八幡浜市を中心に発行している南海日日新聞 の11月1日(火)号の1面には、社説:海鳴り「本紙、今日で満30歳になりました 読者の声を羅針盤にして30年」という記事がありました。
その中から部分的に引用をしておきます。
「30年前の11月1日、南海日日新聞は船出した。…当時は伊方原発の誘致と建設問題で揺れに揺れていた時代だった。その頃、筆者は新愛媛新聞という新聞社の記者をしていた。原発誘致の頃は伊方に何度も足を運んだ。土地買収や漁業権の売り渡しの事など、書いても書いても原発関係の記事がつぶされる事が続いた。直接の上司は影に日向に応援してくれたが、新聞社の経営陣の方に電力会社や国から圧力がかかっていたようだ。その上新聞社の組合運動などもからんで筆者は辞表を出した。」
「もちろん、電力からの広告を無視して、雇われ人の筆者が原発問題を追いかける状況でもなかった。若気の至りと言えばそれまでだが、生活のために自分の思いを殺す事が出来なかった。原発の作られていく過程を知れば知るほど、どうしてもこの地方で建設されようとしている原発の事を記録として残さなければならない。そういう新聞を作りたいと思った。そのためには、自分で新聞を発行する以外に道は無いと決心して苦難の航海が始まった。」
「巷では「あの新聞は、半年はもつまい、いや、3月もてばいいほうよ」と噂された。あれから30年、実に感慨ひとしおである。…」
ということです。勿論新聞を作り続けるということは運動だけのためできるというものではないでしょうが、長い期間続いているのは貴重なことだと思います。
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その中から部分的に引用をしておきます。
「30年前の11月1日、南海日日新聞は船出した。…当時は伊方原発の誘致と建設問題で揺れに揺れていた時代だった。その頃、筆者は新愛媛新聞という新聞社の記者をしていた。原発誘致の頃は伊方に何度も足を運んだ。土地買収や漁業権の売り渡しの事など、書いても書いても原発関係の記事がつぶされる事が続いた。直接の上司は影に日向に応援してくれたが、新聞社の経営陣の方に電力会社や国から圧力がかかっていたようだ。その上新聞社の組合運動などもからんで筆者は辞表を出した。」
「もちろん、電力からの広告を無視して、雇われ人の筆者が原発問題を追いかける状況でもなかった。若気の至りと言えばそれまでだが、生活のために自分の思いを殺す事が出来なかった。原発の作られていく過程を知れば知るほど、どうしてもこの地方で建設されようとしている原発の事を記録として残さなければならない。そういう新聞を作りたいと思った。そのためには、自分で新聞を発行する以外に道は無いと決心して苦難の航海が始まった。」
「巷では「あの新聞は、半年はもつまい、いや、3月もてばいいほうよ」と噂された。あれから30年、実に感慨ひとしおである。…」
ということです。勿論新聞を作り続けるということは運動だけのためできるというものではないでしょうが、長い期間続いているのは貴重なことだと思います。
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