マイブームが止まらんから久々に文学話!
読書の秋。
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最近、森茉莉の小説を買い直した。
森茉莉は、森鴎外の娘さんで
女性でBLを書いたという点ではその道、先駆者ではないかと思う。
文学にその手の作品をというと
お父さんの鴎外の「ヰタ・セクスアリス」だとか
海外だとヘッセの「車輪の下」
三島由紀夫や川端康成、堀辰雄、福永武彦なんかの作品もあるけれど
森茉莉はそういう男作家の
プラトニックラブだのブロマンスだのの、寸止めだの
「キープアウト」のテープをもうね…
笑いながらガンガン破っていくね。怖い人だ。
しかもそこまで飛ばしていながら単純に消費用エロ小説にはならない。
今でこそLGBTだのBLだの言うけれど
森茉莉の描いた世界というものは、それとは少し様相が違う。
それを「美」にしているものが、単に美と倫理との矛盾なのか何なのか考えた。
梅原猛の本まで出してきて考えた(笑)。
世間で認められてない関係がどうのと言うなら、それこそ「LGBT」が認められた社会ならたち消えてしまうじゃないか、と。
いいや、美というのは、ただの犯罪行為ではないでしょう。
「枯葉の寝床」は
書かれたのが昭和34年で、森茉莉が50代で書いたというのを
買い直し読み直しで知って驚いた。
驚くと同時に、20代の自分にはこれは理解できないだろうな、
「20代の自分にはこれは難易度が高いよ」というのも幾つか思った。
ネックの1つはボキャブラリーで
外来語が全部漢字…。覚えるわ漢字…。「唇」を「脣」と書く。わざわざ。
そしてこの、決して流れない、澱むような引っかかりのある句読点位置。
具体的には1つも示さない暗喩や隠語の多用。
これが、最近のラノベBLに慣れきっていると難しい。
栗本薫と比較しても、そりゃ断然、栗本薫の方が読みやすい。
おそらく、昔の私はこれを全く理解できていなかったのではないか。
単に栗本先生が教科書のように推してるので、という理由で
アホだったから内容的にもそこまで理解が及んでいない。
恋に恋する限りは、二人の間に「憎悪」なんてあってはならない。
ラブラブハッピーな空気感だけ消費してればいい。
しかし、今更だが、これは熟読するほどに「ヤバい酒」であるのに気づく。
もはや炸裂する麻薬の爆弾、美のハンマー…。
やってはならない、ありえないという世間の全ての制止を振り切って
飲酒運転で100キロ近く出す高級外車に乗せられる感じがする。
次から次へと流れてくる贅沢感。背徳感。
あらすじは、嫉妬に狂ったフランス文学助教授&作家38歳のギラン(仏ハーフ)が
大学生の美少年レオ(そう呼ばれてる)に惹かれるが
レオは愛されながらもクラブで知り合った親父と浮気
嫉妬に狂ったギランが、レオの「心」を奪われる前に猟銃で殺す、という話
(わー!私がなぜあらすじを書くと身も蓋も無いんだろう!泣くわ)
そういえば、ここしばらく「美少年」を見ていない。
イケメンはゴマンといる。イケメンアイドルは2次元も、2.5次元も3次元も溢れている。
だが違う…イケメンは美少年ではない。
美少年は「魔性」でないといけない。リアルアイドルでは難しい。
令和の価値観は変わってしまっているから、明るい消費ニーズに応えない
非合理なそれを「キモい」で断じるだろう。
もしかしたら時と場所を選ぶのかもしれない。
すでに「文学」の中にしか存在できないはずだ。
「枯葉の寝床」を美だとか文学に押し留めているものは何なのか。
主人公ギランが、求めるものに精一杯応え(てるはずなんだが)
与え尽くす代わりにどんどん蝕まれ、試し
でも愛おしさから、残酷さに徹しきれない優しさだとか
最終的に全部を手にいれる為に出した答え(倫理的に最もありえないのだけど)
その物哀しさ、とか、そういう部分ではないかと思う。
それを他の作品に求めることができるのか?
というと不可能に近くて
それこそ、森茉莉の筆の銃によって森の中で撃たれるような気になってしまう。
仮に21世紀以降の社会で完全にLGBTが認められたところで、
じゃあ森茉莉CPの二人が幸せになるか?
「そういう問題じゃない」のではないか。
なにせ登場人物、ありとあらゆる、社会的な問題を脱衣してしまっているので
今更人権がどうの、そういう服を着せてみたところで
全て嘘、欺瞞でしかない。
これは日本文学でしかできない。
そしてコミカライズその他、映像化なんかできるもんか。
できるのは言葉から想起する自分の頭だけ。
思わず天才の前に平伏して「敵わん」「勝たん」を連発してしまった。