囲碁とロック

好きなことについて

引き分けが、引き分けじゃないゲーム。

2020-07-28 19:54:35 | 日記

どうも、囲碁アートの関です!!

 

前々回、「コミ」についてのお話でした。

白の陣地を6.5目、プラスする。

勝負を互角にして、引き分けをなくして、しっかり勝ち負けがつくようにしたものです。

なくてはならないもの、のような感じがしますね。

 

しかし、これが公式戦で導入されたのは昭和の初めごろでした。

いまも行われている「本因坊戦」の初回、1939年~1941年。

そのあたりから、だんだんと採用され始めてきたようです。

 

ということは・・・一般的になってわずか「80年」?

何千年といわれる囲碁の歴史のなかでは、だいぶ最近のことみたいです。

 

じゃあ、その前はどうなってたんだ・・・

勝負、成り立つんでしょうか。

 

そこには、囲碁の「勝ち負けじゃなさ」がぎっしり詰まっていたのです。

 

 

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コミが導入される前。代表的なのは江戸時代の囲碁界です。

囲碁は、

「黒番が有利」

「引き分けがある」

ものでした。とはいっても、

黒が有利だと気付いていなかったから、ではありません。

昔の人もちゃんと黒番有利を知っていました。

 

そのうえで、表面の勝ち負けだけではない、

明らかに「ゲーム」であることを超えた

「棋道」としての見方があったのでした・・・。

 

たとえば、

1841年 黒:本因坊秀和 対 白:伊藤松和 の一戦

 

黒の秀和(しゅうわ)は歴代でも最強クラスの人で、当時の覇者のひとり。

伊藤松和(しょうわ)のほうが年長で、ベテランの立ち位置でした。

この一局は松和の「一生の傑作」といわれていて、「名人クラスの碁を打った」(意訳)と評されました。

不利な白番を持った松和、超がんばります

▲の二手が有名で、普通の発想では思いつかないやつ。やばい 神

 

一生の傑作です。人生でもこれ以上はないような、一番力を出し切った碁です。

さて、結果は・・・?

 

持碁。

 

引き分けでした。

勝ってないんですよね。

でも、その結果も含めて「一生の傑作」です。

 

当時の価値観をざっくりと書いてみると

黒→有利だから、最後までリードを守って勝ち切る。堅実。

白→不利だから、なんとか頑張って逆転を目指す。積極的。

が一般的です(人によりますが)

黒と白で、やることが全然違うんです。

 

なので、黒が勝つのは当たり前。

どんな内容で、どのくらいの差で決着するか?

というところに、表面の勝ち負けとは別の価値が置かれていたようなのです。

 

これも、だいたいですが

黒3目以上勝ち・・・黒が頑張った。勝ちといってよい。

黒2目勝ち・・・お互い頑張った。

黒1目勝ち・・・黒が相当追い詰められた。白も褒められるべき

引き分け(持碁)・・・白すごい。大成功

白勝ち・・・はっきり白の人のほうが強い

 

みたいになります。

 

今回の松和の「持碁」は、

「あの最強の本因坊秀和に白を持ったにもかかわらず、黒の有利な分を帳消しにして引き分けた。内容も素晴らしい。」

という点で評価されていると思います。

 

他の強豪の中には、結果は負けなのに最高の出来とされたもの もあるくらいです。

 

 

なんなんでしょうね、囲碁って・・・勝負って・・・笑

 

トーナメント戦がなく、棋士の数も少なかったので

一発でキッカリ白黒をつける必要が、今よりも薄かったわけです。

それよりも、何より最優先だったのが「技を競ってぶつけあうこと」。

別にコミがなくても、それはできていたのでした。

 

「囲碁」とひとくちに言っても、こんなに理路整然と成り立っているように見えても、

文化が違えばまったく異質なものになるわけですね。

 

10年後、100年後にさらに面白くなっているように

私なりにいろいろやっていこうと思います。


囲碁アートは「ドット絵」なのだろうか。

2020-07-22 22:56:03 | 日記

囲碁アートマニアの関です!!

 

先日20日、NHKのEテレ「沼にハマってきいてみた」という番組に生出演させていただきました。

(見逃し配信もありますので、日曜までならご覧になれます!)

 

囲碁の特集・・・ではなく、「ドット絵」の特集です。

 

トップランナーといえる方から、トリッキーな作風の方まで。

ドット絵文化を広く取り入れた特集をされていました。

その中の一つとして、うれしいことに、私の作品も扱っていただけることに。

お話をいただいた瞬間は(え、私なんかが・・・)という感じでした。今もちょっと思っています笑

囲碁アートをドット絵として見てもらうのが初めてだったのです。

 

せっかくなので、

囲碁アートはドット絵なのだろうか?

という、この一か月の私の中の迷いを書きたいと思います。

 

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まず、ドット絵の定義を探してみたのですが・・・

「明確な定義はない」

「あなたがドット絵だと思うものがドット絵」

おおむね、このような感じのようです。

 

(同じく出演されていたAPO+さんにも、そのように言っていただけました。報われた気持ち)

 

あ、じゃあ囲碁アートもドット絵でええやん

ということになりますが、せっかくなのでもうちょっと掘ってみて

一般的に「ドット絵」と思われるものと囲碁アートを、いくつかの点で比較してみます。

 

 

・そもそもの形態

 

ドット絵は、最小のマス目(ドット)の集合体で作られる絵のこと。

それ以上小さくしたり、分割したりできない。それでいて目に見えるもので作られています。

 

ここは囲碁アートも全く同じと言えそうです。

囲碁の最小単位は黒白の碁石。そして何もない場所である、線と線が交わった碁盤の一点。

 

 

・制約のある中で作られた歴史

 

ドット絵と聞いてすぐに思い浮かべるのは、ファミコンやゲームボーイなどのグラフィックです。

限りある容量の中で、大きさ・色数の制約の中で、いかに豊かに表現するか・・・

というのがドット絵のルーツとなっているようです。

 

その点、私の囲碁アートにも思うところがあります。

ええ、制約だらけです笑

 

広さの面では、最近のはけっこうデカいですが・・・

初期のころは

 

(ソフトクリーム 13×13 コミ6目「半」なので引き分けにはならない)

 

9路、13路、19路など、実際に使われている(市販されている)

人間が遊べるくらいのサイズで作っていました。

もともとは、囲碁教室で遊んだりすることを想定していたのも理由です。

 

特に19路は、普通に囲碁すると「広い」と感じられるのですが

絵を描くとなると、ものすごく狭いんですよね。

どのように収めるか、毎回苦心していました。

 

色数。黒白と碁盤の三要素しかありません。

その上、引き分けにする・・・

 

しかし、そういったところが作品の見どころにもなっているので

喜んで制約を受けているわけです。

 

 

・ならではのデザイン、というもの

 

ドット絵であることとは。

ドットを使って描いていれば全部それでいい、ともいえないはずです。

最近のゲームの美麗でなめらかなグラフィックが、相当細かく見ればドットで出来ていたとしても

写真の画像データを荒くして拡大すれば、ドットになるとしても

それを「ドット絵」と呼べるかどうか。

 

このあたりは線引きが難しいところに見えます。

 

ドットであることで良さが引き立つような表現

を追究されているところに、ピクセルアーティストの皆さんのすごさを感じます。

 

 

この点、囲碁アートは今のところ

ほぼこだわっていません。

 

(「東中野風景」 229×300)

 

離れてみると、写真みたいで碁石かどうかわからない。

もしかしたら、碁石じゃなくてもこのデザインは成り立つかもしれない。

それでもいいと思って作ったものです。

むしろ拡大したときに「碁石だ!!」ってなることを目指しています。笑

 

周囲の風景は、モデルの写真の線にかなり素直に追従しています。

そうかと思えば、猫のところだけは絵的なデフォルメをしました。

 

色々な作り方を試す段階だと思っていることと

「囲碁で互角」という最大のアイデンティティが既にあるので

形や描き方のこだわりがあまりないのだと思います。

 

なので、「ドット絵」と囲碁アートが一番違うところは

見た目

かもしれません。笑

まだ「碁石が最も引き立つデザイン」というのを確立できていない気がします。

 

 

過去作では、これが最も満足に近い。

適度に小さい(それでも31×31は普通は広いですが)ことで、碁石がどんどん主張していますし

囲碁としても、無限に動いて時計になっています。

ドット絵と囲碁がよく合わさっているかも。

 

 

今回いただいた「ドット絵」という視点。

新しい表現を見つけていきたいと思います!


【終わらない】碁盤の広さを無限にしよう

2020-06-17 01:08:17 | 日記

「関ジャニ∞の、贄の部分」

 

どうも囲碁アートマニアの関です。

 

 

・・・さて、表題の件なんですけれど

皆さん、「囲碁」ってなんでしょうか。

 

たぶん、一番基本に忠実な答えは

「ゲームです」でしょう。

 

パズルである、勝負事である、文化である、伝統である

という答えもありそうですが、それらは囲碁が面白いゲームであること

少ない原理で、無限の深みがあるゲームとして成り立っているからこそ言えるものです。

 

ここ数年、私のなかでそれが揺らいできたことについて書こうと思います。

そう、「無限碁盤」に思い至ったのです。

 

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こちらが普通の碁盤(19×19)です

 

 

広さを無限にすると、こうなります。

端にあった線がなくなって、どこまでも続いていくんですね。

 

・・・これだけのことですが、ヤバいことになります。

 

小さい盤です。これは最後まで進んだ形。

囲碁は陣地の大きさで勝負です。

陣地のことを地(じ)といいまして、

もう自分の地が増えない。相手の陣地も減らない。

となったら、やることがないので、終わりです。

〇が、黒の地。14。

▲が、白の地。同じく14。

引き分けです。

地は、石だけで囲うんじゃなくて、端のところを使ってもいいんですね。

 

前の記事の画像ですが、白の地(赤)とか、黒の右のほうとかがそうです。

端は地ができやすく、たいていの人は序盤から重視します。

 

さて、碁盤を無限にすると・・・

 

いかがでしょう。端をなくして無限にしました。

これは、まだ終わりじゃないですよね。

 

 

世界がいくらでも広がっているので、いくらでも陣地を作れる。

つまり終わりが来ません。

終わりが来ないということは、勝負がつきません。

 

囲碁は囲碁だけど、ゲームじゃない状態

を作り出すことができました。

 

こうなったときに、最も大きな変化は・・・

「地」が無意味になったこと になるでしょう。

目的がないので、一手一手の価値がなくなります。

どんなに広く陣地をとっても、どんなにたくさん石を取っても、そもそも勝負ではないので、価値がない・・・。

(将棋をご存じの方でしたら、「王のいない将棋」をイメージしてみてください。

ほかの駒だけでどんな戦いをしても、勝負に関係ないですね)

 

これ、楽しいんですかね?

いかに端の線が囲碁というゲームを成り立たせているか、がわかります。

 

 

でもなんか、ゾクゾクきませんか?

そもそも、私にとって囲碁はもともと何かを考えるためのツールでもあったのですが、こちらの無限の碁盤のほうが実際に存在する世界により近いかも、と思っています。

宇宙が、端が見えようがない無限の広がりになっていると思われること。

時間も、私がいなくなっても永遠に続いていくであろうと思われること。

 

しかし、自分の人生や社会の中のもろもろが無意味ということではなく、いろいろな線が人間には引かれており、それによって意味付けが与えられているものなんだと思います。

その線は、誰かから与えられたものかも知れないし、自覚的に引いたものなのかもしれません。

 

 

マサラタウンの左右の草むらに恋い焦がれていた少年時代を思い出しますね~。

今後、作品にも生かしていこうと思います。


【囲碁】セキのはなし【平和の象徴】

2020-06-11 18:20:44 | 日記

セキ

 

おお、なんと甘美な響き・・・!!

 

 

 

どうも関です。

 

 

囲碁に「セキ」という言葉があるんですよ。

真ん中らへんにある、黒の3つと白の4つ

どちらも、けっこう囲まれてて、今にも取られそうな気がします。

 

えいっ

たまたま黒の番だったので、白を攻めてみました。

次は白です。どうなるでしょう・・・?

 

 

ほいっと

▲に打つことで、黒の4つが取れました。

ああ、黒は攻めちゃいけなかったんだ・・・

 

なら、白から行ってみよう。

▲に打ちました。次は黒の番です。

どうなるでしょう・・・

 

 

ほいっと

こうなりました。

あれ、白から攻めるのもダメだったようです。

 

 

というわけで、×の石は危なそうなんですが

「どっちからも攻めに行けない」

特殊な形です。

どちらの側も、取られません。安全。

 

この状態を「セキ」といいます。

なんか、運命を感じますよね。

(狭いと言われているはずの囲碁業界には関さんが結構多いです。これがあるから??)

 

 

囲碁勢は空間が好きです。

石を置いていくことで、空いている場所に陣地を完成させるゲームなので、

目的である「石が置かれていない場所」にいろいろなものを感じたり、見出したりします。

たいていは、自分の陣地になりやすいところが好きになりやすい。

 

これは互角の序盤戦ですが

 

黒は真ん中や右のほう(広いけれど陣地かどうか未定)

白は左上、左下らへん(狭いけれどかなり陣地になりやすい)

というふうに、陣地どこになるかなーーといった具合に見ていきます。

 

まだわからない場所も、ゲームが進んでくると陣地になったり、石で埋まったり

最後には、空いている場所の99パーセントは陣地になって終わります。

 

・・・その残った1パーセントが、セキなのです。

 

(ここ)

ここです。

黒と白の間にある、この空間

囲碁のゲームが最後まで進んでも、そのまんま残されます。

どちらの陣地でもない。

石を置いた瞬間、自分がやられてしまうは前述のとおりですね。

 

この空間が、最近私はものすごく好きです。

いろいろ争ったあとに、永久・永遠に踏み込めない、争いが絶対に起こらない場所が生まれている

 

一見、(漫画『グラップラー刃牙』渋川剛気VS愚地独歩戦、ギリギリまで間合いを詰めた状態が続いたように)パワーがぶつかり合って緊張感に包まれているようにも見えますが、絶対にどちらも攻めに行けないのが必然なのです。

この「セキ」、作品に生かさないわけにはいきません。

 

これら、すべて最後には「セキ」になるようにできています。(そのうえ、引き分け)

 

最近はもはや、ただただ図形を描いていますが

空いている場所にも注目してみてください!


【哲学】1×1の碁盤のロマン

2020-05-31 23:58:38 | 日記

こんばんは、囲碁マニアの関です。

 

囲碁に必要なものは何か・・・

といわれたら、

一般的に、間違いなく「碁盤と碁石」ということになります。

 

碁盤(ゴバン)。碁盤とはなんでしょうか。

 

こちらが「本来の」碁盤。プロの公式戦や大会で使われる19路盤(ろばん)です。

 

ちょっと狭くした13路盤

 

9路盤というのもあります。

 

小さめの碁盤は、囲碁を始めてしばらく練習のために使ったり

これはこれで19路盤とは違うゲーム性になるので、ちゃんと楽しかったりします。

実際、市販されてもいます。

 

このように見ますと、「この広さじゃないと碁盤とはいえない」ということはないようです。

囲碁の総本山でありプロ組織「日本棋院」の規約には、公式戦は19路・・・となってはいますが(第三条)

言葉の定義としては、「碁盤」の広さは指定されていないと思います。

いずれも「囲碁」というゲームは成り立ちます。

 

 

さて、広さは関係ないらしい。

じゃあ、どんなに広くてもいいのでは・・・?

(250路盤

 

別に正方形でなくてもいいのでは・・・

300×229路盤

ということも言えそうで、だからこそ「囲碁アート」と胸を張って言えます。笑

囲碁がちゃんと成り立ちますね。

 

しかし、これを逆に

「どんなに狭くてもいいのでは・・・?」

 

となると、一気に解釈が分かれてきそうです。

路は多分、整数でないといけないので

最も小さいのは「1路盤」となるでしょう。

(0×0も面白いですが、

 

先日紹介しました囲碁ソフト、Gowrite

 

こいつの機能で、自由に広さを変えることができるのですが

1×1を入れると・・・・

 

できました(つくづく高機能ですね)

 

これが最小の碁盤、1路盤

 

お気づきでしょう。点です。

碁盤をぎゅっと凝縮すると、点になるんですね~

 

さて。この1路盤がここ数年、囲碁哲学勢(というか私)の中でホットです。

ここにおいて、どのような思考が展開されるのか。大きなテーマです。

 

まあ、囲碁打ってみればわかるんじゃね

お願いします!

 

 

・・・はい?

 

そうなんです。

いわゆる着手禁止点

石から一個も線が出てないので、置いた瞬間、もう囲まれている

という場所は、そもそも石を置けません(前回の記事で解説しました)

まあそうでしょうね。そもそも線ないし。

 

 

というわけで、囲碁始まった瞬間に終わり。引き分けになります。

 

 

さて、これは囲碁なのでしょうか・・・?

 

ここで立場は二つに分かれます。

ゲームが健全に成り立たないならば、それに囲碁としての価値は認められない。

ということは十分に可能です。

実用性を重んじて、プラグマティックな発想といえます。

(その場合は、あまりにも広い碁盤やあまりにも多い碁石も、囲碁としての範疇から外れそうです)

 

もう一つの立場は、「囲碁として思考することが可能であれば、それは囲碁である」というものです。

もちろんというか、私はこちらです。

 

1路盤で、確かに手に汗握る攻防戦や、大きな陣地を作る快感、石をたくさん取る技術を見せることもできませんでした。

しかしそれでも、私はこの単なる「点」を囲碁として思考することができました。

石が置けない場所として。勝負としては引き分けとして。

 

個人的には、石が置けないのにそこにある碁盤。

まったく面積がないが、確かに目の前に存在する空間。

そういったものは大変にそそります。ロマンがあります。

 

これに気付いた日から、この世にあるすべての「点」の中に、

私は囲碁を感じ始めました。

そして点と点がつながったときには、立派に石を置くスペースとなり

 

(1×2からは石が置けます)(勝負としてはアレですが・・・)

 

碁盤の生成過程みたいなものが感じられます。

全ては、碁盤となる条件を含んでいるのかも知れない・・・!

 

ぜひ、一路盤を眺めて、ぼんやりと考えてみてください。癒されます。

そんな休日も悪くないはずです。うん。

(続く・・・?)