私がまだ本気で作家になりたいと大学で学んでいた頃
当時の先生が心得としてこんなことを話されました。
「君ら、本気で物書きになりたいのなら、どんな団体にも属してはいけない。
集団は君らの意見を捻じ曲げ、考えさせずに1つの正しさに従わせようとするからだ。
書くというのは孤独なものだ。どこにも属さぬことで敵を作るだろうが
その目が曇るよりはマシだ」
さてそれから、作家ではないですが一応「表現」の道を歩んでいった私ですが
そんなに強くない豆腐メンタル。
「お前は書くな、消えろ」の数々の嫌がらせや放火予告
すっかりまいってしまいまして
困り果ててついには警察にお願いするに至り書くのをやめて逃走。
まあそれでも結局完全に辞めることはできず
逃げた果てに舞い戻るを繰り返す…という有様なのですが、
その時の心の傷は結構ダメージ深く残りました。
一番怖かったのは「お前が辞めないなら、周囲の人間が困ることになるぞ」でした。
自分のせいで、何もしてない周囲が被害を被る、最も表現の自由に対する卑劣なやり方です。
しかし、抗うことはできず、おとなしく沈黙するしかなかった。鬱にもなったです。
そんなですから、ベルナール
他人事ではなかったです!
でも屈しない。
その目が曇ることはないのです。シビれる憧れる!
かっこいいなあ。
考えの違いから争いが起きる
対立構造は世界中にあって
オバマ対トランプ、EU離脱の是非
イスラム対キリスト、とキリがないですが。
もうすこし、我々に身近で」ありがちな対立をあげますと
「兼業主婦 VS 専業主婦」
てのがあります。
最近は特に、ウーマノミクスとか言われて、フェミニズム万歳になってます。
「働きたい」という女性が、働けないから働きやすくするのなら素晴らしいことのはず。
でも、なぜかすぐ「自分のテリトリーの考えが世界のドグマでないと気が済まない」人がいる。
そうすると「専業主婦はダメだ、怠け者で無能でクズだ、働きなさい」ってなる。
「女性も(全員)自立して働くべきよ!」
ってフェミの方はこれをどう思われるのかね?ってちょっと意地悪にニヤニヤします。
家庭婦人を選ぶのは時代遅れだの、自立してないだの視野が狭いだの、散々聞こえて来るからねえ。
アンジェには両親がいない。
ベルナールも親と確執。
だから、精神的に落ち着ける基地としての家庭は必要だと考える。
かつて、24年組の少女漫画で育った、高度経済成長期〜バブル期の女性は
終わらない繁栄を約束された上で、みんなが「オスカル様」になりたかったのではないかと思います。
しかし今、このタイミングであえて、女性向けコンテンツにおいて
女性が仕事のみに生きることを推進するタイプの姿勢でなく
あえて家庭婦人として生きたいというあり方を示すのは面白いです。
肝心なのは
アンジェリークが「揺るぎない意志を持って」覚悟を決めて
愛する人のそばにいることを選び取るのは
決して、職務や才能を放棄したのでも
意志を奪われて男性のいいなりになってる「お人形」でもない、というところ。
本当に女性の為というのは、女性らしさ自体を否定して
ある大きな「正論」に従わせることではないはずです。
その人が選んだ道を尊重すること
そして時に、そうならざるを得ない状況になった場合も
自分が認められることばかり考えて、違う考えや生き方を否定したりはしないで、
もっと大きな「それぞれが自分の思い描く幸福通りに生きる」ことができるように願うこと
だと思うんですよ。
(てなことを書くとまた投石されるんすかね?ハラハラ…)
ジャーナルを確立させたフランスの文学精神に、儒教の「中庸」に似たものがありますが
「中庸」は優柔不断とは違います。
誰よりもしっかりした意志や主体的に動く力がなければ
バランスをとった中道を行くことはできないでしょう。
幸せだと信じて
あるいはそれが自分の道だと信じて歩いても
時に困難にはぶち当たりますが
中庸を選ぶと、「大きな正論」となる組織が守ってくれることは少ないゆえ
そんな時、支える人がいてくれることは大事で、
それ無くして理想なんてのは、なかなか難易度は高そうな気がします。
でもまあ、そんなごちゃごちゃした
知った風な意見よりも
このルートでの「純愛」さを見て欲しい。
今回の「ネオアン」
小説度が高く、シナリオの途中で相手側(男性キャラ側)からの思いを読んだり
客観的に捉える部分も出てきて、主人公目線一辺倒ではないのですが
きっとシナリオが必然的に採った方法なんだろうなあ。
当時の先生が心得としてこんなことを話されました。
「君ら、本気で物書きになりたいのなら、どんな団体にも属してはいけない。
集団は君らの意見を捻じ曲げ、考えさせずに1つの正しさに従わせようとするからだ。
書くというのは孤独なものだ。どこにも属さぬことで敵を作るだろうが
その目が曇るよりはマシだ」
さてそれから、作家ではないですが一応「表現」の道を歩んでいった私ですが
そんなに強くない豆腐メンタル。
「お前は書くな、消えろ」の数々の嫌がらせや放火予告
すっかりまいってしまいまして
困り果ててついには警察にお願いするに至り書くのをやめて逃走。
まあそれでも結局完全に辞めることはできず
逃げた果てに舞い戻るを繰り返す…という有様なのですが、
その時の心の傷は結構ダメージ深く残りました。
一番怖かったのは「お前が辞めないなら、周囲の人間が困ることになるぞ」でした。
自分のせいで、何もしてない周囲が被害を被る、最も表現の自由に対する卑劣なやり方です。
しかし、抗うことはできず、おとなしく沈黙するしかなかった。鬱にもなったです。
そんなですから、ベルナール
他人事ではなかったです!
でも屈しない。
その目が曇ることはないのです。シビれる憧れる!
かっこいいなあ。
考えの違いから争いが起きる
対立構造は世界中にあって
オバマ対トランプ、EU離脱の是非
イスラム対キリスト、とキリがないですが。
もうすこし、我々に身近で」ありがちな対立をあげますと
「兼業主婦 VS 専業主婦」
てのがあります。
最近は特に、ウーマノミクスとか言われて、フェミニズム万歳になってます。
「働きたい」という女性が、働けないから働きやすくするのなら素晴らしいことのはず。
でも、なぜかすぐ「自分のテリトリーの考えが世界のドグマでないと気が済まない」人がいる。
そうすると「専業主婦はダメだ、怠け者で無能でクズだ、働きなさい」ってなる。
「女性も(全員)自立して働くべきよ!」
ってフェミの方はこれをどう思われるのかね?ってちょっと意地悪にニヤニヤします。
家庭婦人を選ぶのは時代遅れだの、自立してないだの視野が狭いだの、散々聞こえて来るからねえ。
アンジェには両親がいない。
ベルナールも親と確執。
だから、精神的に落ち着ける基地としての家庭は必要だと考える。
かつて、24年組の少女漫画で育った、高度経済成長期〜バブル期の女性は
終わらない繁栄を約束された上で、みんなが「オスカル様」になりたかったのではないかと思います。
しかし今、このタイミングであえて、女性向けコンテンツにおいて
女性が仕事のみに生きることを推進するタイプの姿勢でなく
あえて家庭婦人として生きたいというあり方を示すのは面白いです。
肝心なのは
アンジェリークが「揺るぎない意志を持って」覚悟を決めて
愛する人のそばにいることを選び取るのは
決して、職務や才能を放棄したのでも
意志を奪われて男性のいいなりになってる「お人形」でもない、というところ。
本当に女性の為というのは、女性らしさ自体を否定して
ある大きな「正論」に従わせることではないはずです。
その人が選んだ道を尊重すること
そして時に、そうならざるを得ない状況になった場合も
自分が認められることばかり考えて、違う考えや生き方を否定したりはしないで、
もっと大きな「それぞれが自分の思い描く幸福通りに生きる」ことができるように願うこと
だと思うんですよ。
(てなことを書くとまた投石されるんすかね?ハラハラ…)
ジャーナルを確立させたフランスの文学精神に、儒教の「中庸」に似たものがありますが
「中庸」は優柔不断とは違います。
誰よりもしっかりした意志や主体的に動く力がなければ
バランスをとった中道を行くことはできないでしょう。
幸せだと信じて
あるいはそれが自分の道だと信じて歩いても
時に困難にはぶち当たりますが
中庸を選ぶと、「大きな正論」となる組織が守ってくれることは少ないゆえ
そんな時、支える人がいてくれることは大事で、
それ無くして理想なんてのは、なかなか難易度は高そうな気がします。
でもまあ、そんなごちゃごちゃした
知った風な意見よりも
このルートでの「純愛」さを見て欲しい。
今回の「ネオアン」
小説度が高く、シナリオの途中で相手側(男性キャラ側)からの思いを読んだり
客観的に捉える部分も出てきて、主人公目線一辺倒ではないのですが
きっとシナリオが必然的に採った方法なんだろうなあ。