令和。昭和でも平成でもなく、もうとっくに元号は令和。
でも75年経過しても「戦後」はなかなか終わらない。
新型コロナで、トイレットペーパーの買い占めが起きた時
買い占めに走っていた高齢の御婦人は
子育て中にあのオイルショックが起きたのだそうだ。
「どうしよう、誰も助けてはくれない。
でも子供を守れるのは、私だけなんだ。
強くならなきゃ」
多分、泣きたくても泣いててもどうしようもない不安な局面で
「何とかしなきゃ」と闘ってた、その記憶だけはずっと残るんだろう。
そして何らかの似た状況でフラッシュバックしてしまうんだと思う。
そのオイルショックの時に子育てしていた親の、
そのまた親の世代は
戦中、戦後に子育てしていた世代になる。
私は子供の時は、その戦時中に子育てした祖父母に預けられていたけれど
実母が亡くなって、父が経営していた書店の経営が傾きだした時の話だ。
「どうしよう」という焦りと戦う祖母の姿を見た。
実は、時代はもうその頃は80年代に入っていて
「食糧難」の時代はとっくに終わっていたのだけれど。
祖母は血相変えて言うのだ。
「食べるものがない、どうしよう、ああどうしよう」
いや、確かにこの後、自分でも
仕送りを止められ、奨学金も父の借金返済に充てられ
「食うや食わず」の貧困を経験する事になり
一通り「拒食症」も経験したんで
特に「自分が飢餓に対して甘い考え」とは思わない。
そして確かに、貧困と飢餓は命の危険とダイレクトにリンクするので
そこに「悲劇ぶった」は存在しないというのも確かだが。
でも、それでも
祖母は「食糧難の苦しみ」に酔っているのではないか?と
私の目にはそう映った。
ため息まじりに「今日は一家で缶詰一つだ」と言ったり
狂気のように、古米を何かに混ぜてる?(よくわからなかった)とか
「あんたがいなきゃ、食い扶持は一人増えるんだよ」とか
そこまで言わなくていいんでは? 頭おかしいんでないの?
という、小言や愚痴を散々に聞かされながら暮らしていた。
当時の自分に「冷静になろうよ」なんて言えるわけがなかった。
ただ、謎の「悲劇の圧力」を感じていた。
悲劇でなければならない、悲しみの中にいなければいけない。
テレビを見て笑うと叱られた。「何が面白いんだ、不愉快だ」
原発事故の時の「不謹慎」にちょっと似ている。
同じ焦りと悲劇の共同体にいろという同調圧力。
思い出した。
そういうものが嫌で嫌で、芸術に目覚めたんだっけ。
平和で飽食の戦後に生まれたはずなのに
なぜか私は戦争を体験した世代から
「悲劇の圧力」をかまされて育った。
その圧力は、社会の至るところで亡霊のように私たちを支配してきたようにも思う。
がんばれ、負けるな、それは構わないけれど
無理ですと言えば「甘えるな」という、あの軍隊の暴力が飛んできたし
「規則に縛られる事」「自由を奪われる事」「苦労する事」
それはどうも、上の世代には懐かしくも尊いものですらあったのではないかと思ってしまう。
だけどそれは全て、マゾヒズムだ。
例えば頭の中で
「とても苦労して乗り越えた」記憶があったとしても
それをすり替えて
「苦痛があったからこそ今がある」「苦痛こそあるべきだ」
なんて思ってはいけない。
悲劇に酔いしれ、悲劇の圧力を恋しがってはならない。
束縛を求め、人から人として生きる権利を奪う事を肯定してはならない。
サドマゾの狂気とその趣味を
全ての人に求め、染めさせてはならない。
SM趣味が好きなら自分と、申し合わせた人だけでやればいい。
不安とパニックはこれからも、形を変えて続くだろう。
そしてそれを乗り越えてきた人が知恵と経験で何かアドバイスするなら
それは貴重な事だ。
けれど、狂気の反芻である必要はない。
戦前教育は教育でなく「洗脳」だ。
庶民にとっては紛れもなく1つのカルト教育だったと思う。
もう既に大人になって、子供じみた反抗をする事はないのだけど
自由に創作をしよう
いやまず、自由に何かを思う事にチャレンジしよう
悲しむ事も、笑う事も、考える事も
全ては「自分」から始まるのであり、
誰かに支配なんかさせてはいけないと思い続けよう。
そうしなければ「戦後」は永遠に続くのかもしれない。
そう、「次の戦前」になることをうっすら、期待しながら。