今日の一貫

学問などというのはある種の仮説にすぎないわけですからね

この間様々なインタビューを受けたり研究会、講演での発言が多く、活字にしていただいたものも結構多い。ある研究会から発言要旨を送っていただいた。これはその転載です。

講演者(私)の紹介の後から、、、

、、、、この頃、「日本の農業は大泉先生が言っていたとおりになってきた」とよく言われています。先生は、新たな農業経営学(大泉農業経営学)をお作りになって農業の将来を適格に見据えていますが、農業経営学や、農業理論といったものをどの様に考えてきたのでしょうか?

大泉

おはずかしい限りです。確かに、長年理論を作ることに従事してきましたが、ただ、自分が住んでいた理論や論理といった世界は、結構扱いにくいし、心のどこかではこれほど怪しいものはないと思ってる自分もいるんですね。ですから、「学説は単なる仮説にすぎない」とずーっと思ってやってきました。

論理構築は確かに人間しかできないので非常に崇高なものだと教えられ、大学に入った当座から教養の一つとして大切だと言われていたものです。それを信じて様々な古典を読んでもきました。ですが、いろいろ論説がある様に、実際論理構成は人によって違っていて、如何様にも可能で、解釈も様々あるといったところが正直なところではなかったでしょうか。それが社会や、世の中の動きを的確に捉えているか、あるいは的確に予想できているかと言えば、それはそれでそれぞれに様々な欠陥がありやはり世の中の全体像を把握しきれていない、部分のロジック、あるいはある種の見方でしかないのではないか、という思いが大きくなっていったものです。

ですから、自分で考え、自分で作ったと思っているロジックでも、どこかで読んだ本やどこかで聞いたことに影響されているし、またどこかに欠陥があるのだろうと常に心の片隅から声が聞こえ、ふつふつと不安になってくるわけですよ。ですから、「大泉の主張してきたとおりに農業の世界が変わってきている」とおっしゃっていただくのは大変ありがたいのですが、それも本人は本当にそうなのか、いつも薄氷を踏む思いでいるというのが正直なところです。

ただ、農業経済学も含めて、社会科学などで不思議だと感じていたのが、結論が既にあるような主張の社会理論でした。社会経済的な動きを予測するにしてもどこか演繹的というか、結論のところで論理が飛躍してしまうようなロジックがこの世界には結構多い事でした。なぜそうなのか、そうなってしまったのかを考えて見ると、いろいろ善意に解釈しようとは思うのですが、つまるところ「その世界の論者の多くがそう信じているから」従っておかないとまずい、と言った理由や、「ある種の前提のなかで考えているから」というのが多かったように思います。よく先行研究のフォローを研究者の卵はやらされるのですが、そうした中でそうした意識が作られていくことが多かったのではないでしょうか。権威者やこれまでの学説がこう言ってるから、それに近いことを言わないとまずいぞ?とか、専門家と言われる人が皆そう言ってるのだから、そう言わないと大変なことになるのではないか?とか、、、赤信号でも皆でわたれば怖くない、といった感覚でしょうか?赤信号でも、皆がわたってるからわたらないと大変なことになるわけです。だって、おまわりさんがわたっているわけですから。

いわゆる、その筋の人という日本語がありますが、まあこれはあまり良くない言葉とされていますが、どこの世界でも一定の影響力を持ったその筋の人はいるものです。「学問の世界の人達」「農業界の人達」の中でもそうした人達がいます。学者村などともいわれてきました。学術会議もそうかもしれませんが、憲法学者や農業経済学の学者には、そうした方々が多かったのではないでしょうか?ね。そうした学者の村社会の普通の考え、というのには、いつも落ち着かないモノを感じていたのは確かなんです。

官僚にも彼らなりの独自の考えがあるのでしょうが、しかしその官僚、農水官僚からさえ、農業経済学という学問は一体何を考えてやっているんでしょうね、といわれてしまうような始末でした。彼らもやはり違和感を感じていたんだろうと思います。しかしそうした揶揄には、農業経済学の学者さん達はあまり気づかなかったのではないでしょうか。あるいは気づいていてもなかなか方向転換できなかったのかもしれませんね。

それもあり、そこから離れたところで仕事をしてきたのが、今までです。自分で分析したいことをじっくり考えて見てきたのですが、そうするとムラの人とは疎遠になっていくのですが、それに反比例してムラ社会の人々とは、違ったことが見えてくるということがしばしばあったわけです。見えてくると言うとおこがましいですね。違った主張になってしまうことが多かったといった方が良いのでしょうか。

だからといってそれで現実をよく理解できるのか、あるいは未来を予測しうるのか、さらにいえば農業農村の豊かさが増加するのか、と言うことに関しては、これは全く別物で、それに関してはいつも不安を感じてはいるのですが、しかし、学者村では見えなかったことも又見えてくる。そういうことは確かにあったわけです。そうした主張を続けていたら、現実が後からついてきてしまった。10年後、20年後現実のものとなってきた、そんな感じでしょうか。そういうことだったと思います。

ただ、それでも事柄や社会の動きや人々の関係と言うものは、つまり現実は、我々が理性で考える枠を遥かに超えていると常に思っていないとその論理自体がおかしくなるということも、様々経験しました。おかしいと思ったら、すぐにそれを認めると言うことですね。その原因を探るのもこれは大きな役目だと思っています。

現に、明らかにおかしいと後日分かっても、素直に反省したり再考してみるのではなく、考えている条件が違うので、などといった言い訳に終始する学者も多くいらっしゃいました。政治のせいにする論者もいました。私はそう言うことだけはすまいと思っていましたが、間違ったらそれを積極的に認める姿勢をもってきたと自分では思っていますが、本当にそれを貫けているかに関してはあまり自信がありません、実際、私が主張してきたことがその後の現実としておきてきたこととあまりちがったことになってないということはあるにはあるのですが、、。

不安を感じながらも自分の手の届くところで考えていった方が良いと思ってきたわけです。論理や学問と言うのはまぁいろいろな人が考えたある種の仮説ですからね。仮説が違えば修正していけば良いだけのことです。

その仮説はその時代と言うか、リアリティーと言ったらいいのか、現実といったらいいのか、それとの緊張関係で常に試されるわけですよ。人間のような普遍的な存在もね、その思考だとかあるいは存在だとか言うこともね、やはり時代との関係で理論は常に試されるわけですね。

特に経済学は時代との整合性を考え続けなければならない学問でもあるわけです。その時々に作られたロジック、学説を知る事は、これからを、あるいは今を理解する上での道具としてはある意味必要なことではあるとは思うんですよね。でもね。その道具がね、果たして有効に機能するか、現実をよく理解できるものか、そういうことになるとまた話は別になってくるんでしょうね。したがって社会科学をやる人は、現実だとか現場だとかそうした所での動きを実はつぶさに見ていかなきゃいけないと思うんですよ。特に経営学ともなれば、そうでしょうね。

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