴った。

だが、それは ふさわしい応答ではなかった。


【臨済は言った。
「盲驢馬が 正法眼蔵を滅するなどと誰が思っただろう?」】

彼は言っている。
正法眼蔵は、いつも 人間の盲目性によって 破壊される、と。

盲目の人間の前で いくらでも怒鳴ることはできる。

だが、それは相手の 第三の眼を開く 助けにはならない。

彼は 外界を見ることすら できない。

どうして 内側を 見ることができるだろう?

彼には 見る とは どういうことなのかが わからない。



すべての 偉大な宗教の頂きは、その師(マスター)の 死後、盲驢馬たちによって破壊される。

あなたは彼らを 見分けることが できない。

なぜなら、盲驢馬とは、あなたの知っている 驢馬のことではないからだ。

盲驢馬とは、宗教学者、ラビ、司教、法王、シャンカラチャリヤたちのことだ。

この盲驢馬たちは、すべてを破壊しつづける。

なぜなら、大衆の心(マインド)を 操らなければならないからだ。

彼らは 真理を 救うことには関心がない。
誰が真理のことなど 気にかける?
真の問題は、
いかに 多くの 信者を 獲得するかだ。


誰もが より以上の力を持つことに かまかけている。
そして、
外界における力は ただひとつしかない。

それは 背後に大衆を擁していることから来る力だ。

だが、大衆の支持を 受けるためには、大衆の 後ろにつかなければならない。

ありとあらゆる妥協を しなければならない。

さもなければ、大衆は ついてこない。



大衆は すでに、何世紀にもわたる 先入観に満ちた心(マインド)を持っている。

(つづく)