こんばんは、囲碁マニアの関です。
囲碁に必要なものは何か・・・
といわれたら、
一般的に、間違いなく「碁盤と碁石」ということになります。
碁盤(ゴバン)。碁盤とはなんでしょうか。
こちらが「本来の」碁盤。プロの公式戦や大会で使われる19路盤(ろばん)です。
ちょっと狭くした13路盤や
9路盤というのもあります。
小さめの碁盤は、囲碁を始めてしばらく練習のために使ったり
これはこれで19路盤とは違うゲーム性になるので、ちゃんと楽しかったりします。
実際、市販されてもいます。
このように見ますと、「この広さじゃないと碁盤とはいえない」ということはないようです。
囲碁の総本山でありプロ組織「日本棋院」の規約には、公式戦は19路・・・となってはいますが(第三条)
言葉の定義としては、「碁盤」の広さは指定されていないと思います。
いずれも「囲碁」というゲームは成り立ちます。
さて、広さは関係ないらしい。
じゃあ、どんなに広くてもいいのでは・・・?
(250路盤)
別に正方形でなくてもいいのでは・・・
(300×229路盤)
ということも言えそうで、だからこそ「囲碁アート」と胸を張って言えます。笑
囲碁がちゃんと成り立ちますね。
しかし、これを逆に
「どんなに狭くてもいいのでは・・・?」
となると、一気に解釈が分かれてきそうです。
路は多分、整数でないといけないので
最も小さいのは「1路盤」となるでしょう。
(0×0も面白いですが、無)
こいつの機能で、自由に広さを変えることができるのですが
1×1を入れると・・・・
できました(つくづく高機能ですね)
これが最小の碁盤、1路盤
お気づきでしょう。点です。
碁盤をぎゅっと凝縮すると、点になるんですね~
さて。この1路盤がここ数年、囲碁哲学勢(というか私)の中でホットです。
ここにおいて、どのような思考が展開されるのか。大きなテーマです。
まあ、囲碁打ってみればわかるんじゃね
お願いします!
・・・はい?
そうなんです。
いわゆる着手禁止点
石から一個も線が出てないので、置いた瞬間、もう囲まれている
という場所は、そもそも石を置けません(前回の記事で解説しました)
まあそうでしょうね。そもそも線ないし。
というわけで、囲碁始まった瞬間に終わり。引き分けになります。
さて、これは囲碁なのでしょうか・・・?
ここで立場は二つに分かれます。
ゲームが健全に成り立たないならば、それに囲碁としての価値は認められない。
ということは十分に可能です。
実用性を重んじて、プラグマティックな発想といえます。
(その場合は、あまりにも広い碁盤やあまりにも多い碁石も、囲碁としての範疇から外れそうです)
もう一つの立場は、「囲碁として思考することが可能であれば、それは囲碁である」というものです。
もちろんというか、私はこちらです。
1路盤で、確かに手に汗握る攻防戦や、大きな陣地を作る快感、石をたくさん取る技術を見せることもできませんでした。
しかしそれでも、私はこの単なる「点」を囲碁として思考することができました。
石が置けない場所として。勝負としては引き分けとして。
個人的には、石が置けないのにそこにある碁盤。
まったく面積がないが、確かに目の前に存在する空間。
そういったものは大変にそそります。ロマンがあります。
これに気付いた日から、この世にあるすべての「点」の中に、
私は囲碁を感じ始めました。
そして点と点がつながったときには、立派に石を置くスペースとなり
(1×2からは石が置けます)(勝負としてはアレですが・・・)
碁盤の生成過程みたいなものが感じられます。
全ては、碁盤となる条件を含んでいるのかも知れない・・・!
ぜひ、一路盤を眺めて、ぼんやりと考えてみてください。癒されます。
そんな休日も悪くないはずです。うん。
(続く・・・?)