※撮影日2013年になります。
『赤線跡を歩く』と同じ角度から料亭「濱の屋」を撮影。撮影日も雨の川反。
料亭「濱の屋」は大正7年創業
料亭の塀の高さ=敷居が高ぃ←私のイメージ
↓「濱の屋」の塀。コチラはお寺などに見られる「透塀欄間」の一種でしょうか?
↓昭和4年(1929)に刊行された「美人の秋田」に掲載されていた「割烹 濱の家」の広告。
上記の記事が掲載された同年、昭和4年の『全国花街めぐり』によれば料亭30件、芸妓置屋42件、芸妓149人。待合のない二業地だった。昭和30年代にも秋田検番、新検番、合わせて50人ほどの芸者さんがいたが、平成4年の「秋田芸妓組合」発足時には10人となった。
『赤線跡を歩く』完結編より
秋田市内の遊廓は、久保田と呼ばれた藩政の時代から下米町に置かれていた。明治2年から4年にかけて土崎港の「新柳町遊廓」と一時合併。ふたたび元の下米町に戻り、全盛期を迎えたが、明治19年の大火で全焼。このとき料亭および芸妓置屋が分離され、町外れの旭川沿いの川反3丁目、4丁目に移転。その後「川反」は市内を代表する盛り場として繁栄する事になった。
『赤線跡を歩く』完結編より
↑↓川反通りの裏手を流れる旭川。戦時中、防火対策として柳の木が切られ、川べりに連なっていた明治以来の料亭も取り壊されたとか…
濱の屋近くの交差点から横へ延びる「すずらん通り」↓
再び大町の飲食店街の通りへ…
コンコルドビル。この様式の建物を見ると、どぅしても特殊浴場系の店舗か昔のラブホに見えてしまうのは私だけでしょうか(笑)
そしてこのヨーロッパ建築におけるアトラス風?彫刻は裾をたくし上げているのではなく、股間を掻いている様に見えるのもきっと私だけ…(笑)
レンガ調外壁と2階のステンドグラス風の窓がやっぱり特殊浴場系か昔のラブホに見えてしまう私…←しつこぃ
※現存せず(更地)
鱗風の外壁に2階窓の三角の仕切りと上の丸い電飾がオシャレな店舗。
飲食店街通り①
飲食店街通り②
飲食店街通り②
秋田川反旧料亭街を歩く②に続く…
参考文献
『赤線跡を歩く』【完結編】木村 聡
『美人の秋田』編集 山田 憲三郎
撮影日2013年11月4日
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます