青函トンネルの、カントの部分。
・・・どうも囲碁アートの関です。
「〇〇は、〇〇。」
と、マニアフェスタに参加されているマニアさんは
ひとつ設定しています。
はてさて囲碁アートは
「囲碁は、世界そのもの。」
ということでやっています。
ふだんツイッターではメモとして断片的につぶやいて、というかちぎって投げているだけなので
ちょっとまとまった書き方をしてみたいと思います。
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1、囲碁というゲームは「有用」である
囲碁の歴史を調べていると、関羽が手術中に麻酔代わりに酒と囲碁で代用したり、
昔の武将たち(信長、秀吉、家康も)も囲碁を好んでいたり。
あるいは、経営者の方々で囲碁を勉強する動きがあったり。
人とのコミュニケーションとして。熱中できる趣味として。
というのも大きいと思いますが
囲碁そのものの戦略を何かに応用できそうな感じがするんですね。
陣地を完成させるゲームですが、一回に1つしか石を置けないので
できるだけ少ない石の数で陣地を作るにはどうするか、という効率を考えたり。
頑張りすぎず手堅く進めるか、リスクはあるけれど強気に行くか。
相手よりちょっとでも陣地が広ければ勝ちなので
ものごとの全体をとらえる判断力(大局観 といいます)を働かせたり。
それが、「どこに兵を置くか」「どの部署にどの人を、なんにん置くか」
などなど、現実の判断に重なる瞬間がある。みたいです。
あと、そもそもパズル的な思考を使いますから
ゲーム性の中に、ある種の論理とか、システムを見出すこともできます。
そこには良いものがあり、悪いものがあり、価値があり、必然があります。
たとえばこちらは私の作品で「時計」ですが、
囲碁の最善手をお互いが打っていくだけで、時計の針が無限に動きます。
ずっとぐるぐる回り続けるので、勝負としては「無勝負」となります。
動力さえ確保すれば、本当に時計として使えちゃうのがいいですね。(商品化したい・・・)
ほかの記事で解説している「囲碁計算機」も、囲碁の一番良い手を重ねていくパズルの仕組みで計算を成り立たせています。
囲碁の中の出来事が、現実世界の仕組みといろいろ重なっているようなのです。
2、端をなくすと「宇宙」そのものになる
そもそも囲碁には、碁盤という空間があり、碁石を置くことで進む時間があります。
これは18世紀ドイツの哲学者・カントの認識論とも重なります。
もう囲碁の構造からして、「世界と重ねて考えてくださいね」っていう形になっていると思うんです。
そのうえで、前々回の記事「碁盤の広さを無限にしよう」
にて、端をなくした無限の碁盤について考えてみました。
端がなくなると終わりがなくなってしまい、ゲームではなくなりますが・・・
そちらのほうが実際の世界に近いかもしれない、ということでした。
碁盤を無限にすると終わらなくなり、ゲームではなくなります。
一手一手の意味もなくなり、その中にある戦法もパズルも無意味になります。
良い手も悪い手も、価値も必然も、何もありません。
なので、人間にとっても役に立たなそうです。
・・・でも、ほんとの世界は無限に広がっていて、時間も永久に続いていくと仮定すると
その崇高さの前には、わたしの存在がちっぽけに感じられることがあります。
ひとつの好奇心として、自分が一生行けない宇宙の果てとか、宇宙が終わった後とかを考えることがあるのですが
無限の碁盤に石を置くという行為のなかに、その糸口があるような気がするのです。
この中で、人間とはなんなのか・・・!
3、自分自身がそういう世界観で生き始めている
などなどと考えにふける日々なので(自粛してましたし)
もう私自身がすでに、囲碁的な世界に生きているんじゃないか
と思うに至りました。
誰かにとって荒唐無稽に感じられたとしても、私がすでにそうなってるんで、そういう見方が存在するのです。しょうがないでしょう。
ひとりの人間がそうなれたのですから、ほかの人もいずれはね。
というわけで、囲碁は世界そのものと考えてみたいのでした!!
参考にしたもの
カント『純粋理性批判』
パスカル『パンセ』