常陽史料館へ立ち寄りました。
「機織体験教室」の授業中でした。
妨げにならぬように そ~っと撮らせて貰いました。
“ 蚕と 繭の 思いで ”
子供の頃お祖母さんが繭から糸を紡いでいたのを思い出しました。
家の土間には蚕の棚が沢山あり、竹で編んだ平たい円盤が載っています。
小さな蚕が桑の葉を食べていました。
お手伝いさんが毎朝桑の葉を摘んできて蚕に与えていました。
蚕すくすくと育ち やがて塒へ入り繭を作ります。
Oh! お祖母さんは繭を熱湯で茹でた繭から生糸を紡ぎます。
生糸を束ねて出来上がりです。
博多織の原糸になりお祖母さんのお小遣いが出来ました。
間もなく太平洋戦争が始まって桑畑は田圃になりました。
蚕から繭、生糸を紡ぎ染色し機織機で布を作るまで大変な労働がいりますね。
「機織体験教室」を見て昔のことを思い出しました。
結城紬は平成22年11月19日にユネスコの
無形文化遺産に登録されました。
「絹に遊ぶ草木染め・手織りの技」を見て、昔々を思い出しました。
蚕を飼っていたのは小学校に生えるまででした。
食糧増産で桑畑は田圃になって米作りに変わりました。
最近は桑畑を見なくなりました。
「絹に遊ぶ」を見て昔を思い出しました。
桑の実も食べましたね。
まっくんが中学から高校時代の記憶ですが、
実家の祖母が織っていましたね~!
懐かしく思い出されました。
きっと近くで蚕を飼っていたのでしょう。
ほんのりと甘い真っ黒に熟れた桑の実が懐かしいですねぇ
日本には色んな伝統技術が有りますね。
後世に伝えて欲しいです。
この伝統は、何時までも残してほしいものですね
弁慶はおっちゃんの近くの出身でしょう?
おっちゃんは虫も殺さぬ優男ですね。
絹織物は外貨を稼ぐには最高のものでしたね。
ナイロン(nylon)が発明されて絹の移出が減り
農林省(nolyn)が馬鹿にされました。
同じ仲間だから昔話が通じますね。
桑の実も食べ口の周りが紫色になりましたね。
北海道では養蚕は適していなかったのでしょうか?
子供の頃は桑畑で桑の実を食べて口が紫色になっていました。
想い出の一つです。
大の苦手で今でもアオムシは嫌いです
この絹織物でしたね。絹で軍艦を買い
富国強兵を図った指導者は偉かった。
餌の桑の実をこっそり食べて 口の周りが紫に!
こんな催し物があるなんて羨ましい!!
どこかの資料館で枠に入った繭はみました
博物館でないと見られないものが展示されていました。
懐かしいですね。
史料館はとても良いところです。
同じような時代と環境を過ごして来ましたね。
今は着物やバッグをデザインして合った色を
草木染めにしていました。
芸術嗜好でしょうか?
桑の実は食べましたか?
何か資料館に入ってみている感じですね、
昔の機織り体験良いですね、綺麗な色の織物ですね、我が家に子供のころに見かけた糸巻機有りましたよ、見せて頂き有り難うございます。
伝統工芸は栄えて欲しいですね。
それにはゆとりが必要ですね。
結城の町は紬と町並みが綺麗ですね。
結城紬は栃木や群馬に関係が深いですね。
(トライしている人はご婦人で写真の撮り方が拙いですね)
アラン島が一番印象に残っています。
もうすぐ最北端へ到着です。
皆さんのコメントで蚕は身近に有ったのですね。
我が家の場合はS20年頃で終わっていました。
今は草木染めなどで楽しんでいるようですね。
実用よりも芸術嗜好でしょうか?
養蚕をしていた家は多いですね。
5~6才頃の想い出で親父の代になって止めています。
桑の木の手入れが大変なようでした。
養蚕をしていましたか?
蚕でもいろいろな想い出がありますね。
蚕が小さいときから大きくなるのを観察しました。
今は桑畑は見ないですね。
ネクタイは絹でしたね。
結城は町並みが綺麗で好きなところです。
まさかおむつには使わないですね。
袖を通した記憶はありませんね。
何に使うのでしょう?
小生も昔の事を思い出しました。
諏訪に住んでいた小さい頃、長い休みの時は大体
今の長野の家(父の実家)に行きました。
そして蚕の育つのををみたり、時には桑の木を切りにいったり、
切った木から桑の葉を取ったりした記憶が残っています。
それを受け継ぐ若い人も
必要ですね。
伝統はこうして守っていくのですね
トライしているのが 若い男の子というのが
なかなかいいですね
アラン島、記憶が甦りました Golfunさんも
同じ地面を歩かれたのですね・・ あの荒涼とした
感じは 懐かしい記憶です!
昭和30年代頃までだったでしょうか・・・・
懐かしい思いがします。
桑の葉を食べる時のカリカリという音が意外と大きな音であったことを思い出します。
3年生のころと思ってます、結城紬、結城に寄ったときに
ネクタイをと思いましたが高くてやめて帰ったことが
あります(笑)
いかちゃん一度も縁がありませ~~~ん(/。\)ヽヽヽ