【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

1. 脳動脈瘤発見。そしてインフォームド・コンセントまで

2020-02-09 23:07:47 | 楽しく元気に『闘病』日記
-脳動脈瘤発見!!-
  私の父、市太郎は一九六一年の五四歳のときに脳卒中を起こした。その後一九六七年の六十歳のときに三回目の脳卒中の発作を起し、死亡している。当時のこと は定かではないのだが、周りの人の話によると『突然発作を起こして倒れた』ということである。ずっとかなりの高血圧であったこともあり、くも膜下出血では なかったかと思う。 
 私の兄は、一九八二年の四二歳の時にくも膜下出血を起こした。自分が社長をするダンボール製造加工会社で仕事が終わってすぐ に「頭が割れるように痛い」と言い出し、軽い嘔吐をした。すぐに帰宅し、その後四~五日の間仕事を休み、かかりつけの医院に通った。医師から、国立大阪循環器病センターを紹介してもらい、そこで受診し検査の結果『脳動脈に奇形がある』ことが判明、開頭手術を受け、くも膜下出血の処置と奇形部分の切除とクリッピング手術を受けた。幸い、くも膜下出血はごく軽度であり、後遺症は残らなかった。兄は二〇〇二年にも軽い脳内出血を起し、甥の奔走で大阪の富永病院へ行き、そこで最先端の医療を受け、アンギオの結果、小さくない脳動脈瘤が発見された。再びの開頭手術でクリッピング手術を受けることとなったのである。現在、アフターケアの検査などはしていないが、元気にしている。

 二〇〇六年現在の私も五十七歳で「危険年齢」をすでに迎え、遺伝的な危険因子も気にもなっており、高血圧症で日頃受診しているNクリニックの院長に相談した。そして脳外科などの最先端医療をしており、兄も脳外科手術を受けたT病院で受診すべく、紹介状を書いてもらった。
 
 二〇〇六年一月二十日(金)
 パートナー同行の上、初めてT病院で受診。朝九時に病院に着いて診察を申込み、四診で受診し、状況を説明しMRI検査をすることとなった。MRI検査待合の二階へ行くと多くの人が検査を待っていた。検査は午後一時三十分頃開始というので、待つ間病院近くの定食屋さんで食事をし、その後喫茶店でコーヒを飲んだ。 ただ、T病院のMRI室や診察室、救急処置室や脳外科手術のライブをモニターで放映している緊張溢れる雰囲気が何とも言えない緊張感となってはなれず、どんな結果が出るかの不安が結構気持ちを圧迫してきて、まったくくつろぐ気分にはなれなかった。
 病院に戻り、MRI検査の待合では、最先端を行く脳外科手術や脳腫瘍摘出の手術をライブで中継している。病院のポリシーとして『手術室を密室にしない』『手術の技術に対する絶対的な自信である』旨の説明が書かれてある。
  MRI検査は初めてなので少し緊張していた。やがてMRI検査が始まった。狭い機械の中に頭部が入っていき、『ガリガリ』『ガガガガ』などのかなり強烈な音が周りからする。緊張のうちにMRI検査が済むと、再び1階の診察室前で待つように指示を受ける。今度は一診で受診とのことで待っていた。
  やがて名前が呼ばれた。担当医はI医師という。毛髪は茶髪にしておりベテランではあるのだろうが、若くも見える。後日看護師さんに「I先生は何歳?」と聞くと、「年齢不詳です」とのこと。MRIの写真を乾先生が説明してくれる。「二箇所に比較的大きい脳動脈瘤らしきものがあります。」といわれた。I先生から今後の治療法の説明があり、結果手術をするのが良いという。I先生は「いつ脳動脈瘤が破裂するかわからない」というし、脳外科の看護師であったパートナー は「早くアンギオをしなさい」という。
 私は、今は自覚症状や不自由もなにも無く、健康に過ごしているのに、『なぜだ!』という絶望感・不安感に襲われる。近々絶対に休むことのできない出張もありそれが終わってからということで、深い意味も無く「一月二十七日にアンギオをお願いします」と言ってしまった。本当は嫌で嫌で仕方が無かったのだが、周りからせきたてられてのなりゆきである。I先生は「そうですか。それでは入院の予約をしましょう」といって、看護師さんに指示している。私はさっさと機械的に進められていく自分の運命に、だんだんと目の前が暗くなってきた。手術の前に、脳動脈瘤の部位や大きさを確認するために、アンギオの検査をするとのこと。この検査は、右足の付け根の動脈から、カテーテルを頸部まで挿入し、造影剤を注入して脳動脈の血管造影撮影を行う検査である。動脈からカテーテルを入れるため、検査後に止血等のため安静が必要で、入院の検査となる。検査入院日を一月二十七日(金)に予約 し、本日は診察を終え帰宅した。

 
-いよいよ、アンギオの検査。果たしてどうなるか、大変不安-

 二〇〇六年一月二十七日(金)
 
 朝、近所のTクリニックで腰痛のリハビリ治療を受けた後、十時にパートナーとともに出発。十一時にT病院着。検査入院の受付を済ませて、八階のナースセンターに行くように指示を受ける。八階の病室に案内されて、検査衣、ティージ帯に着替えた。やがて、点滴を入れられ、剃毛をされていくうちに、いよいよアンギオの検査が現実のものとなって迫ってきて、緊張が高まってくる。
 前回のMRIでは「2箇所で脳動脈瘤の疑いが高い」ということである。Nクリニックへ送られてきた診断書にも『多発性脳動脈瘤の疑い』とは書かれてはあるが、まだ『確定』というわけではない。本音のところでは、アンギオの検査はもう逃れられないけれど、結果として『手術をしなくても大丈夫です』という診断になるように、願っていた。
 パートナーが食事に出ている間に、あれこれと思いが巡ってきた。 十四時三十分、ストレッチャーに乗せられて検査室に移動。パートナーもついてきたが検査室の中待合で待機。私は検査室に入り検査台に移る。検査台には頭部が動かないように固定枕があり、そこに頭部をはめ込む。外来の診察を終えた乾先生がやってきて、いよいよ検査が始まった。

 「少しチクッと痛むよ」

 といいながら、最初に右足の付け根に局所麻酔が二~三箇所注射される。少し痛むが、たいしたことはない。麻酔の後すぐにその部位から動脈にカテーテルが入れられが、それも痛いというほどでは無い。カテーテルは頸部の動脈まで挿入されるのだが、何も感覚が無く、痛みや苦痛もない。
 カテーテルを挿入してから、「右のほうに薬を入れますよ」といわれ、ポンプのような音がして一瞬右頭部や耳がボアーッと火照るような感じがした。造影剤が注入されてレントゲン写真を撮ったのだろうが、余り気分の良いものではなかった。次に左頭部、もう一度右頭部を撮り、最後に頭部全体を撮影し、その都度造影剤を注入した部位が熱く火照った。
  アンギオ検査は二十~二十五分くらいで終わり、カテーテルの挿入部位を止血し、重し(砂袋)を乗せて、病室へと戻った。暫くは止血のため安静で、ベッド上から動いてはいけないとのこと。         


-インフォームド・コンセント-
アンギオ検査の後、止血のため病室で安静にしていた。トイレにも行けず、点滴を続けているため小用が近く、ベッドの上での用足しとなりパートナーに手間をかけた。さすがに看護師であり、手馴れたもので随分と助かった。
 午後七時過ぎに担当のI先生の回診があり、アンギオの後の止血は順調であり、検査結果等について説明するとのことで、パートナーと一緒にカンファレンス ルームへと行った。検査の結果は、二箇所あった脳動脈瘤の疑いのうち、一個所は動脈が巻いているだけで問題は無いが、もう一個所は7mm程度の脳動脈瘤ができているとのこと。病名としては「右末梢性前頭葉動脈瘤。」

 「この大きさであることと、遺伝の危険因子を考えると、一年で2%ぐらいの動脈瘤破裂の危険性があると考えられます。一年で2といっても十年になると20%のくも膜下出血の危険性があるということです。」
 「治療をするとすれば、血管内治療で動脈瘤にコイルを埋め込むのは、瘤の形から難しい。開頭手術による、顕微鏡下でのクリッピング術になるでしょう。」「治療をして手術そのもののリスクは0.1%~0.2%のアクシデント的な危険性がある。手術による後遺症のリスクも3~5%あります。左半身の運動. 感覚マヒや、前頭葉障害としての記憶障害や性格が変わること、ろれつが回りにくくなること、若年性の認知性、脳の痙攣等が発症することがあります。合併症や感染症の危険もありますし、術後出血や術後てんかんのリスクもあります。動脈瘤に癒着した細い動脈や、動脈瘤そのものに細い動脈が繋がっていたら、万全の処置を施しますが、それでも瘤をクリッピングするときに細い動脈にダメージを与え、脳に何らかのダメージが残る場合があります。その他、脳動脈瘤起因の 脳梗塞、新生脳動脈瘤も危険性は残ります。」

  そのようなインフォームド・コンセントが延々一時間以上あり、最初はメモにとっていたが、だんだんと気力が無くなってきた。『何でやねん』『何も悪いことしてないやないか』『そんなリスクをおかしてまで手術せんでもええやないか』『破裂したらそのときのことや』などと心の中で叫んでも、開頭手術に向かって インフォームド・コンセントと回りの事態の流れはどんどんと進んでいく。

   「手術をお願いします。」

   そう言わざるを得ないような『成り行き』であった。パートナーも、一生懸命メモを取っており、開頭手術に納得の様子である。インフォームド・コンセントの後午後九時ごろにパートナーは帰っていった。                

2.いよいよ開頭手術

2020-02-09 23:03:53 | 楽しく元気に『闘病』日記
-アンギオの検査の後、脳動脈瘤の手術の決断。そして手術の承諾へと、事態はどんどん進む。不安もたかまるが、どうとでもなれと言う気持ちにもなってきた。-
 二〇〇六年一月二十八日(土)
  朝から心臓のエコー検査と、フォルダー心電計による二十四時間の心電図検査を受ける。心臓のエコー検査では心臓の弁の動きがモニターで見える。一生懸命に働いている自分の心臓や弁の鼓動に、愛おしさが沸いてくる。フォルダー心電計装着のためもう一日検査入院の延長となった。心臓検査のあと、外来に降りて、次回の診察予約は二月十七日の十二時となった。この診察日に、正式に手術の承諾と決定を行うこととなる。
 この日は午後三時三十分頃にパートナーが見舞いに来た。いろいろと話し、夕食をとって暫くすると午後七時ごろに、三女のEが見舞いに来た。暫く三人で話したあと、パートナーとEは帰っていった。
 
 二〇〇六年一月二十九日(日)
  朝八時に朝食。その後看護師さんにフォルダー心電計を取り外してもらい、『自由の身』となって、九時三十分に検査入院は終了し、退院となった。
 二〇〇六年二月十七日(金)
 この間の診察や検査、インフォームド・コンセントを受けて、本日のI先生の診察で手術日の決定等を行うことになっている。アンギオで入院の際に『手術を三月二日にお願いしたい』といっており、了承されていた。しかし、後でいろんなことを考えているうちに実は三月二日は『仏滅』であることが分かった。私は、そのようなことに対しては全く信用もしておらず、気にもしない性格である。だが、今回はさんざん手術のリスクや後遺症などのインフォームド・コンセントを聞いており、さすがにパートナーとも相談し、手術日を変えてもらおうと思った。最先端医療を実践する病院で、そんな理由で手術日を変えて欲しいといったら、一喝されるだろうなと思いながら、理由を聞かれたらそのときは『どうにもならない仕事が、急に入った』と言い訳しようと考えていた。
 そんなことを考えながら、午前十時に家を出発した。十一時にT病院着。受付を済ませ、I先生の診察がある一診の前で待っていると、やがて名前が呼ばれた。
 「どうですか。手術をするかどうかはイソじいさんが決めてください。決断は着きましたか。」
「はい。手術をしていただくことにしました。ただ、手術日ですが、三月三日にしていただけませんか。」
 「ちょっと待ってください。三日は金曜日で、私は外来の診察日だからできません。他の日にしてください。」
 「それでは、土曜日ですが四日でお願いできるでしょうか。」
 「結構です。それでは三月四日に手術をしましょう。」
 そのようなやり取りがあり、手術日が決定した。I先生は看護師さんに手術室の押さえや、カンファレンスの段取りを指示している。私には、改めて手術のリスクや手術による後遺症のリスクを説明してくれる。そして、来週の二十四日に来院し、手術の際の思わぬ出血の準備と、頭蓋骨を接着するための接着剤を作るために、自己血を四百CC採決することとなった。
 手術のほうは、前日の三日に入院し、四日午前九時より手術となり、いよいよ開頭手術に向けてカウントダウンが始まり、私は、スケジュールどおりに、あたかもベルトコンベアの上をただ流されていく状態のようになってきた。
 診察が終わり、帰路の途中ナンバウォークで昼食。パートナーといろんな思いを話す。柄にも無く手術がうまくいかなかったら、職場での私物はどこにあるとか、誰に連絡するか、メモを作っておくとか、そんなことも話していた。

-「脳動脈瘤破裂前クリッピング術」初めての(殆どのの人は経験ないか)開頭手術に、もはや命をあきらめた覚悟。-

二〇〇六年三月四日(土)
 朝の六時過ぎに起床。開頭手術の当日というのに結構熟睡した感じである。起床してまもなく看護師さんが点滴を持ってくる。やがて八時過に兄が、八時二十分頃にパートナーがやってきた。手術の予定は午前九時三十分からであり、いろいろと思いを話していたが、どうも話が上ずってしまう。やはり相当緊張しているようだ。
 午前九時には看護師さんがやってきて、簡単な説明の後いよいよ三階の手術室に移動。歩いての移動である。足元はしっかりと歩いて行ったつもりである。手術室の開扉ペダルを看護師さんが踏むと重たく冷たい扉が開き、中待合へと入って行く。家族は手術室の中待合までで、そこで家族と別れ、パートナーは

 「大丈夫だからね」

  という。私はいよいよ手術室の奥の扉の中へと入っていくと扉は閉じられた。椅子に座って待機。中にはもう一つ扉がある。暫くすると準備ができ、その中へ入っていった。下はタイルで冷たい。私は手術台の上に横たわると、麻酔医の先生がやってきて、
「点滴のところから麻酔を入れます。少しチリチリとした感じがするかもしれません。」
とのこと。開頭部の剃毛も導尿チューブの挿管もしていない。麻酔をかけてからのようだ。全身麻酔をすると自発呼吸ができなくなり、そのため人工呼吸器のチューブを挿管し、機械的に人工呼吸に切り替えるのだが、人工呼吸チューブの挿管もしない。すべて、麻酔が施された後にするようだ。多少不安であったので、そのことも事前に説明があったほうが安心する。
私は、麻酔が効きにくい体質だ。かつての盲腸炎の手術のときも、左腕のリンパ腺が化膿し切開したときも、ほとんど麻酔が効かず、激痛なんてものではない。まるで拷問のような死ぬほど痛い思いをして大いに難儀した経験がある。今回も麻酔が効かなかったらいやだなと思いながら、麻酔が効くまでどれくらいかかるかな、2~3分かなと思い数を数えてみることにした。
  しかし、案ずるまもなく麻酔医の先生が点滴のところから麻酔を入れると、三も数えられず殆ど『瞬間的』に意識がなくなったように思う。手術の最中のことは、当然のことながら覚えていない。ただ、意識の奥底で、『自分は今脳動脈瘤のクリッピング手術を受けているのだ』といった覚えが時々うっすらと浮かんできたように思う。
暫くして、家族らは二階の待合に移動し、私の手術のライブ中継を見ていたとのことである。パートナーの話によると、ライブ中継は開頭して能動脈の瘤の部分に至った十一時二十八分に開始され、十二時四十八分には顕微鏡下の手術で脳動脈瘤にクリッピングが施された。パートナーはかつて脳外科病院の看護師長をしており、後日パートナーの話によると、上手な手術でさすがに器用で手早かった、とのことである。
やがて、無事脳動脈瘤のクリッピング手術が終了し、午後三時にICUに戻ってきた。I先生から
「イソじいさん、イソじいさん。無事に終わったよ。手術は成功したよ。」
と声をかけられた。全身麻酔からの覚醒は早く、声をかけられているときにはすでに覚醒していた。なんとなく『ろれつ』が回りにくかったが、手術の終わった安心感からかいろんなことを話しかけたことを覚えている。看護師さんが、
「イソじいさん、びっくりしましたよ。呼吸のチューブを抜管(ばっかん)したとたんに、『今、何時や』と聞いたんですよ。」
「それで、どうなったん。」
「今二時半ですよ。手術は終わりましたよ。よかったですねと言ったら、『ああそうか』と言ってまた寝たんです。」
ということらしい。

-脳動脈瘤にクリップがうまくかかり一安心。しかし、これからが手術後の闘病-

やがて、パートナーや娘たちがICUに入ってきて対面。とりあえずは無事終了したことで安堵し、よかった、よかったと言いあった。私のほうは、『ろれつ』がよく回らない。それに顔面が大きく腫れているらしい。また、麻酔が覚醒してくるにつれて、頭が猛烈に痛くなってくる。『頭が割れるほど痛い』のだが、実際に割れているのだから仕方がない。痛み止めの『痛い痛い』注射を打ち、薬を飲むが、たいして治まらない。
そのうちにパートナーと娘たちは『それじゃ気をつけて』といいつつ、最後に吸飲みで水を飲ましてくれて、家に帰った。
ICUは重篤な患者や術後の患者ばかりになり、それからが大変だった。夜になると一人の中年男性患者が、
 「痛い、痛い」と言いながら、手術の切開部を留める金属性の留具を自分で抜いているようだ。さかんに看護師さんを呼んでは、大声で「抜け」といっているが、その都度看護師さんにしかられ、挙句はベッドに手足を縛り付けられたようだ。この人は一晩中
 「放せ、ほどけ」と大声でわめいていた。
 
 また、もう一人の 男性の患者は、痰が絡むのか
  「ガー、カー、グー」とうるさい。痰を誤飲して呼吸ができなくなったり、肺に入って肺炎にでもなれば大変なのに、吸引をしないのかなと思う。もう一人の女性患者は着ているものを全部脱いでしまっているようで、やはり看護師さんにたしなめられている。ICUだから仕方がないのだが、うるさくてうるさくて、その上私自身も術後の頭が割れるように痛くて、さすがに一睡もできなかった。

3. 入院生活で自分の人生を振り返り、そして退院。ファミリーに感謝

2020-02-09 22:57:48 | 楽しく元気に『闘病』日記
-無事手術も「成功」して一安心。-

二〇〇六年三月五日(日)から入院期間中

 入院期間中のことは、日記風に手帳にメモをとっているが、どうも記憶も判断も「グチャグチャ」な状態で、若干記録に事実と異なることがある。しかし、とりあえず書き留めたことを整理すると、以下のようになる。とりあえずは、「あったこと」はメモにして残している。しかし、「記憶」として認知していることとは、違っていることが少なくない。まずは、メモを掘り起こしたい。
 3月日(日)は面会時間にはパートナーがやってきた。パートナーが来るとほっとする。朝九時からCTスキャンで術後の状態を検査。検査の後、ICUから普通病室六〇八号室に移動となった。そのうちに三人の娘たちが順番に見舞いにきてくれる。
食事はおかゆをとり、流動食とはいえ昨日から食べていないのでおいしかった。頭のほうはやはり『割れる』ような痛さだ。十八時過ぎに日曜日と言うのにI先生がやってきて、CTの説明があった。右前頭葉部に少し出血があるが、自然に吸収されていくとのことで、とりあえず術後は順調だが、しばらくは車椅子を使用し、用の無いときはベッドで安静とのことである。
 三月六日(月)やはり仕事のことが気になり、職場のY・Kさんに電話を入れた。少し仕事の上で動きがあるが、結局何もできない。もう、しばらく仕事のことは考えないようにしようと思う。本日は、大学時代の恩師で昨年秋に癌で亡くなられた「真田先生を偲ぶ会」の事務局会議の日だ。これも申し訳ないが何ともしようがない。
 三月七日(火)長姉、次姉が見舞いにきてくれた。次姉は東京からである。夕方、パートナーがきて体を洗拭してくれた。その後着替えも済ませ、久々に気持ちがよかった。
 三月八日(水)本日より、おかゆから普通食となった。おいしかった。パートナーは昼前にきて、夕方に帰った。その後、二十時前にI先生が回診にきて様子を聞かれる。かなり落ち着いてきたことを報告すると、経過が順調なので
「散歩などの外出をしてもよろしい。頭を洗わないで風呂に入ってもよい。」
 ということであった。

-手術も成功して術後の安静と回復を期す闘病生活。自分を振り返ることの大事さがよくわかった気がする。-

三月九日(木)昨日入浴の許可をもらったので、十時三十分に入浴をした。久しぶりの入浴で本当にくつろいだ。風呂から上がると、兄が見舞いにきており、
「順調な回復でよかったな。」
 とのこと。ただし、日記のメモにはそう書いてあるのだが、本当に入浴したのか、今となってはちょっと違う気がする。確か、頭の手術創の抜鈎(ばっこう…手術創を止めて あるホッチキスのような金属を抜くこと)の後に入浴の許可があったように思うが、何かメモと事実が混同しているようだ。

三月十一日(土)朝十時頃に、次女と三女、まもなく兄が見舞いに来た。そのうちに長姉と次姉も見舞いにきてくれて、ずいぶんとにぎやかになる。十一時前になると主治医のI先生が回診に来て、様子を聞かれる。順調に回復してきており、その旨を言うと、あっさりと
「それでは、抜鈎(ばっこう)しましょう。」
と言うことになった。
「リムーバー(確かそういったと思う)を持ってきて。」
と看護師さんに指示し、リムーバーを手にするとあっというまにブチィッ…、ブチィッ…、と抜き始めた。少し肉に食い込んでいる分チクッとするが、だんだんとすっきりと開放感が拡がってくる。
「先生。傷口を止めるのがホッチキスなら、それを抜くのはバッ(抜)チキスですね。…」
我ながら、誰も笑わないまったく面白くない洒落を言い、一同白ける。どうも気が軽くなり、口も軽くなっているようだ。
本日より点滴が一日に一本となり、それまで静脈に入れっぱなしであった点滴用の針も抜き、都度針刺しをすることとなった。頭の三角巾もはずし、いずれにしてもすっきりとした。
(外出、外泊、入浴の許可はこの日に言われたと思うのだが、日記のメモには八日に言われたと書いてある…)
本日京都の立命館大学では、十四時から癌でなくなった大学時代の恩師を偲ぶ会、十六時三十分からはゼミ同窓会総会が行われており、私は実行委員や事務局を仰せつかっていたのだが、こういうことになって何の足しにもならなくなってしまった。力及ばなかったが、病室から京都の方を仰ぎ、黙祷をささげた。

-手術が終わり闘病生活。混乱しつつも順調に回復-

三月十二日(日)パートナーと次女が見舞いに来る。午前中は、せっかく外出許可が出たので、病院近くの、ナンバウォークまで散歩に出かけ、ブックファーストで本を買う。「ウェブ進化論」他2冊。
  本日のメモには、「退院」などと書いてあり、一週間分混乱しているようだ。

 三月十三日(月)本日はパートナーは仕事のため、夕方まで来ない。さびしい思いをしていると、十五時に次女が見舞いに来た。取り留めのない話をしたが、次女が私のことを本当に心配しているのがひしひしと伝わってくる。少し遅くなったが十九時にパートナーが見舞いにやってきた。ほっとする。

 三月十四日(火)本日は十時に入浴。抜鈎して頭も洗ってすっきりする。最近は、なるべく体を動かすように、病院内ではできるだけ歩き、できるだけエレベーターにも乗らないように心がけている。
 五階にある浴場から上がり、部屋に戻りくつろいでいると、十一時頃に長姉と次姉が見舞いにきてくれた。術後の順調な経過に二人とも安心してくれている。昼食はグラタンのシーフード風。おいしかった。病院食なのだから、量もカロリーも塩分も計算されているのだろうが、それしか楽しみがないというか、いつもいつもおいしく頂いている。それでもってダイエットも進んでいる。
 長姉と次姉は十四時前に帰った。しばらくすると、パートナーが見舞いに来た。

 三月十五日(水)~三月十七日(金)毎日本を読んだり、短時間外出し散歩したりの日々である。毎日パートナーか娘が見舞いに来てくれて、気持ちが休まる。適当にわがままも言ったりしている。術後の経過は「日にち薬」で日に日に体調と体力が回復してくる気がするが、パートナーの助言もあり、過信はしないように心がけている。主治医のI先生から、十九日の日曜日に退院の許可が正式に出た。

-いよいよ退院の許可が出た。体力、気力の回復を目指す。-

三月十八日(土)朝は入浴後散歩。明日に退院を控えてなんとなく気持ちが軽い。点滴に来た担当の看護師のNさんも
「いよいよ退院ですね。退院してからも注意して、良くなってくださいね。私は明日は休みですが、ちゃんと引継ぎをしていますから。」
と言ってくれる。パートナーと上の孫のYuが見舞いに来る。Yuは性格の優しい子で、この間本当に心配しており、明日の退院を教えるとパッと明るい顔になり、喜んでいた。私もうれしくなってくる。パートナーと孫は夕方までいて私に付き合ってくれた。
夜の八時過ぎに主治医のI先生が回診に来た。明日の退院にあたって、退院後の生活上の注意、ケアの治療、高血圧などの他の疾病の治療等についての説明等があった。本日は、土曜日で朝は手術日で、おそらく午後は検査かカンファレンス。そして夕方から夜のこの時間もまだ回診と、本当に熱心でよく仕事をされる医師だと敬服する。

-いよいよ退院の日。これから自宅療養と復活を目指す日々だ。-
 
三月十九日(日)本日はいよいよ退院の日。朝食の後、少し散歩で、ナンバウォークに出かけ、本と、売店で缶コーヒを買って飲む。この間の入院の余韻を少し楽しみ、十二時前に病院に戻ると、パートナーと次女が既に来ており、はや退院の荷造りを終えていた。
 「どこへ行ってるの。ぶらぶらとして。」
 「ちょっと、退院を前に散歩に行ってた。」
  「何をしてるのよ。」
 いつもの調子である。
 十一時三十分には退院の準備がすっかり整った。十二時に最後の病院の昼食を食べ、食事の片づけを終えいよいよ退院である。
  
十五日前の三月三日に、両手に荷物を持って手術への不安と術後の今後の生活も含めた漠然とした不安を一杯に入院してきた病棟に、今は安堵の気持ちと、もう一度再起を期すぞという気持ちを持って、病室を離れようとしている。気持ちはすっきりとしている。十三時にナースステーションに挨拶し、看護師さんたちに、
 「おめでとうございます」
 と口々に言われて、それに送られパートナーと次女とともに、病棟を後にした。
 『さようなら。ありがとう。I先生、看護師のNさん、看護師の皆さん、ヘルパーさん、病院のスタッフのみなさん。ケアのためにまた来るけれど、本当はもう入院しないようにしたいです。』
 私の、思いであった。
 その後、私は四月二日まで自宅療養でリハビリの生活を送った。その間に、三女は「全快祝い」といって、寿司をご馳走してくれたり、日航ホテルの中華レストランで中華料理をご馳走してくれた。上の孫のYuも手紙をくれたりした。家族の心温まる励ましと思いやりは、本当にうれしかった。こんなことがきっかけであると言うのは、あまり良くはないのだろうけれど、家族の連帯と信頼を心から感じることができて、私にとっての幸せというものをつくづく実感させてもらったと思う。
 その後、四月二十一日にケアのために通院し、順調な回復であり、また七月二十一日にも通院し診察を受けた。体のほうは順調に回復していると思う。毎日、西院から金閣寺近くの職場まで自転車で通勤し、歩くときも「早足」を心がけている。術後の不自由はとりあえず何もない。七月の診察時に乾先生に
 「夏休みに三泊四日でそこそこ厳しい登山に言っても良いですか。」
 訪ねると、
 「どうぞ、どうぞ行ってください。結構ですよ。」
 とのことである。
 とにかく、現在は術後の経過は順調である。しかし、家族のため、自分のため、あまり過信することなく、着実に着実に、少し自分で見つめなおした人生を切り拓いて行こうと思う。                           (完)



胃癌日記  1.スキルス胃癌の宣告から手術までの悶々とした日々

2019-02-25 17:32:32 | 楽しく元気に『闘病』日記

胃 癌 日 記

胃癌日記  1.スキルス胃癌の宣告から手術までの悶々とした日々

 

 2011年の秋は暖かい。10月半ばというのに、私は未だ半袖のシャツに7分丈のズボンである。

 もともと健康で、ここ15年以上、少なくとも1995年に現職に就職して以来、風邪ひきや腹痛などで休んだことは、あるかないか思い出すのに苦労するほどで、記憶にも無い。2006年3月の未破裂脳動脈瘤のクリッピング開頭手術のあと、体力維持回復のために、阪急の最寄駅から職場までの通勤経路往復8Kmを含め1日10Kmを歩き続けている。大峰奥駆もテントや6~8リットルの水をかついで登り、体力的にも自信を持っている。いわば頑強な身体である。

 しかしいかに頑強とはいえ、加齢とともに身体も傷んでくる。2005年の健康診断で便潜血といわれ、かかりつけのNクリニックに相談した。Nクリニックでは注腸検査をし、その結果異物が見られたため、S病院へ紹介され、大腸ファイバーの精密検査となった。S病院の内視鏡はかなり評価が高く、N先生の紹介で、Aドクターに検査をしていただいた。大腸ファイバーでは5mm程度のポリープが見つかり内視鏡で切除、ポリープが大きかったので、切除後観察でそのまま3日間の入院となった。後日切除したポリープから癌細胞が見つかり、結果「大腸腺癌」の診断が下された。

 それ以降私は、頑強な身体とはいえ歳も歳だし、念のため脳動脈のMRI・3次元CTと大腸ファイバーそして胃カメラを、身体のメンテナンスとして、毎年秋に検査を受けることにしている。

2011年も10月中旬に大腸ファイバーの検査をしており、例年順調ではあるが今年は特に異常は無く、細胞検査もしなかった。一安心していた。以下、2011年秋の身体のメンテナンス日記から。

 

 2011年10月15日(土) 胃カメラ1回目

 本日はNクリニックで胃カメラの検査。昨日は学生時代の同志、S君の急逝で夕刻お通夜に出席してきた。弟さんの話を聞くと、病気治療の薬を変えたところ、薬物ショックで本当にあっという間の急逝であったとのこと。非常に残念至極である。

そして本日私は胃カメラの検査。2日前に大腸ファイバーの検査で消化器を空っぽに、とりわけ大腸を無理やり空っぽにするかなり辛い思いをしたのもつかのま、1日おいてまた胃を空っぽにした。

 15日当日はNクリニックは結構混んでいて、10時30分の検査開始予定が実際に始まったのは10時50分過ぎだった。

 2年前から経鼻胃カメラになって、今回で経鼻は3回目。初回はスムースに入り、Nドクターに感想を聞かれ、『カメラが入っているのに話しが出来るのはいいですね。』とか『口から入れると10分くらい経つと辛抱たまらんようになるのですが、鼻からだとまだまだ、いくらでも耐えられますね。』とか言っていた。しかし2回目は、痛かった。鼻血も結構出た。さて、今回はどうかなあと、若干の不安も思いながら鼻から入れてもらったが、なんと、今までで一番スムースに入っていった。いわば“楽勝”。Nドクターと喋りながら胃カメラ挿入、と言った感じだ。

 さて、逆流性食道炎はあるが、おおむね食道異常なし。胃の入り口辺り異常なし。胃炎はあるがピロリ菌駆除の効果か、昨年に比べて炎症も大分治まっている。と順調な所見。ところが、

 「うーん、ちょっと気になるなー。上彎の胃底部にちょっと気になるものがあるので、細胞を採りますよ。」

 とNドクター。こちらはなにも分からない“まな板の上の鯉”状態。モニターを見ていると、見えるか見えないか、ごくわずかに赤くなった点のようなものがある。そこに焦点を当て、拡大して行くと胃壁に“梅の花”のような、4箇所が盛り上がり真ん中がへこんだものができている。

 「ちょっと細胞を採りますよ。」

 多少不安になりつつも、まあこんなことはあるだろう、などと思いながら見ていた。4箇所の盛り上がりそれぞれから細胞穿刺。組織をごく小さな疳子のようなもので掴み出すたびに出血。

 「先生。えらい出血するのに痛いことはないですねー。」

 「本当やね。これが皮膚やったら拷問でっせ。」 

 そんなやりとり。組織を採りながらNドクターは、

 「Iさん。あまりいいものではないようです。私の感じでは8割がた癌やと思います。細胞検査の結果は10日位かかるので、次回来た時に言います。」

 胃カメラの後、Nドクターは写真や資料を示しながら、

 「部位は、胃の底のほう、上彎部ですね。形状から見てⅡa型かと思います。次回来た時にお話します。」

 私は、一連の検査の流れの中で、癌かなあという思いが沸々と感じてきていた。だからNドクターのそういった話を聞いても、冷静に受け止めていた。

 家に帰って、連れ合いに本日の経過について話した。連れ合いは看護師ではあるが、こういった状況に冷静に受け止められるだろうか、といった心配をしながら話したが、なんと言うことはない、連れ合いは冷静だった。

 

 10月29日(土)

 本日は前回の検査結果を聞く日。連れ合いに一緒に言って私の癌を見ておくか、というと、流石看護師である連れ合い、

 「まあ、見ておこうかな」

 この日は、T整形の腰のリハビリはカットして、私は歩いて、連れ合いは自転車でNクリニックの前で待ち合わせ。本日は校友会大会があり、11時からの学部の企画には参加しなければならない。そのため9時に待ち合わせ。この日も結構混んでいて、結局診察開始は10時になった。呼ばれて診察室へ入り、今日は連れ合いも一緒に来た旨言って椅子に座ると、Nドクター英語で書かれた検査結果を見せて

 「Iさん。性質の悪い細胞が出ています。検査結果を見て、独断でS病院のA先生にデータを送りましたよ。この前S病院へ行ったばかりやけれど、もう一度行ってください。」

 検査報告書のCancerとCellだけは分かった。

「分かりました。先生。性質の悪い細胞て、進行性のスキルス癌ですか。」

 と聞くと、

 「そうです。紹介状を書きますのでS病院に行ってください。」

 「先生。11月4日は、T病院で年1回の能動脈のMRA(実際は3DCTだったが私が間違えていた)の検査の予約が入っているので、その日以外でお願いします。」

 と言うと、Nドクターは、

 「何を言っているんです。そんな術後の検査は少々遅れたっていいじゃないですか。やらなくてもいいぐらいですよ。」

 と、珍しく少々語気荒く言われた。かなり切迫しているのかなあ、自覚症状は何もなく、食事も美味しく沢山食べているんだがなあ、と思いつつ、ただならぬ思いも感じていた。

 Nドクターは先日の胃カメラの写真データを連れ合いに見せて説明している。私は90%の覚悟はしており、愕然となることはなかったが、『いよいよそうか』という思いがじわっと沸いてきた。Nドクターはその場でS病院のAドクターに紹介状を書いて、ファックスを入れた。

 暫くすると返信が来て、11月2日の水曜日に診察とのこと。私は、予定を入れて、午前の4時間の年休の手続きをした。午後3時には仕事で重要な来訪者の対応をしなければならない。

 この日、Nクリニックの前で連れ合いと別れ、校友大会にJRで向かっている途中に、気にするな、気にするなと心の中で言い聞かせているのに、無理無理にと言った感じで色んな思いが、これでもかこれでもかと脳の深層部をよぎっていく。

 癌で亡くした友も沢山いる。53歳で逝った大親友のM、彼は私が会社経営をしていた時に私の仕事に関わって何度も保証人になってくれた。何も言わず金も貸してくれた。そのことの責任は私の経営者としての至らなさなのだけれど、訪ねた折には彼は『またかー』と言って、無理を聞いてくれ、『まあ飯でも食っていけや』と言ってご馳走してくれた。今思い出しても涙が出てくる。そんなMが眼底の原発癌と胃への転移で亡くなっている。親友のように心を許しあった連れ合いの兄Hも50歳の若さで胆管の癌で逝った。痛恨のことだった。北海道出身のOも胃癌で50歳代前半に逝った。職場では同僚のNが一昨年、Kさんがやはり50代前半で亡くなっている。孫が学校で世話になったGさんのご主人も50代半ばで逝っている。

 そんなことが、走馬灯のように私の心に沸々と沸いてきた。

 

 112日(水) S病院受診、腹部造影剤CT、血液検査

 朝8時40分にSN病院着。受付を済ませ、消化器外来待合で待つ。患者が多く、結局Aドクターの診察室に呼ばれたのは、9時40分。呼ばれて診察室に入ると、Aドクター、

 「Iさん。あまり良くないようです。」

 「先生。いわゆる進行性のスキルス癌ですか。」

 「そうではありませんが、そうなり易い悪い細胞が出ています。」

 とのこと。それは私なりの解釈では、『そうです』と婉曲に言われているようなもので、逆に単刀直入にそう言わないのは、『非常に厳しい状況であり、率直には言えない。』と示唆されている思いである。

 「先生。内視鏡で取れるのでしょうか。」

 聞かずもがなのことを聞くと、にべもなく、

 「内視鏡手術の適用外です。」

 続けて、

「今日、造影剤を入れて腹部CTを撮ります。8日に胃カメラ、11日昼の2時半に診察の予約を入れておきます。その時に結果を言います。その後外科に回ってください。」

 とのこと。7時頃に朝食を食べてきた旨を言うと、11時からのCT検査を受けるように言われえた。切迫した感じだ。

 内視鏡手術ならAドクターにお願いしようと思っていた。しかし、開腹手術とのこと。このままだと『当然の流れ』としてS病院で開腹手術ということになってしまう。

 ちょっと待て。それで自分自身が納得いくのだろうか、そんなことも考えながら時間を過し、11時からの造影剤腹部CTの検査を受けた。

 

11月4日(金) 脳の3次元CT

本日はT病院で、昨年から予約していた3DのCTによる脳動脈の撮影と受診。2006年3月の未破裂脳動脈瘤クリッピング手術の術後ケアーで、その後の動脈瘤の状況等を見る年1回の脳動脈メンテナンス。最新鋭の3DCTの機械で撮影後、Iドクターの診察。Iドクターは手術経験の豊富なベテランの脳外科医師。脳外科手術以外にも人工関節置換手術で多くの実績を上げておられる。Iドクターが言うには今年の3DCTの結果は、脳動脈瘤などは新たに出来ておらず、順調。ただ、脳動脈が少し太くなっている部位があり、動脈硬化によるものだろう、とのこと。とにかく自覚症状はなくとも体中が何かと傷んで来ており、年1回の身体のメンテナンスはますます必要か。

「先生。ちょっと近々胃癌で開腹手術をしなければならんようになりました。何か気を付けておかんといかんことはあるでしょうか。」

「ああ、そうですか。血圧はどうですか。」

「寝起きは上が140位、下が80から90位。寝る前は上が120から130、下が70から80位です。」

「ああそうですか。特に大丈夫でしょう。」

連れ合いが、

「前回の脳動脈瘤の手術のときに、回復室のICUにいる時に脳内出血を起こしていますが、今回も全身麻酔で手術するのに、その危険性はどうですか。」

「前回は、たまたまだったのでしょう。」

とのことであった。

 

 11月5日(土)

 自分としては、このままの流れでN病院の開腹手術に委ねるのはなんとなく納得がいかない。

 私の長兄Hはもう随分昔のことになるが、1954年7月9日に17歳の時に盲腸炎を破裂させて、腹膜炎を併発しS病院で手術をしたが、亡くなった。当時私は5歳であったが、家族のただならぬ悲しみは今でも良く覚えている。

 一方私は10歳の時に盲腸炎を起こした。私の場合も盲腸炎が破裂して、腹膜炎寸前であった。私はO大学病院で手術を受けた。盲腸炎というのに2週間も入院して、結果無事退院することが出来た。これは昔々の話で、今日ではO大学病院などは、もっぱら超高度医療で盲腸炎の手術などすることはないだろう。また、私の姉のHは、2008年に甲状腺の癌が発見され、やはりO大学病院で10時間以上にわたる手術を受け、無事成功し今日元気で過している。

 K大学病院もいいのではないか、職場の保健センターの産業医に相談すればF大学病院を紹介してくれるだろう。などいろんな思いが廻ってきた。手術がうまくいっても駄目だったとしても、自分で納得したい。そんな思いで、2日と4日の診察結果の報告に、Nクリニックに行った。

 「N先生。自分としては、S病院のA先生にはたいへんお世話になっていますし内視鏡手術なら是非お願いしようと思っていましたが、開腹手術となるなら外科の他の先生ということなので少し考えさせてください。例えば、O大学病院などは、自分も子供の頃に盲腸の腹膜炎で手術してもらって助けてもらった経験がありますし、最近も姉が甲状腺癌の手術をしてもらい、術後が良好です。他にもK大病院やF大学病院なんかも考えたいのですが。」

 「それはIさんが納得のいくように決められたらいいことです。ただ、私の意見としては、私もO大学出身で、場所も近いけれど、紹介しないでしょう。やはり大学病院は教育機関だから、確かに手術の腕もたいへん良い優秀な先生も、O病院でも知っていますが、こちらからは先生は指名できません。紹介状は書いたが、担当が研修医と言うことも珍しくないのです。有能な先生は超最先端医療は進んでやりますが、胃癌では若手が執刀すると言うことは良くあることです。まあ、若手でも手術が上手な先生もいますがね。大学病院へ行くというのは、ある意味“一か八か”の感じがあります。まあ、いずれにしてもIさんが自分で納得いくようにされたらいいと思います。」

 「脳手術のときに、術後ICUで軽い脳内出血を起こしています。脳外科のある病院のほうがいいのですが。

 「SN病院もあるのではないですか。脳外の手術もしているはずですよ。」

 「腹腔鏡手術はどうですか。」

 「王監督も腹腔鏡手術で胃の全摘をしましたが、私も大学病院時代には開腹手術をしていましたが自分で組織を触りながら、転移を確かめて切って行きました。腹腔鏡では近辺の細胞を採り組織を検査しながら手術をします。確かに回復は早い。今のところ一長一短だと思うけど、評価がある程度定まるのにあと5年位かかるのではないですか。」

 

 11月6日(日)

 本日は大学ラグビーの試合観戦、結果は相変わらず今シーズンの特徴である正直に『堂々と』受けて立つまったりした試合で、10-33で完敗。

 さて、家に帰ってインターネットで連れ合いがいろいろ調べた。S病院は胃癌の手術数が多く年間155例で、関西では5番目だった。上位にはO大学病院もK大学病院もF大学病院もない。術例もTドクターやNドクターの実績が紹介されている。私は連れ合いに、

 「8日の胃カメラの後、Nクリニックに寄って、8日の胃カメラ、11日の診察によっては、S病院で開腹手術をお願いします、と言ってくるわ。N先生も紹介した手前もあるやろし、確かに大学病院へ行っても“一か八か”と言うこともあるし。よっぽど若い研修医なら考えるけど、T先生かN先生の執刀ならS病院で手術してもいいわ。」

 と言った。

 

11月7日(月)

終日、福井県に出張。

20時過ぎに帰ってくれば連れ合いが

「N病院から電話があった。」

「なんや。もう手遅れ言うてはんのかいな。」

「明日、9時30分の予約やが、A先生が緊急のオペで、8時45分に来るように、だって。」

「ふーん。やっぱり緊迫してる感じやな。」

「失礼ですが、奥様でいらっしゃいますかとしつこうに聞かれたわ。」

と、そんなやりとり。

 

11月8日(火) 2回目の胃カメラ

 朝7時37分の阪急電車でS病院へ向かう。8時5分着。再来受付を済ませて、内視鏡センターへ行くと未だ電気も点いていない。

 暫く待っていると、時間通り8時45分に受付。問診をして、更衣して、いよいよ胃カメラ。今回は手術のための検査で、経口の胃カメラ。8時50分頃からA先生が先日の造影剤CTの説明をしてくれる。リンパが腫れている。転移か単なる炎症か調べるので、今日PETの検査の予約をしていくように、とのこと。何だか、だんだんと悪いほうへ悪いほうへ行くようではないか。

やがて咽頭の麻酔や静脈麻酔をして9時丁度位に胃カメラが始まった。何回もしている検査だし、経口と言っても入れるときにしんどいだけでどうということはない。そのつもりだったが、今回は、入れるときには楽だったが検査が進むにつれて、実は苦しかった。おそらくいろんな部位の細胞穿刺をされたのだろう、何回も穿刺された感じがするし、病変部へのアップや何か、やたらと管が動き、出たり入ったりする。正直えらく苦しかった。

 胃カメラ挿入から終わるまで27分。しんどかった。

 本日は診察はなしで、その後術前の血液検査。そしてPETの予約を入れて本日は、帰宅した。帰宅してから、書類を整理し、Nクリニックに寄る。12時10分。午前診終了間際に入った。診察室で、本日の状況を一通り報告した上で、

 「先生。インターネットで調べたら、S病院の胃癌手術の症例は関西第5位で、執刀医もT先生やN先生などのベテランはかなりの実績をお持ちのようです。そういうことならS病院でお世話になろうかと思います。」

 「T先生は良く知ってます。S病院は術例は多いですよ。関西ではI学病院、Sセンター等が多いと思いますが、S病院は引けをとらんと思います。」

 とのこと。そのあと、

 「先生。先日の造影剤腹部CTでリンパ腺が腫れているといわれ、PETの検査をすることになりました。」

 「ああそうですか。転移してなければいいのにねえ。まあ、最近は化学療法も薬物療法も相当進んでいるから。」

 私としては言外に“最悪”を宣告されているようで、複雑な気分になった。まだ胃癌の自覚症状は全くない。食用旺盛。

 

 11月9日(水)・10日(木)

 仕事。仕事で忙しければ気分は紛れるが…。

 

  11月11日(金) PET検査

 朝いつもの通り出勤し仕事。本日はAドクターの診察後PET検査のため、仕事のほうは午前中11時30分までで、昼・午後の5時間年休取得。職場の若手も、私が最近休みが多いのと不定期なので、心配の様子。自分の病状については、ある程度の事実をS課長には話しているが、勿論、絶対に職場、上司、人事課も含め「他言無用」で話している。もう1人、仕事を共有していて私を信奉している若手唯1人だけには、他言無用で

 「毎年の体のメンテナンス検査で引っかかった。病院からは歳も歳やし検査入院しなさい、腫瘍マーカーも高いことやし、といわれた。まあ、ちょっと入院してくるわ。」

 と、先日言っている。

 11時45分に仕事を取り敢えず片付けて、大急ぎでS病院へと駆けつける。PET検査のため昼食抜きで京都から大阪へと急ぎ、午後1時5分にS病院の再診受付と消化器内科の受付を済ませ、診察待合へ。本日は1時30分に、消化器内科待合で連れ合いと待ち合わせ。やがて連れ合いがやってきて、一緒に待つ。なかなか呼ばれず、検査の時間は近づいてくるわでいらいらしていると、2時15分になってやっと呼ばれた。

 診察室に入ると、連れ合いをAドクターに紹介する。

 「CTを見るとリンパが腫れています。潰瘍やらで単なる炎症ならいいのですが、細胞が良くないし、リンパですから早く手術したほうが良いでしょうね。腫瘍マーカーは正常(肝臓、膵臓、あと前立腺か?)なんですがね。」

 腫瘍マーカーが正常と聞いて少しホッとした。

「先生。開腹手術ですか。」

 「そうですね。」

 「自分も覚悟をしていますので、何時でも良いのですが。」

 Aドクターは医療スタッフに指示して、この後のPET検査の結果が解る日をPETセンターに確認している。どうやら1週間かかるようだ。

 「来週18日に検査結果を見る再診としましょう。その上で外科に紹介します。」

 「先生。PET検査は、癌の転移を見るんですね。」

 「そうです。」

 「その上で、どのような範囲の手術かも判断されるのですか。」

 「そうです。」

 と言うことで、18日の再診予約の手続きをして、A先生の診察を終えた。

 診察後、急いでPETセンターに駆けつけて検査の受付。3時間ほどかかるのと、検査後この報告で茨木のNクリニックに寄っていくので、検査着に着替えた後、連れ合いは先に家に帰った。PET検査は全く苦痛はないのだが気が萎える。体重・身長・血糖検査のあと造影剤の注射、その後40分の安静。これだけでもいい加減うんざりだが、本番の透視の機械での検査に30分、そして再び20分の安静、再び30分プラスCTの透視、そして検査後チェックやらでやっと放免。2時40分に開始し、終了したのは5時40分だった。

 検査後茨木の主治医のNクリニックに直行した。Nドクターに本日の診察と検査の結果を報告。

 「先生、PET検査をしてきました。結果は1週間後と言うことで、18日にA先生の再診後外科に回されて手術の日程が決まるようです。」

 「そうですか。転移がなければいいですね。私も明日午後A先生と勉強会で一緒になりますから、様子を聞いておきます。」

 「先日の検査で、腫瘍マーカーは肝臓と膵臓とあと前立腺と思いますが、正常だと言うことです。」

 「腫瘍マーカーはあてにならんです。高い人が低くなれば治療効果があったと判断しますが、もともと低くて、上がらない人もいます。」

 と言う。Nドクターは嘘を言えなくて、歯に衣を着せないのは私も好きだが、それにしてもデリカシーが無い。もう少し優しく言えないのだろうか。私だって、自分で言うのもなんだがナーバスな状態になっているのに・・・。

 

 11月12日(土)

 本日は職場のリクレーション。昨日来の雨も止み爽やかな秋晴れ。職場の若手ら総勢6名の少数精鋭だが、「紅葉狩り・温泉・松花堂弁当の秋の遠足」と銘打って、貴船から鞍馬へのピクニック。和気藹々と一日を楽しんだ。未だ全く自覚症状は無いどころか、一行の中で私が一番元気。本当に楽しく気分が紛れた。

 

 11月13日(日)

 ここのところずっと土曜か日曜に、連れ合いとともに姉のHのケアをしている。本日は姉のHを誘い、映画に行くこととした。朝8時過ぎに出発し姉宅へ行く。毎日の薬を飲んでいるかチェックし、飲んでいなければ飲ます。一通り飲ませた後、自作の「毎日薬箱」に薬を補充してから映画に向けて出発。

 本日は三谷幸喜監督、西田俊之や中井貴一出演の「ステキな金縛り」という映画。三谷監督独特の奇抜なシチュエーション作りや、西田、中井などの嫌味の無い演技に思わず大笑いした。

 映画の後は、まずまずの味の天婦羅屋でランチとした。本日もかなりの時間、鬱陶しいことを忘れ、心から気分が紛れた。連れ合いの思いやりだと思っている。ありがとう。

 

 11月14日(月)

 仕事。就業前に課長に11日の検査と今後の予定を言う。その後、次長にどういうか尋ねられ、私のほうから言うといえば、次長を別室に呼んできてくれた。

 「次長。ご存知のように私は毎年秋に体のメンテナンスをしています。」

 「そうですね。」

 「今年もしたんですが、実はちょっと引っかかりまして、『歳も歳だし、腫瘍マーカーもちょっと高いし、この際徹底的に検査したらどうか』と言われました。それで、多分来週になりますがちょっと検査入院しなければならなくなりました。」

 「そうですか。気をつけてください。何か自覚症状はあるのですか。」

 「いや、何もありません。土曜日も若手とハイキングに行ってきましたけど、私が一番元気でした。」

 「あっははは・・・。そうですね。Iさんの元気には若手もかなわんでしょうね。」

 そんなやりとり。

 あと、段取を整えておかねばならんので、忙しく仕事。仕事の間は、気は紛れる。

 連れ合いが清水寺の「健康祈願」のお守りを買ってきて、私にくれた。

 

 11月15日(火)16日(水)17日(木)

 仕事。忙しくて忙しくて気は紛れる。17日(木)は大阪で鳥取県のイベントに参加。午前中は大阪の事務室で仕事。

 

 11月18日(金)

 朝から姉Hのケアで、連れ合いと一緒に姉宅に行く。

 帰りに図書館分室やガソリンスタンドなどで所用を済ませ済ませ、10時過ぎに自宅に戻る。その後近所の整形外科へ行き週1回の腰のメンテナンス。11時過ぎに家に戻り準備をして、S病院へ向かう。今日は先週のPET検査の結果と、外科への紹介と手術のスケジュールの確定だ。今日は連れ合いは所用のため同行せず。

 11時55分に梅田の定食屋で昼食を済ませ、病院に入り再診受付を済ませて、消化器内科の待合で待っていると、予約時間の13時丁度に呼ばれた。

 「PET検査の結果は、集積はありませんね。全身への転移は認められません。リンパ腺への転移もありません。リンパ節が腫れているのは、長年の胃潰瘍の為かもしれません。腫瘍マーカーも陰性です。」

 とのこと。検査結果ではいまのところ転移は見当たらないと言うことだ。

 「腫瘍マーカーの検査は、血液検査ですか。」

 「そうです。」

 前回の診察時「腫瘍マーカーは正常」と言われたと思っているのだが、今日は「陰性」と言われた。

いずれにしても、落ち込んでいる場合ではない。積極的に癌と闘わなければならない。そんな思いが沸々と湧いてきた。

 「Iさん。あまりいい細胞ではないし、リンパ節も綺麗にしたほうがいいので、私は開腹手術をしたほうが良いと思いますよ。」

 A先生の所見。私は開腹手術の覚悟はしている。今までは、逝くにあたってどのように身辺を整理しておこうか、化学療法や放射線治療にどう立ち向かおうか、などと「暗く」思い込んでいたが、最近では「頑張るぞ!」という気持ちになってきていると思う。楽観は出来ないが、前向きに行こう。

 連れ合いのくれた、お守りの御利益か。

 

 11月19日(土)・20日(日)

 大学の同期でともに学生運動を頑張ってきた同志・仲間たちの集いの同期会の年1回の集まりで伊勢へ行く。あいにく朝から雨が降っている。

 数日前までは、今回が自分にとっては最後の集いかもしれない、などと「特別な」思いを持っていたが、PETの検査結果でとりあえず転移は無いとのことで少し気持ちは軽くなった。しかし私の胃癌の発見となった10月15日の胃カメラの前日は、薬剤ショックで同期仲間のS君が逝ったそのお通夜に参列してきたばかりだ。複雑な思いだ。

 19日は地元に住むF君夫妻の自動車に便乗させていただき、二見が浦で夫婦岩を見、その後展望スポットに案内してもらう。あいにく雨と強い風で展望は無かったが、楽しいドライブだった。夜はF婦人がメンバーであるエクシブの鳥羽に宿泊し、スパを楽しみ懇親会に昔を偲び旧交を深めた。この歳になると、心筋梗塞やら前立腺癌やら結構命に関わる「病気持ち」が増えてきている。私はというと、2006年に未破裂脳動脈瘤のクリッピングの開頭手術をしたが、至って健康で頑強である。しかし今年の同期会は少し違う。「これで仲間たちと顔を合わせるのは最後かなあ。」という思いがある。

勿論仲間たちには自分が胃癌であることは一言も言わなかったが、そんな少し鬱な気分も忘れるほど楽しい集いであった。

 翌日は伊勢神宮へ参り、おかげ横丁で土産を仕入れた後、伊勢にあるフランス料理店でフェアウェルランチ・パーティ。帰りの電車の都合で私は先に席を立ち、歩いて15分ほどの近鉄宇治山田駅へ行った。宇治山田駅に着くとなにやらこちらのほうをずっと見ている女性がいる。よく見るとGさんのようだ。私は学生時代に寮生活をしていたのだが、その時のやはり「同志」がGさんである。Gさんの方から声をかけてきた。

 「I君と違うの?」

 「Gさんに似てるなあと思っていたら、やっぱりそうか。何してんの、こんなとこで。」

 振り向けば、寮時代の同志であるO君、W君らもいる。

 「おう、久し振り。」

 「何してたん。」

 と聞くと、現在三重県に住んでいるやはり寮時代の同志である、T君が絵の個展をしているので見に来たとのこと。今から帰るとのことだが、私と同じ14時28分発の上本町行き特急だった。つかの間の旧交を、本当に偶然にも宇治山田の駅前で深めた。

 「神様がこの世の名残に逢わせてくれた。」などとは思わずに、ラッキーなハプニングと思おう。

 

11月22日(火) 術前診察

 今日はS病院の外科受診日。今日は連れ合いが同行。11時30分の予約で10時55分に受付を済ませ外科待合で待っていると暫くしてスタッフに呼ばれる。

 「Iさん。済みませんがたいへん混んでおりまして、13時30分過ぎになると思いますので、食事をしてきていただけませんか。とのこと。仕方なく近くの喫茶店へ。

昼食を済ませ、パソコンを使って執筆中の原稿の続きを書く。暫く順調に書き続けて行くと、突然バッテリー上がりでシャットダウン。ややっ、なんということだ。書き綴ったものが上書きしていないからすべてパー。頭にくるやら情けないやら。

13時が過ぎたので、病院へ戻る。戻った事を伝え順番が来るのを待った。診察はA先生の紹介で、外科部長のベテランのT先生。午後はT先生の1診だけ。余り多くの患者さんが待っているというのではないが、待てども待てどもなかなか呼ばれない。患者1人に30分から1時間かかっている。持参のロバート・B・ライシュ著の「Super Capitalism」も読んでしまった16時30分に業を煮やして受付けにどうなっているのか尋ねた。暫くして看護師さんが出てきて、

「すみません。手術前の患者さんばかりで説明に時間がかかっていまして、Iさんは次にお呼びすることになっています。」

とのこと。待っていると一人検査結果報告の患者さんを挟んで、16時55分にやっと呼ばれた。T先生は比較的小柄で、華奢な感じ。お互い初めての挨拶後、

「遅くなってすみません。これでも昼の休憩も無しで診ています。検査結果は今のところ転移も無いようですが、手術はどうされます。内視鏡手術は無理ですが。」

「開腹手術ということですか。」

「癌細胞が一番性質の悪い細胞で、PET検査では写っていませんが、癌の近くのリンパ腺も腫れていますし、念のため採ったほうが良いでしょう。腹腔鏡手術も出来ますが、癌の性質からして念のためには開腹手術のほうが良いと思います。手術後は痩せますよ。実は私も胃癌で開腹手術をしました。Iさんと同じの悪性の癌でした。」

といって、診察着をめくって、手術の跡を見せてくれた。

「覚悟はしていますので、開腹手術をしてください。」

「解りました。Iさん、手術をすると痩せますよ、私の場合は手術後14キロ痩せました。IDカードの写真はふっくらしているでしょう。それと、胃カメラをもう一度撮ってください。前回残渣が多くよく映っていませんでした。他にも癌があって残渣で見えていなかったら無駄ですので、もう一度撮ってください。」

といって、内視鏡室に電話を入れ、A先生に胃カメラを撮ってもらうよう指示している。結局胃カメラは11月29日9時30分と決まった。

Tドクターは、なるほどIDカードの写真はふっくらしているが、現在は華奢で、何かインターネットで見た写真とも随分イメージが違うなあと思っていた。

そのあと自覚症状が今のところ全く無いことや、非常に早期の発見でよかったなどの話を聞く。ただ、私は休み明けの24日でも入院になるのかと思っていたら、11月中は手術の予定が一杯で、12月中旬以降になるだろうとのこと。手術予定を貼り付けたボードを持ってきた説明。連れ合いが、

「先生、何とかもう少しでも早くならないでしょうか。胃カメラが10月15日でそれからでも1ヶ月以上経ってまして、癌細胞も悪質なものと聞いていますので、心配です。」

「私は、N先生やA先生の紹介のときは私が斬ることにしています。誰でもよいのなら少しは早くできるかもしれませんが。」

「それは、先生にお願いしたいのですが。」

「急病で手術が出来ないキャンセルが出れば、そこに入れますが。いずれにしてもカンファレンスして手術日を決めます。決まれば連絡します。」

その後直腸診等をして、診察終了前に、

「Iさん。怖がることはありません。ちゃんと仕事にも復帰できます。大丈夫です。」

と、励ましてくれた。

11時30分から延々5時間20分待たされたが、T先生は丁寧に患者に説明する先生であることがよくわかった。17時30分に診察が終了して、受付のスタッフに入院のことやら今後の検査の説明を受けた。私は胸部・腹部のレントゲン、血液検査、心電図、肺機能の検査を受けて、外科以外には患者のいなくなった静かな病院で精算を済ませ、家路へとついた。

 

11月25日(金)

 本日はAドクターの診察を受けて、手術前の胃透視の予約。本日も仕事を休み、若手のT君やAさんは、大丈夫ですかと心配してくれている。

 朝9時5分に病院で受付を済ませ、待合で本を読みながら待っていると、1時間後の10時5分に呼ばれた。Aドクターに手術の予定など聞かれたが、12月中旬頃でまだ決まっていないと言う。胃透視のほうは、11月30日に決定。検査はどんどん進めてくれているが、手術日が決まらなく、気が落ち着かない。

 

11月26日(土)

 本日はラグビーの試合の観戦。対戦相手はS大学。S大学は、メンタル的なまとまりが強いというか、特に人気のある名門チームに対しては闘志をむき出しにして挑戦してくる。昨年の最終戦も戦力的には明らかに有利であったのに、いざ試合が始まるとS大の圧倒的な闘志に押しまくられ、「惨敗」してしまった。今年もいやな予感がしていた。

 さて、試合が始まった。今年も戦力的には有利と周りも認めている。しかし、不安は当たってしまった。試合開始から「受けて立って」しまって、「言い訳」のような「まったりした」試合で、負けてしまった。

11月27日・28日(日)(月)

 27日(日)アメリカンフットボール、K大学戦観戦。完敗。

 28日(月)仕事。

 

11月29日(火) 3回目の胃カメラ

 本日は胃カメラ。手術前の検査。9時30分からA先生が直接検査してくれる。今回は残渣もなくきれいに撮れたとのこと。癌の周辺の組織も穿刺して、胃の切除の範囲を判断するのだろう。執刀のT先生は、どうも広範囲に切除されそうな感じがする。

 胃カメラの後、外科受診。連れ合いと待ち合わせ、外科待合に行くと連れ合いが待っていた。明日の30日は、やはり術前の検査で、心臓のエコーと胃透視の検査が入っている。外科外来受付で、今日の午後は仕事が入っている旨を言い、何とか10時10分過ぎに診察をしていただいた。T先生の診察で、γGPTが非常に高いとか、循環器内科の検査前の受診をすること、負荷心電図と場合によってはカテーテルでの検査とか、気の滅入るような話も聞く。さらに、12月1日には循環器内科の診察を受けることを指示された。しかし10時50分には診察も精算も終わり、大阪の事務所行き仕事を始めた。昼からは「特定子会社見学会」で、大阪BPに向かう。

 

11月30日(水) 心臓エコー検査と胃透視

 本日は午前中時間年休で、検査。8時に病院着だが検査室の受付けも誰も居らず、本を読みながら待つ。8時50分に「心エコー」の検査開始。手術に耐えられるかの心機能の検査だろうと思う。約30分の検査が終了し、次は胃透視。9時20分に受付けを済ませ待たされて10時10分に胃透視開始。

透視のドクターが、

 「水か何か飲みましたか。」

 と盛んに聞いて、看護師さんや検査技士さんに盛んに私の腹部を揺らさせる。最初はよく分からなかったけれど、私もモニターを見ていて、どうも胃の底の大彎の「盛り上がり」が気になっているのかなと思った。「それが癌と違うの。」と思ったが、ドクターはカルテを見直して、やがて何も言わず、透視の撮影を続けた。

 11時前には透視も終わり、急いで仕事に戻る。

 

121日(木) 負荷心電図

 3日続けての検査と診察。本日は時差勤務で何とか誤魔化している。今日は循環器内科S先生の診察。外科のT先生の指示の診察で、循環器内科受付けで待つ。8時50分にやっと受付け。しかし診察は早く9時過ぎには診察室に呼ばれ、説明を受け、そのまま検査へ。検査は負荷心電図。負荷は2段の階段を38回上り下りして、その経過の心電図を見るというもの。私にとっては38×2=72段の「階段上り」は「負荷」でもなかった。

 検査後Sドクターの診察で、

 「特に問題はありません。回復も早いです。」

 とのこと。本日はそこまでなので、急いで職場へと向かう。

 12時10分職場着。本日は時差出勤。仕事をしていると12時50分頃にS病院から電話が入った。ちょっとのタイミングで出ることが出来ず、電話留保のまま。

 やはり気になるので、14時10分にこちらから電話をコールバック。S病院の総合受付が出て、外科に繋いでもらう。やがて看護師さんが電話に出て、

 「Iさんですね。入院が7日の水曜日に決まりました。」

 「そうですか。分かりました。ところで手術は何時になるのでしょうか。」

 「少し待ってください・・・。手術は9日ですね。」

 とのこと。いよいよ決まった。さあ頑張るぞ、の思いが湧いてきた。電話の後職場に戻り、S課長に入院日を言い、それまでの私の準備と仕事の日程調整をして、課長に申し入れた。

 

12月2日(金)

 本日急遽休暇を取る。やはり長兄には話しておかねばならないので、長兄の家に自転車で行く。長兄は心配し過ぎるかと思い、今まで何も言わなかった。

 「実は、胃癌やねん。あんまりよくない癌や。」

 「胃癌か・・・」

 長兄は瞬間暗い感じになったが、その後、

 「いまどきの胃癌の手術は、昔の盲腸の手術みたいなものや。心配せんでええよ。」

 と、逆に励ましてくれた。そのあと中央図書館に行き12日締切りの本の原稿を一気に書き上げた。後は推敲だけにして。

 

12月3日(土)

 恩師のS先生の7回忌でもあり、先生を偲ぶゼミ同窓会の集いで、京都に集まる。S先生も肺癌を克服後、食道癌に冒され、亡くなっている。久しぶりに先輩たちや旧友と会う。

 

12月4日(日)

 朝一番で姉H宅にケアで訪問。今日は「一万人の第九」に参加の為連れ合いは来ず、一人で自転車で。家から千里ニュータウンまで自転車で行くのはなかなか大変だ。

 昼からは、S先生の著作集の編集出版の打合せで天王寺へ。昨日と同じメンバーもちらほら。予定より1時間早く終わり、私は甥が入所している「Sセンター」へと行く。午後4時半過ぎに着き甥のMと久々の談笑。Mも頑張っている。サポートできることは何でもしてやらねばと思う。

私は連れ合いと待ち合わせの梅田阪急オフィスタワーへと向かう。7時00分オフィスタワー着、時間があるのでコーヒーを飲み。30分に待ち合わせ場所へ。連れ合いはすでに来ていた。

 「何食べる?」

 「名残に、ワインバーでワインを飲んでチーズフォンデュ。昔のデートを思い出して。」

 「ワインはあかん。」

 「そしたらノンアルコールビール。」

 と言うことで話がまとまる。手術前のメモリアル・ディナー。ゆっくりと楽しんだ。

 

12月5日(月)・6日(火)

 仕事。滞留させないように、大忙し。6日の朝礼で、皆に

 「明日から1週間から10日くらい休みます。」

 と言う。すでに課長が検査入院すると言ってくれているが、仲間が次々と心配やら「激励」で声をかけてくる。仕事は面談など難しいケースばかり。

一通り仕事を済ませ、6日夕方にはさあ頑張るぞの気持ちで職場を後にする。

 

12月7日(水) いよいよ入院

 いよいよ今日が入院の日。手術の結果がどうであれ自分で納得して手術に臨んだつもりであったが、朝目が覚めてから、今更ながら本当に自分の生命、運や人生をS病院やT先生に委ねてしまってよかたのだろうか、K大学病院、O大学病院かF大学病院に行ったほうが良かったのでは、などという気持ちがジワーッと、沸々としてきた。

 何か悶々とした気持ちを引きずりながら、朝連れ合いと一緒に、暫く行けない千里山の姉H宅に訪問。Hには癌ことは何も言っていない。あまりショックなことは彼女には言わないほうが良い。そのあと近所の「靴専門店」に行き、入院中使用するスリッパを買いに行った。入院に必要な印鑑、身の回り品、検査等の同意書などは殆ど連れ合いが準備してくれているとはいえ、入院当日の朝にしては忙しい。しかし、かえって思いに耽る余裕もなく、淡々と時間が過ぎて、そして迫ってくる。

 12時30分に連れ合いとともに出発し、病院へと向かう。1時過ぎに梅田に着き、連れ合いが、

 「何か食べる?」

 「うん、腹減った。何でもいいけど暫し食えなくなるので、最後のご馳走を食いたい。」

 などと言い、店を物色。暫く探して茶屋町のイタリア風レストランに入り、ランチとしては少し豪華なセットメニューを食べた。ランチはなかなか美味しかった。癌の手術後は絶食絶飲で暫く何も食べられないし、食べることが出来るようになっても厳しい制限食が続き、そして体重が1割以上減ってしまうらしい。最悪の場合再び美味しいものが食べられなくなることもある。そんなことを考えながら、美味しいけれど複雑な思いで、「最後のご馳走」をいただいた。

 2時10分にS病院に入り、入院受付けを済ます。病室は803号室の3人部屋。相部屋の人はNさんで、挨拶をする。Nさんは今日の夕方から手術とのことで、後で分かったのだが『鼠径ヘルニア』とのこと。もうひとつのベッドは現在空きで明日一人入院とのこと。看護師さんのガイダンスと荷物整理をした後、売店にさらしやT字帯(ふんどし)、腹帯等を買いに行った。

 買い物から戻り、暫く連れ合いと話をしていたが、看護師さんがやってきた。

 「Iさん。私は担当の看護師で、Mといいます。担当の先生はY先生です。よろしくお願いします。」

 「こちらこそよろしくお願いします。」

 「私は、明日は休みでこれないのですが、替わりのものがお世話いたします。」

 とのこと。Mさんは少し小柄で、美人だった。

やがて8階の小さなカンファレンスルームで5時45分からインフォームドコンセントを聞いた。未だ40歳前と思われるY先生で私の今後の担当主治医となられるとのことで、話は私と連れ合いと一緒に聞く。

 私の癌がスキルス胃癌であること、胃切除のやり方は全摘、さらに十二指腸の一部までの摘出、上部又は下部の3分の2から大部分の摘出など、食道と腸への直接の接合、あるいは残胃と食道又は腸への接合等があり、開腹して状況を見ながら決定する。私の場合リンパ節が腫れていて、それが転移かどうか分からないので、念のため胃の周辺のリンパ腺を切除する、その際胃から胆嚢へ指示を発する神経も切除され、そのため胆汁が分泌されなくなり溜まって胆泥ができ2・3年後には胆石が出来るのでこの際胆嚢も取ってしまう、そのことによって消化障害や通過障害が起こることも有る。腸閉塞となれば再手術もありうる。手術時のショック、麻酔のショック等で死ぬ場合も有る等々、手術のリスクについてこれでもかこれでもかというほど延々と話された。その上で手術の承諾書を渡され、押印しておくようにとのこと。患者に安心させてばかりというのも考え物だが、私はまたふと「この病院でよかったのかな」という思いがこみ上げてきた。念のために、

 「執刀はY先生ですか」

 と聞くと、

 「私もしますが、T先生が主にされます。」

 とのこと。すこし、ホッとした。

 インフォームドコンセントが30分。その後6時30分から入院食の夕食。昼のランチには及ばないが、それでも手術前日からということで明日朝からは暫くは拷問のような絶飲食。そのことを思うと、これこそ「最後の晩餐」か。

 連れ合いは夕食を確かめてから、家へと帰った。

 午後10時就寝。

 

12月8日(木)

 朝5時半目覚め。手術前日。マニュアル通りというか、朝から看護師のKさんがやってきて、下毛剃り、臍掃除の後シャワーを浴びる。

やがて空きベッドに入院患者がやってきた。簡単に挨拶、Kさんという。どうやら結腸部の大腸癌ということらしいが、詳しいことは分からない。結構大部なハードカバーの本も数冊持参され大変紳士然とした方で、後ほど奥さんも来られたが、奥さんもしっかりした感じの方であった。

午後から麻酔科の女性ドクターの麻酔についての説明、手術室ナースの説明、最中に連れ合いが来る。夕方から点滴が始まり、午後7時連れ合いは帰った。午後8時過ぎにNさんが手術を終えて病室に帰ってきた。回復室に行かないのは、比較的軽い手術であったのか。10時就寝。

 淡々とした一日で、さりとて集中できず本も読めず、活字を眺めるだけ。

 

12月9日(金) いよいよ手術の日①

 いよいよ手術日を迎えた。昨夜は少しまどろんでは目が覚めたりの繰り返しで、殆ど眠れなかった。およそ「不眠」には縁がない私だが、家族との楽しかった思い出、次女と連れ合いと一緒に行った登山、特に剱岳や大峰奥駆け達成の充実感と家族の絆が深まったこと、しんどくても楽しかった子育てのこと、子供たちひとりひとりのことやこれからの生活、孫のこと、悪戯盛りと生意気盛りの孫たちのこれからのことなどが走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。少しまどろんではまた目覚め、今度は私の生活のこと、K高校の入試に失敗したこと、K大学の入試に失敗したこと、就職では大阪市上級職公務員試験の最終試験まで進んだのに、受験者の中で唯一人最終で「落とされた」こと、会社を倒産させて自己破産したこと、そしてサラリーマンを経験したいへん厳しい会社で企画営業でトップの成績を残した後、一年奮起し現職に就いたことなどなど。またまどろんでは目覚め、連れ合いとの出会いと結婚、結婚後お互いの厳しい状況の中で、離婚の危機に陥ったことや別居のこと、そんな波乱万丈を乗り越えながら今では「生まれ変わることがもしあるなら、また連れ合いと一緒になりたい」と思っている。

 不思議と仕事のことはあまり思い浮かばなかったように思う。12月中締切りの労働法関係専門誌の原稿の締切りと校正のこと以外は、今私が担当している大型イベントの準備が進んでいるのだが、そのことで目覚めると言うことは無かったように思う。すっかり課長にまかせきってしまっているのか、仕事と自分の生命の事を考えたら、仕事のことはフェードアウトしてしまうのか。そのうちに朝6時になり、看護師さんがやってきて、トイレに行き浣腸をした。

 

 朝8時に、執刀のT先生続いて担当のY先生が部屋に来て、

 「いよいよやなあ。頑張ろうな。良く寝れたか?」

 と、激励してくれた。私は、良く寝ました。頑張りますので徹底的に癌を取ってください。癌をやっつけてください、と言いたかったが、とても言えず、蚊の鳴くような声で、

 「頑張ります。よろしくお願いします。」

 と、言ったように思う。

 

 8時55分、病室を出発し、看護師さんとともに歩いて中棟6階の手術室に向かう。やがて手術室に入り手術台に横たわり、横向けに寝て脊柱への間接麻酔を行った。この麻酔は術後も苦痛を和らげるために脊柱の間にチューブを差し込んだままで体外の麻酔薬と繋ぐ麻酔。間接麻酔自体はたいした苦痛も無く施術が終わり柱の時計を見れば9時20分であった。

私は、手術の時間を気にしていた。余りに短時間で過ぎると、全身に転移していて『手遅れで手術の仕様が無かった』とか、余りに時間がかかると『周りのリンパや臓器に転移しており、そちらのほうも切除していった』ということを聞いており、手術前後の時間を覚えておくようにした。事前の説明で手術は9時からで、午後2時頃には終わると言われていた。全身麻酔の薬を点滴の中に入れてたのが9時30分。ほぼ瞬間に意識は無くなっていった。

 

いよいよ手術の日②

「Iさん。終わりましたよ。」

Y先生に起こされた。

「手術は終わりましたよ。全部きれいに取りましたよ。」

「ありがとうございました。」

自分でも分かるほど、呂律が回らないしわがれた声で返事した。柱の時計を見ると午後4時30分だった。少し遅い。思ったより難しいことになっていたのか。胃以外にも切り進んだのか、何故予定より2時間以上も費やしたのか、良くないことばかりが頭に浮かんできた。やがて、看護師さんが、

「Iさん。部屋に戻りましょうね。」

「部屋といっても回復室ですね。」

「そうです。今晩一晩は、回復室です。明日できれば午前中に病室に戻ります。」

北棟8階の病室が有るフロアのナースステーションの奥にある回復室に午後5時に『運ばれて』来ると、手術の間中ずっと待っていた連れ合いと、仕事が午前中で昼からやってきて待っていた長女がまもなく回復室に入ってきた。手術時間が長引いたことについては、お互い気にしつつも何も言わず。

「どう。痛い?」

「じっとしてると痛くないけれど、動くと痛いわ。」

「仕方ないわ。」

などと話している。全身麻酔で挿管されていた為、喉がいらつき水気を飲みたいが、術後の為絶飲食。辛い。5時30分頃、孫の世話の為長女は返った後でY先生がやってきて手術の説明。

「お疲れ様でした。手術はたいへんでした。」

何が大変だったのか聞きたい。

「内臓が癒着していて、それを剥がすのに2時間以上、午前中一杯かかりました。盲腸は以前に手術していて癒着もあるのですが、まるでいろんな内臓手術をした人みたいに癒着していました。T先生も『こんなん、初めてや』と言っておられました。それで手間取り大変でした。」

「そうですか。癒着てそんなに大変ですか。」

「胃を切って、腸に繋げるのに引っ張ってこられないです。また、内臓に癒着があると腸閉塞とかの通過障害を併発し易いのですよ。」

との説明だった。しかし、私は素直に額面どおりの説明とは思えなかった。どこかに転移があって切り拡げていったのではないだろうか、きっとそうだろう。そう思った。

いろんな話をしているうちに、午後7時30分次女が仕事を終えて回復室へ駆けつけた。私は身体を動かすと痛いのでなるべく同じ姿勢のまま、連れ合い、次女と今日一日のことを話していた。やがて8時15分、

「頑張ってね。」

といって連れ合いと次女は帰っていった。

 

 いよいよ手術の日 3

 回復室は術後の患者が私を含めて3人だったが、そこでの一晩は大変だった。かつて2006年3月に脳外科手術をした日のICUも大変だった。その時年配の男性患者は一晩中、

 「痛い、痛い、何とかしてくれ。」

と叫び、挙句自分で傷口を接合している勾を抜き出したり、もう一人の年配の女性も

 「痛い、ヒーッヒーッ、」

 と叫び続け、看護師さんの様子や口ぶりでは、着ている物を脱ぎだしたり大騒ぎで、結局私は一睡も出来なかった。私も頭が割れるほど痛かったのだが、『手術して実際に頭が割れているから仕方が無い』などと自分に言い聞かせ我慢していた。もっともその時は術後に軽い脳出血をしていたようで、連れ合いの話によると我慢してはいけないのだそうだ。

 そんな経験もあり、今回も覚悟していたが、やはり大変だった。

 私の右隣の年配の男性は、胆石で胆嚢を取ったらしい。最初のうち家族や親族の方と話していたときは、見舞いの方が『石や、といって見せてもらったが、パチンコの玉みたいのが2個やった。記念に持って返ってと言われた。胆嚢は卵みたいなもんやった。胆石なんて病気の内にはいれへん。』などの話に調子を合わせていたが、見舞いの人たちが返るとまもなく、

 「痛い、痛い。痛み止めの注射をしてくれ、痛み止めの薬をくれ。」

とうるさいことうるさいこと。それが一晩中続いた。左隣の患者さんは大腸の一部を切除した様子。一晩中、

 「痛い、痛い。わしはもう病院変わる。N市民病院へ帰るから先生に紹介状を書いてもらってくれ。痛いからN市民病院へ行く。救急車を呼べ。」

 などと叫び続ける。看護師さんも慣れてはいるだろうが、一生懸命なだめている。私は『やかましい!痛いのはおっさんらだけと違う。ちょっとは我慢しろ!だまっとれ!』とよっぽど言いたかったが、痛みとともに我慢した。身体を動かすと傷口が痛い。じっとしてると腰や節々がだるく、痛くなってくる。喉はがらがらで水が飲みたい。おまけに回りはわがままな『おっさん』ばかり。まるで拷問で、今回もやっぱりまどろむだけで一睡も出来なかった。


胃癌日記  2.スキルス胃癌の手術がすんで退院までの入院生活

2019-02-24 17:38:31 | 楽しく元気に『闘病』日記

胃癌日記  2.スキルス胃癌の手術がすんで退院までの入院生活

1210日(土)

 手術翌日。朝8時50分にY先生の回診。様子を聞かれ殆ど寝れなかったことを言う。但し、人のこと(非難)は一切言わず。痛いこと、喉がガラガラのことのみ。9時45分に再度Y先生回診。どうやら先生の口癖のようだが『まあいいでしょう。』と言われる。10時15分に歩いて病室の803号室に戻る。

NAさんKさんに挨拶。

 「どんどん歩くように。動いて血行が良くなれば術後の回復にも良い。」

 と先生に言われ、歩くように心がける。

 午後2時頃連れ合い、次女が来る。その後長女も来て、いろいろ話す。3時30分頃長女帰る。7時30分頃には連れ合い、次女も帰る。その後午後9時20分T先生回診。

 「○○ちゃん。全部きれいに取ったからな。ちゃんと仕事にも戻れるよ。」

 と言って励ましてくれる。今日は土曜日だ。『先生こそいつ休んでるんですか。身体に気をつけてください。』と言いたかった。

 Nさんがイヤホーンなしでテレビをつけていて、『うるさいなあ』と思っていたら、Kさんが

「テレビを消してください。」

と、注意をした。

絶飲食3日目。本日歩き680歩(フロア1周170歩×4周)。

 

12月11日(日)

 朝6時に目が覚める。2時間に1度くらいで目が覚めてはいろんな思いが駆け巡り、一晩中良く寝られなかった。朝8時50分Y先生が回診。その後10時40分にT先生も回診にやってきた。今日は日曜日だ。T先生もY先生も、その熱心さには頭が下がり、尊敬する。

 T先生の回診の後、看護師さんがやって来て、身体を清拭してくれた。手術後初めての清拭で、温かくて気持ちが良かった。

 じっとしていると、腰や背中、臀部など体中が痺れてきてやがて痛くなってくる。かといって寝返りをうったり、起き上がろうとしたりすると手術の傷にピリピリと響き、思わず身体が防御反応を起こす。うっとおしくて節々が痛く、だるくて辛い。入院前には沢山本を読もうと思っていたが、とても本など読む気にならない。テレビのニュースかワイドショーを見るのがせきのやま。

 ベッドの上で悶々としていたら午後2時20分頃、連れ合いがやってきた。いろいろ喋ったりまどろんだりして時間を過す。私は飲めず食えずだから、しんどい。命の元の栄養は、1日6本の点滴。6時40分頃、連れ合いは家へと返った。

 絶飲食4日目。本日歩き1020歩。(フロア2周×3回・1周170歩)

 

12月12日(月)

 6時頃目覚める。目覚めるといっても昨夜同様、2時間に1度くらい目覚めて、さらには腰や背中の痺れや痛さ、身体を動かせば傷口の疼痛で、辛い。しかし、何とか頑張って7時20分には歩いてフロアを2周。

 ベッドに戻り寝転んでいると8時50分にY先生の回診。Y先生は月曜日午前中は外来を担当されているから、外来前の回診。

 「まあいいでしょう。ウリスロドレナージも止めましょう。」

 と言った。ウリスロドレナージとは抗生剤か?身体は辛くても少しでも回復に繋がっていくことは、励みになる。

 10時40分、今日の清拭は本日から実習に入って、私を担当する2名の看護学生。N高等看護学校の2年生でKさんとMさん。実習の練習台になるのは一向に構わないが、陰部の清拭などは自分でした。その後11時過ぎには2人一緒に部屋にやって来て、実習の一環として私のことをヒアリング。

 午後1時20分連れ合いがやってきた。暫くして、兄夫婦も見舞いにやってきた。兄は、病室に辿り着くまであちこちと経路に迷ったとのこと。

「何も悪いことしてへんのに、えらい目におおたわ。」

「昔は悪いことしてたから、罰が当たったんや。」

など、取り留めの無い話をしていたが、

「今は癌の手術いうても、昔で言う盲腸の手術みたいなもんや。」

とか言って、気持ちを休めてくれる。いろいろ話しているうちに、だんだんと痰が絡んでくるようになってきた。全身麻酔の呼吸管の挿管の後遺症に、飲まず食わずで体中、呼吸器系も乾燥し痰が硬くなって出にくく、自分で吐き出せない。1時間30分位いろんな話をして、兄夫婦は帰った。6時30分連れ合いも帰る。連れ合いが帰る少し前に、手術後始めてガスが少し出た。

やがて夜になってくると痰が絡んで大変になってきた。咳やえずきで猛烈に苦しい。喉の奥のほうに固い痰があり、出そうと思って咳をすると傷口に直接響いてきて、疼痛を通り越して激痛に近い。それでも傷口を両側から押さえて咳をし、痰を少しでも上に出そうとする。喉の奥に出てきて吐き出そうとすると、えずいて嘔吐反応でオエーッとなり、それがまた傷口に猛烈に響いてきて、その痛さで涙が出てくる。少しずつ痰の「カケラ」をティッシュペーパーで拭っていると、一晩で一箱以上ペーパーを使ってしまった。ペーパーをごみ入れに捨てるのに身体を反転する。これがまた痛い。術後3日目にして、猛烈な『痰との闘い』になってきた。

絶飲食5日目。本日歩き1,360歩(フロア2周2回+4周1回)

 

12月13日(火)

 6時30分目が覚める。

 8時40分にはT先生、Y先生が回診に来て、背中から挿管してある麻酔のチューブを抜く。麻酔のチューブを抜いても、「痛み」を別段感じるわけでも無かった。

 「痰がつらい。痰との闘いです。」

 と先生に言うと、吸入をしてみようとのこと。ただ、吸入をしたからといって痰が止まるとか、楽に吸出せるというわけではないとのこと。カチカチの痰が柔らかくなるので少し楽になるかと言うことらしい。

 10時過ぎには同室のK氏が結腸癌の手術をおえ、一晩の回復室から歩いて病室に戻ってきた。辛いだろうと気を遣い、話しかけることは無かった。やがて奥さんがやってきた。

10時30分頃看護師さんが実習生とともにやってきて清拭。本日をもって尿の管も抜管した。これからはおしっこもトイレで出来る。すっきりとして気持ちが晴れ晴れとした。まだ膵液を出すチューブと点滴はつけたままだが、それでも少しずつの回復の幸せ感が膨らんでくる。

清拭が終わると再び実習生が2人でやって来て、本日もヒアリング。本日のヒアリングは、課題が課せられているのか、緊張している様子で一生懸命だが空回りして、通り一遍のことしか聞けてない。私のほうから、山や家族のこと、遍路のこと、自分の脳動脈瘤クリッピング手術から最近の社会保障や若者の雇用状況の話、私のブログの話などしてあげた。

 午後2時過ぎに連れ合いが来る。抜管もして少し気が晴れたこと、実習生とのヒアリングで冗談も入れていろんな話をしてあげたことなどを話ながら、手術前の緊張や自分のこれからの残された人生への「立ち向かい」のことなど、自覚はしてなかったけれどずっしりと気持ちの上にのしかかっていた鉛のような「重し」から、少しずつ開放されてきているのかな、と、ふと思った。

 5時前に吸入。6時に連れ合い帰る。9時前に2度目の吸入。

 吸入のおかげか、夜中の痰は少し楽になってきた。しかし、吐き出すことが出来ない。相変わらず、一生懸命口まで吸い上げようとするが、嘔吐反応でオエーッとなり、そのときには傷口が痛い。この夜も、一晩でティッシュペーパー1箱以上が空になった。

 絶飲食6日目。本日歩き1,530歩(2周×1、3周×1、4周×1)

 

 12月14日(水)

 朝6時35分目覚める。

 本日も8時40分にはT先生、Y先生の回診。痰のことを聞かれて、少しは楽になったが、どうしても吸い上げられないことなど話す。

 午前11時過ぎに、本日年休の長女Mが着替え等の荷物を届けに来て、直ぐに出て行く。

 午後2時半、連れ合いとMが一緒に病室へやってくる。3時過ぎに吸入。4時35分孫の迎えやらでMが先に帰る。5時過ぎには連れ合いも帰る。8時に吸入。

 夜、大分楽になってきた。今晩は痰が絡まず、夜中に目覚めることも無くよく寝られた。

 絶飲食7日目。本日歩き2,040歩。(3周×4)

 

 12月15日(木)

 朝6時30分目が覚める。40分にトイレに行き、頑張ったら、手術後初めて少しだけ大便が出た。先生や看護師さんからしょっちゅう『出たか、出たか』と聞かれており、少し安心。腸が機能している証となるのだろう。

10時25分清拭。11時過ぎ吸入。本日は連れ合いは来れないとのこと。気が抜けたようで少し寂しいが、子供でもないし、致し方ない。

同室のN氏が、午後に退院した。鼠径ヘルニアで手術はそんなに大きな手術ではなかったようだ。午後3時吸入。9時35分にも吸入。その後トイレに行ったが、本日2度目の大便が出た。殆ど液状の中に、塊がポツポツと。絶飲食なのに何なんだろう。本日の夜中は、痰のほうは少し楽になってきた。水分が飲めるようになると、多分、痰のほうも楽になるのだろうと思う。

絶飲食8日目。本日歩き2,720歩。(2周×1、4周×2、6周×1)

 

 12月16日(金)

 朝7時に目覚める。本日で手術から1週間。手術前の何ともいえぬ緊張感や自分の残された人生への閉塞した思い込みから、少しずつ気持ちがリラックスしてきて、余裕が出てきているような感じがする。

 8時過ぎにトイレに行き少し頑張ると大便が出た。やはり少しの固形物混じりの水様便。8時40分T先生回診後、56分Y先生の回診。Y先生の口癖の

 「まあ、いいでしょう。」

の後、今日は水を1日500ml飲んで良いという許可が出て、Nクリニックで貰っていた高血圧等の薬の再開も許可となった。更には、手術の腹部切開部の上部を跋鈎することとなった。跋鈎はチクチクする程度で痛くも無いし、たとえ上半分とはいえ、むしろ気持ちが軽くなり『快感』でさえある。

早速売店に行き、ポカリスエットを仕入れてきて、一口『恐る恐る』飲んでみた。『美味い!!』至福の味だ。何ともいえない。これで痰との戦いも終息する・・・。この調子なら、まもなく外出許可か、と期待する。同室のK氏は術後1週間たたずに本日跋鈎をした。水、重湯も昨日から摂っていて、私は少し焦ってはいたが何とか追いついた。やはり腸の手術のほうが、胃と比べて多少回復が早いのか。

午後12時40分連れ合いが来る。水がOKになったこと、上半分を跋鈎したことなどを話す。2時10分本日の歩きはフロア10周だ。3時吸入。吸入の後、手術後初めてのシャンプーを看護師さんにしてもらった。今日は4時15分、孫の迎えとかで、早めに連れ合いは帰った。

10時20分就寝。痰のほうは随分楽になったが、まだ引っかかってくる。

絶飲は9日で解禁。引続き絶食9日目。本日歩き5,100歩。(10周×3)

 

 12月17日(土)

 朝6時35分目覚める。

 8時45分、病棟の当直の先生の回診があり、切開部の下半分の跋鈎をしてくれた。8時45分Y先生が回診。傷口を見たり胃腸を触診して、

 「いいでしょう。今日の昼から食事も摂って良いです。」

 とのこと。いよいよ食事だ。回復に向かっていることを実感し、気持ちが軽くなる。これからの残された人生の重苦しさをひと時忘れる思いだ。たかだか重湯という『食べ物』に期待一杯だ。

 10時半頃吸入。45分実習生による清拭。

 午後12時15分アナウンスが流され、昼食の用意できたとのことで、談話ホールへ行く。私は自分の食事を貰ってテーブルに座り、手術後初めての食事を術後8日目に、術前の絶食日を入れると9日ぶりにいよいよ口にするのである。向かい側に座っているK氏は5分粥である。しかもおかずも3品付いている。羨ましいやら、自分のほうが回復が遅いのが悔しいやらの思いだが、私はおかずも無い重湯100gの一口目をスプーンですくって、口へ持って行った。そして恐る恐る飲み込んだ。

 「美味い!!」

 少し悲しいけど、本当に100gの重湯が美味かった。昨日のポカリスエットも美味かったが、この重湯はもっと違った美味さである。命の継続を実感させる美味さである。よく味わって昼食の重湯100gを頂いた。

 1時20分連れ合い来る。2時に兄も来て、釧路にいる3女の話などをしていると、2時15分には長女も本日午後休みとのことで見舞いにやってきた。千客万来の様子。2時45分に兄が帰る。3時20分には間食の重湯100gが出された。胃を3分の2切り取っているので1回あたりの食事量が少なく、その分回数を分けて食べることになる。当分1日6分食だ。間食の間連れ合いとMはコーヒーを飲みに行った。

 本日から、昨日までの生命の水であった点滴が1日2本に減ることになった。夕方には点滴を一旦外すことになった。点滴の針は刺したままだがチューブを外し、動くのにスタンドをゴロゴロ押していかなくても良くなった。また少し気が晴れた。

 6時15分夕食で、談話ホールで重湯100gを連れ合いの『看視』のもとに頂いた。7時連れ合い帰る。7時35分吸入、間食でジュースが出た。痰はすっかり楽になってきたので、明日からは吸入を止めようと思う。10時30分就寝。

 絶食は10日で解禁。本日歩き6,460歩。(8周×1、10周×3)

 

 12月18日(日)

 本日63回目の誕生日。予期しなかったシチュエーションだ。こんな日に自分の残された人生を思わなければならなくなってしまった。

 朝6時35分目覚める。7時35分には放送があって朝食を談話ロビーに食べに行く。朝食といっても重湯100gなのだが、それでも待ち遠しくて、嬉しい。9時5分に清拭。15分には当直の先生の回診があった。その後売店にポカリスエットを買いにいく。

11時25分に20分ウォーク。今日からは、何週というより20分歩きを1本とすることとした。

「よく歩くように、運動するように。そうすれば血行が良くなり、傷の回復も早くなる。」

と言う先生の指示を、忠実に守っている。

午後12時15分に昼ごはんの準備が出来たとの放送。談話ロビーに行くと重湯が卒業で、3部粥220gになっていた。しかもおかず付き。至福の幸せだ。私より3日遅く手術した同室のKさんは、胃は何とも無かったためすでに5分粥で少し羨ましいが、それでも粥とはいえ米粒を食べられることがなんと幸せなことかとつくづく実感した。

 2時50分には間食で、本日からはコーンスープ味の高カロリー飲料。3時に2回目の20分ウォーク。4時10分には連れ合いが来る。今日から3部粥になったこと、美味しくて全部食べたことなど話す。6時5分に夕食の準備が出来たとの放送で、連れ合いと一緒に談話ロビーに行く。3分粥220gとおかずを連れ合いに見せた。

 7時に連れ合いが帰る。8時の間食は、昨日までのジュースにベビー用の衛生ボーロが付いた。10時30分就寝。

 本日歩き5,950歩。(13周、12周、10周各1回)

 

 12月19日(月)

 朝6時30分目覚める。7時30分朝食。3分粥220gとおかず。8時55分Y先生回診。傷跡を見て、腹部を触診、膵液を出すチューブの先のガーゼを診て、

 「まあいいでしょう。」

 とのこと。昨夜から、北朝鮮の金正日が17日に死去したとのニュースが流れてきている。どうなることやら。テレビはそのことばかり報道している。限られた情報で止むを得ない事もあるだろうが、同じ画面と解説ばかりがすべての放送局から流れてくる。

 10時20分清拭。40分間食で本日はプレーンヨーグルト。50分には20分ウォーク。11時15分に実習生がシャンプーをしてくれた。ちょっとぎこちなくて、あまり快適になったとは言いがたい。

 午後12時5分昼食。相変わらず3分粥220gおかず付き。1時45分連れ合いがやってくる。3時間食で、昨日と同じコーンスープ味の高カロリー飲料。4時10分に、本日は孫を学童保育に迎えに行くとのことで連れ合いが帰る。明日は来られないとのこと。4時30分20分ウォーク。その後職場に電話する。全身麻酔の挿管の後遺症で声がガラガラで出にくい。職場のW、K、S課長と仕事のことやら病気の経過について話す。Wが『Yが見舞いに行くと言っている』とのことだが、

 「だめ。来るな。」

 と返す。その後売店に行ってポカリスエットを買う。

 6時10分夕食。3分粥220gとおかず1品。最近はK氏と一緒に食べて、家族のことやら仕事のことやら話している。しかしプライバシーにはお互い深くは立ち入らない思いで、会社名やらそんなことは話していない。

 7時45分、20分ウォーク。8時10分間食。本日はベビークッキーとアップルジュース。夜9時過ぎにT先生が回診にやって来て、

 「○○ちゃん、どうや?」

 「先生。頑張っています。毎日かなり歩いてますし、昨日からは20分ウォークを始め、これから1日に何本かやろうと思っています。今日は約10,000歩。食欲もあってご飯も残さず食べられています。」

 「ご飯全部食べてるの? 全部食べんでいいよ。無理して食べて手術瘡の接合不全になったら元も子もないよ。残したらいい。その替わり溶けるもんなら食べえもいい。アイスクリームやチョコレート、飴もちゃんと口の中で溶けるまで舐めてたらかめへんよ。もうちょっと辛抱し。」

 とのこと。わたしは早い回復を目指して頑張っており、身体も動かし、栄養も摂って、褒めてもらおうと思っていったのに、何たることだ。心の中で『先生。もっと早よ言うてえな。』とつぶやいた。

テレビはどこを見ても、金太郎飴のように、同じ企画と内容・解説の金正日死去や後継者は誰か、北朝鮮の今後などの特番の洪水。日本のマスコミの底の浅さをつくづく嘆きつつ、しかし自分の残された人生の空しさを考えたら、かなり覚めた目でそれを見ていて、結局就寝は11時。

 本日歩き9,180歩。(12周、13周、14周、15周各1回)

 

 12月20日(火)

 朝6時40分目覚める。7時に看護師さんがやって来て採血。7時25分に朝食。本日も3分粥220gとおかず1品。昨夜T先生に全部食べたら駄目と言われ、朝のお粥は7割程度食べて、3割程度は残した。朝食時K氏と話す。

 「昨夜、T先生に『食事は全部食べたらあかん。縫合不良を起こしたら元も子もない。』と言われました。」

 「僕は腸の手術のせいか、全く言われません。やはり胃の手術は大変なんですね。」

 「それにしても、もう少し早く言ってもらわないと、こちらは栄養を充分摂らないといけないと思っていたもんですから。」

 とやりとり。K氏は、本日から5分粥から普通食になっている。また『回復の差』を付けられた。

 8時40分、Y先生の回診。腹部触診のあと膵液ドレーンの先を見て、

 「まあ、いいでしょう。もう大丈夫だからチューブを外しましょう。」

 と言って膵液ドレーンを抜いた。お腹の中のほうのどこか内臓や筋肉に触れながら、ヌルッといった感じで、体内から抜けていった。そして17日から1日2本に減っていた点滴も終わりとなり、点滴針を抜き、手術前日の8日以来13日ぶりに体中からドレーンやチューブが外され、フリーの身体になった。爽快な開放感。

 「今日からシャワーも入っていいですよ。」

 「傷はお湯がかかっても大丈夫ですか。?」

 「暫くは擦らないようにしてください。お湯がかかるのは大丈夫です。」

 「先生。ところで昨夜T先生に食事は全部食べないほうが良い、と言われました。」

 「まあ、あまりお腹一杯は食べないほうが良いでしょう。手術後だから。もう少し辛抱してください。」

 と言われる。しかし、開放感に気持ちも軽くなって、9時45分には売店まで買い物に出かけ、金正日関係の記事が満載の新聞とポカリスエットを買ってきた。

 10時丁度に間食のカスタードプリン。11時15分に20分ウォーク。

 午後12時に昼食。昼食からは5分粥になった。5分粥220gとおかず3品。お粥は少し残しておく。

1時ごろ少し午睡。暫くするとシーツ交換のために起こされて、その間20分ウォーク。3時には手術後初めてのシャワーを浴びた。手術の前日のシャワー以来で、手術以降は清拭ばかりだったのだが、陰部などもきれいに洗い流してすっきりした。もっとも腹部の手術瘡にはまだテープが張られたままだ。シャワー後3時30分に間食で、いつものようにコーンスープ味の高カロリー飲料。5時20分に3本目の20分ウォーク。そのまま売店に行き、ポカリスエットとチョコレートを買う。

 6時50分夕食。5分粥220g。7時35分4本目の20分ウォーク。8時には夜の間食で『赤ちゃんえびせん』とアップルジュース。これからの人生に重たい思いを抱きながらも、着実な回復に少し気持ちが晴れた一日で、今日は話すことが沢山あったのに、連れ合いは用事で来られなかった。

 相変わらず、金正日や後継者やと同じ画面と解説を繰り返すテレビに辟易としながら、11時就寝。

 本日歩き10,260歩。(16周×3回)

 

 12月21日(水)

 朝6時30分に看護師さんに起こされて目が覚め、そのまま採血。7時40分朝食5分粥220g。8時40分に当直の先生の回診で、経過良好とのことで服帯を外す。50分にはY先生の回診で、手術瘡を見て腹部触診し、

 「まあいいでしょう。」

 とのこと。

 9時5分に20分ウォーク。40分に売店にポカリスエットを買いに行く。10時10分朝の間食でプレーンヨーグルト。本日は午前中にと思い、10時30分に予約したシャワーを浴びる。11時25分2本目の20分ウォーク。

 午後12時に昼食、5分粥220g。最近はK氏とよく話すが、大概はお互いの病気のことだが家族のことなども話すようになってきた。2時に連れ合いがやってきた。昨日から今日にかけての回復のことや、食事を抑えるように言われたこと、K氏の家族のことなど、結構溜まった話をする。3時30分に昼の間食で、いつものようにコーンスープ味の高カロリー飲料。4時に3本目の20分ウォーク。5時に連れ合いが帰った。身軽になった私は、連れ合いを送り、その足で売店に行きポカリスエットを買う。6時10分夕食。

 8時にY先生が回診にやってきた。

 「順調に回復してきてはいるんですが、血液検査でカリウムの値が高いのです。カリウムイオン値が高いと言うことは、致死性の不整脈が起きます。」

 カリウムの値が高いなどとは始めて言われることだし、いきなり致死性だなどと言われ、せっかく順調な回復に気をよくしているのに、気がめげてしまう。

 「カリウムの値が高いというのは、よくあるケースとしては腎機能が良くないときに出てきます。ただIさんの場合は腎機能は正常ですので、少し経過を見てみましょう。」

 「先生。手術の影響と言うことでしょうか。」

 「それはありません。とりあえず、カリウムイオンを下げるゼリーを摂ってください。普通は腎臓疾患の患者さんに服用していただく薬ですが、摂ってみてください。」

 と言われた。やれやれ、大したことはないと自分では思いつつも、入院が長引くのか。ひょっとすうと年内には退院できずに、病院で年を越さなければならないのか。

 夜の間食は衛生ボーロとアップルジュース。8時35分に4本目の20分ウォーク。

 本日の歩き10,880歩。(16周×4回)

 

 12月22日(木)

 朝6時30分に目覚める。7時30分朝食。今朝から食事は全粥220gになった。8時35分にY先生の回診。退院の時期も考えなければならないが、カリウムが高いのが少し気になるとのこと。今はいわゆる治療はしていないが、ゼリーの薬の効果がどうか見てみようと言うこと。

 9時10分に20分ウォーク。その後売店に買い物。ポカリスエットにはカリウムイオンが結構入っているので、ポカリはやめてミネラルウォーターにした。あとチョコレート。10時にシャワーを浴びて、朝の間食。本日はカスタードプリン。食間にカリウムイオンを下げるゼリー状の薬を摂る。大変まずい!忍耐忍耐。間食・服薬後ウォーキングシューズのこととポイント加算のことで好日山荘に電話をかける。11時15分に2本目の20分ウォーク。その後40分に連れ合いがやってきた。

 午後12時昼食。全粥220gで、やはり5分粥よりは食べ応えがある。しかし相変わらず7割程度だけ食べて、3割程度は残している。

 本日は2時から栄養指導。栄養士さんが胃癌の患者とその家族を対象に、退院後の食生活上の注意や実際の食事・メニュー、栄養摂取等について、分かりやすく指導してくれる。私と連れ合いを含め4家族が参加した。術後の食生活に起因するダンピング症候群の話も看護師さんからは聞いていたが、より詳しく説明が有った。連れ合いは細かくノートに取っていた。私が気をつけなければいけないと頭の中に残ったのは、胃は鉄分やビタミンB12を吸収する、その胃がなくなるので鉄欠乏症貧血が起こりやすいとか、体重減少に伴いカルシウムが少なくなり骨粗鬆症や圧迫骨折などのリスクも有るとか、アルコールは70%が胃で分解されるが、胃が無いので直接腸まで行ってしまい吸収されるので、少量のアルコールで酔ってしまう、危ないので自分のアルコール量が分かるまで外では飲まないようにとか、食べたものがストレートに腸に行くので、消化の悪いものや脂物を食べ過ぎると下痢が起こりやすい、胃が無いかもしくは小さくなっているので、一度に多くの物が食べられず、少量を分食すること、暫くは脂物や消化の悪いものは食べずに、野菜も菜っ葉部分を煮て食べることやら退院後2ヶ月過ぎればもとの食生活に戻っても良いといったことだった。もとの食生活に戻っても、よく噛んで食べること、一度に大量に食べないことなどは、ずっと続けなければならない。結構活発な質疑応答や、80歳のYさんのユーモア溢れたグルメの話や寿司の話など、病気の辛さや重たさを一時忘れるかのように、和気あいあいと栄養指導の話が進められ、3時40分に終了した。

 栄養指導が終わり病室に戻ると、兄が甥のMと一緒に待っていた。聞けば2時10分から来て待っていたとのこと。長い間待たせた侘びを言い、その後展望の良い15階の談話ロビーに行き、年末年始のことや家族のこと等をいろいろ話しした。4時30分に兄とMは帰る。

5時25分3本目の20分ウォーク。ウォーク後千里山のH姉宅に来ているT姉に電話して、私の病状を伝える。5時55分夕食、全粥220g。連れ合いは、退院後の食生活の参考にするので、食事のおかずをメモして写真に撮って置くようにとのこと。6時40分連れ合い帰る。8時30分夜の間食、ビスコ2包とアップルジュース。10時40分就寝。

本日歩き10,160歩。(16周×3回)

 

12月23日(金)

 本日クリスマスイブ前日で、花金と天皇誕生日の祭日が重なって世間では賑やかな様子だが、それとは関係も無く朝6時30分目覚める。7時30分朝食、全粥220gと、おかずは小松菜煮浸し。8時45分Y先生の回診時に外出はどうか尋ねたら、外出OKとのこと。

 胆嚢も切り取ってしまったせいか、昨日まで便が白かったり、白っぽかったりしていた。本日の朝の便は薄茶色。9時25分20分ウォーク。10時には間食でヨーグルト。間食の後シャワーを浴びる。その後売店に行きミネラルウォーターとチョコレートの買出し、そのあと2本目の20分間ウォーク。

 午後12時に昼食。この昼食から普通食になった。やっと「一人前」にご飯に戻った。手術前日の8日から実に16日振りのご飯だ。おかずはカニの身にキャベツの酢和え、南瓜煮、白身魚と人参・玉葱の煮たものでとにかく美味しかった。ただ量は相変わらずで、110gという寂しさ。それでも少し残しておく。

 1時20分に3本目の20分ウォーク。ウォークの途中で一週間前に虫垂炎で入院し即手術した中学3年生のKO君とすれ違う。手術が終わり家族もみんな帰った後の夜、しくしく泣いていた彼だが、今日の午後退院で晴れ晴れとしている。エレベーターの前で彼に話しかけた。

「今日退院やね。おめでとう。」

「はい。」

「どうや。終わってみれば盲腸なんてチョロイもんやったろう?」

「はい。チョロイもんやったです。おじさんも盲腸ですか?」

盲腸と言われてしまって、思わず苦笑。

「盲腸やったらええんやけど、胃を手術して、胃の3分の2を切り取ったんや。」

「へえ、そうですか。」

そんなやり取りの後、歩き終わってベッドの上に座っていると、甥のYが来てくれた。Yは技術者で機械の据付などの出張が多く、チームリーダをしており大変忙しい。

 「お世話になってる叔父ちゃんが大変な病気で手術と聞いて、なにをさて置いても来ました。」

 と言ってくれた。一通り病気のことや、早期癌でそんなに大事にはなっていない、とか話していたが、だんだんとYの仕事の話になり、あれやこれやと仕事上の不満をぶちまけていた。私はひたすら聞き役。

 3時にYが帰り、3時15分に間食の雑炊。3時40分に連れ合いと下の孫のTが来た。2・3日前に

持って来てもらった、Tの作った松ボックリのクリスマスツリーの礼を言う。5時30分には長女と上の孫のYが来る。6時10分に夕食。ご飯110gとおかずは人参・はるさめの卵とじ、蕪の煮たものの酢和え、味噌汁。これでも美味しい。食後少しして4本目の20分ウォーク。7時に皆揃って帰るの送る。送った後5本目の20分ウォーク。8時には夜の間食で、カステラとアップルジュース。10時50分就寝。

 本日歩き13,600歩。(16周×5回)

 

 12月24日(土)

 今日はクリスマスイブ。こんな気持ちと状態でクリスマスイブを迎えてしまった。「鬱なイブ」に人生の終わりに差し掛かってきたことをしみじみと実感する。

 朝6時30分、採血で看護師さんに起こされる。3日振りの採血で、カリウムの結果がどうなっているか気になる。7時30分朝食。朝食はパンと牛乳。朝食を食べながら同室のK氏と話す。K氏は退院が25日の日曜日に決まったとのこと。手術が3日私より後で、すでに退院が決まったとのこと。少し焦る思いが有る。K氏は手術後も順調に推移し、同じ進行癌といっても腸なので、食べるものも制限無しで食べている。私はカリウム値が高くなったりで、一体どうなることやらと思っている。ひょっとすると病院で越年ということになるのかなあ、とも思うときがある。K氏は退院後抗癌剤治療をするとのこと。最初の1クールはS病院の外来で来て治療し、後は癌を発見してくれたクリニックで継続するとのこと。抗癌剤治療の苦しさは私も経験者からも聞いており、K氏の今後の治療が旨くいくようにと励ますとともに、自分にも迫り来る厳しさのプレッシャーに、また少し「欝」になる。

 8時40分にT先生、Y先生の回診。本日午後4時に手術の結果説明と今後の治療・療養についてのインフォームド・コンセントがある。その確認をする。本日は連れ合いと娘たちも来ることを言う。

 9時40分1本目の20分ウォーク。午前の間食でカスタードプリン。10時30分シャワー。11時から売店に行き、続けて2本目の20分ウォーク。午後12時5分に昼食。ご飯110gに煮魚(鯛)、卵豆腐、ほうれん草お浸し、煮キャベツジャコ和えのおかず。昼食後軽く午睡する。

 13時40分3本目の20分間ウォーク。そのうち50分に次女のAがやって来て、少し待つように言うと、一緒に歩き始めた。14時連れ合い、14時15分長女Mが来る。30分S君が見舞いに来た。家族以外の見舞いはお断りしてきたが、以前大原の大尾山に一緒にハイキングに行ったりした縁もあり、『世話になったので是非見舞いに』と次女を通じて言って来て、半ば『押しかけ』を了解したようなもの。今日は伊丹でクリスマスコンサートがあり、次女と一緒に行くのでその前にお見舞いとのこと。S君には進路のことやら話し、手術跡の傷を見せた。50分にコンサートへ行くとのことで帰る。

 16時丁度にナースステーション奥でY先生から、手術の結果と今後についての説明。少し緊張する。転移がどうだったのか、抗癌剤治療についての説明はどうか、多分無いだろうけれど『余命○○年』と言われないだろうか、これからの自分の闘病生活は、仕事は、執筆は等々の懸念が気持ちに覆ってくる。

 「Iさんのお腹を開いてみたら、内臓の癒着がひどく大変でした。何回も手術をしている人の内臓のようで、剥がすのに2・3時間かかり、12時ごろには手術が終わると思っていましたが、16時過ぎまでかかりました。」

 「癒着は剥がさないといけないのですか?」

 「そのままだと、胃の下部を切除しますが、残った上部と腸が繋がりません。また、通過障害や腸閉塞を誘発しやすくなります。」

 「剥がすのは、手で剥がすのですか?」

 しょうもないことを聞いてしまった。何しろ気持ちは浮ついている。

 「電気メスで剥がします。」

 Y先生はいつものように紙の上に絵を書き出して、

 「肝心の手術のほうですが、胃の下部、全体の3分の2を切りました。それと胆嚢を切除し胃の回りのリンパ節もきれいに切り取りました。結果ですが、リンパ節には転移はありませんでした。胃のほうですが、癌細胞はスキルス癌です。胃壁は5層になっているのですが、Iさんの場合一番上の層だけに癌が留まっていて、中まで侵行していませんでした。ステージで言うと8段階のⅠaです。」

 その辺まで言われているとT先生がふらっとやって来て、

 「○○ちゃん、良かったね。内臓がえらい癒着していて、手術は大変やったわ。それでも早期で本当に良かった。よく見つけてくれたN先生にお礼言うときや。」

 「はい。先生も本当にありがとうございました。」

 少し間をおいてY先生の説明が続いた。

 「今後についてですが、ステージⅢ以上は抗癌剤治療をすることになっています。Iさんの場合はⅠaですので、抗癌剤治療はしません。今後は定期的な検査をしてください。年に2回のCTと血液検査、1回の胃カメラをしてください。S病院はもう来なくて結構ですので、N先生のほうで見てもらうようにしてください。今回はタイミングが良かったし、N先生はよく早期癌を見つけてくれたと思います。来年の胃カメラまで見つかっていなかったら、状況はどうなっていたか分かりません。」

 家族もいろいろと聞いてY先生とのやり取りを聞いているうちに、だんだんと『いい結果』だったのかなあ、と言う実感が湧いてきた。何も悪いことをしていないのに胃を切られ、仕事や執筆、資格試験の欠席等沢山のストレスを抱えて、何よりも痛くて苦しい目に会い、厳しい経験の帰結が『良かった』でいいんだろうか。とにかくこの状況は受け入れざるをえない。

 「と言うことで、Iさん。退院をして良いですが、いつ退院しますか。」

 「ああ、できるなら明日お願いできますか?」

 「今日言って明日はできないです。」

 「そうですか。それではあさっての26日にお願いできますか。」

 「いいでしょう。ただ、癌のほうの治療はこれで終わりですが、血液検査の結果が気になりますので、年明け1月9日の月曜日に診察に来てください。」

 「分かりました。」

 1月9日は成人の日で祝日だが、S病院は祝日でも午前中診察がある。

退院が26日に決まった。しかも癌そのものの治療は順調だ。ふと、抗癌剤治療に向かうK氏のことが頭をよぎった。

本日はクリスマスイブでホームパーティの日。4時50分に長女が帰り、5時にAは伊丹のクリスマスコンサートへと、25分には連れ合いも帰った。皆それぞれにホッとしたような感じだった。5時35分、本日4本目の20分ウォーク。6時に夕食。K氏と一緒に食べる。私のおかずは、はんぺんとキャベツを煮たもの、卵豆腐のあんかけ、デザートに寒天ゼリー。K氏は豪華で、クリスマス特別料理かタンドリーチキン照り焼き他3品、デザートはロールケーキ付き。K氏の明日の退院を祝い、私も明後日の26日に退院と言った。ただ、私は抗癌剤治療をしなくて良いということは、言えなかった。

8時5分、5本目の20分ウォーク。30分に夜食でバナナ。

本日歩き13,600歩。(16周×5回)

 

12月25日(日)

朝6時20分検温で看護師さんに起こされる。7時30分に朝食。パンと牛乳。K氏と話す。退院後の仕事や家族のこと等々。この間いろんなことを話したが、ついに最後までお互いの身分は明かさなかった。8時には病室で校正。9時15分Y先生の回診。いつものように、

「いいですね。」

「ありがとうございます。」

9時20分に20分ウォークの後、トイレと売店へ。11時15分にはT先生が回診。今日はクリスマスの日曜日というのに、T先生もY先生も本当に患者のために熱心で、頭が下がる思い。

「○○ちゃん、いよいよやね。大丈夫や、ちゃんと仕事に復帰できるからな。」

と、激励してくれた。その後本日2回目の20分ウォーク。午後12時10分昼食。御飯110gにおかずは高野豆腐煮、玉葱人参煮、大根田楽味噌、ポテトサラダ。昼食後少し午睡をとる。

1時10分に連れ合いが来る。今日は、入院以来最初で最後の外出で、年明け後職場復帰する際に使うウォーキングシューズを、駅前第3ビルにある好日山荘に連れ合いと一緒に買いに行く予定になっている。私は以前から通勤時に阪急西院駅から職場までの4キロメートルを往復8キロメートル

歩いている。自宅界隈や職場での移動等で毎日10キロメートルは歩いており、2年間以上履き続けた今の美津濃のウォーキングシューズは、大分疲れている。退院と新年を機に履き替えようと思った。

 久しぶりに梅田の雑踏を歩くと、頭がクラクラする感じ。連れ合いが、風邪をひかぬようにと病院においてある服の全てを着込んで、その上マスクして身体が火照ってくるようで大変だった。好日山荘で、あれやこれやと見比べ履き比べして、結局登山靴メーカーのウォーキングシューズを買った。好日山荘からの帰りには大丸地下に立ち寄りお菓子を買う。看護師さんたちへの差し入れ。それにしても久しぶりに街へ出ると無性にコーヒーが飲みたくなったが、未だ禁止なので我慢。

 3時15分に病院に戻り25分に昼の間食で雑炊。久しぶりの街の空気を吸ってきた後のせいか、美味しかった。5時20分に3回目の20分ウォーク。後、携帯に先輩のGさんからメールが入っていた。見舞いに行くつもりだが何時が良いか、とのこと。「お心遣いはありがたいですが、明日退院です。」と返信を入れておいた。

 6時5分夕食。御飯110g、煮卵豆腐、煮白身魚、青菜お浸し、柿を煮たものがおかず。7時に連れ合いが帰る。8時10分夜食はスポンジケーキとアップルジュース。

 本日歩き13,972歩。(16周×3+外出での歩き)

 

 12月26日(月)退院

 いよいよ退院の日。朝6時20分検温で起こされる。7時35分にパンの朝食。8時45分に病棟の先生の回診後、50分にはT先生、Y先生が回診。T先生、

 「いよいよ退院やね。良かったね。癌を見つけてくれたN先生には礼をいっときや。」

Y先生、

「良かったですね。カリウムが高いのが気になりますが、様子を見ましょう。とりあえず1月9日には来てください。」

私は、2人の先生に丁重に礼を言い、日夜を問わず患者の立場に立って医療現場で頑張っておられる姿勢に、心の中で尊敬した。

9時35分と11時35分に最後の20分ウォーク。午後12時に最後の昼食。退院だけれど相変わらずボリュームのない110gの御飯と、おかずは肉の変わりにマグロの入った「マグロじゃが」、青菜ジャコ和え、桃の煮たもの。食後退院準備で荷物を整理し、ほぼ終わったところで連れ合いが来た。退院の荷物整理でいろいろと世話を焼いてくれる。連れ合いもホッとしたというか、安心したというか嬉しそうな雰囲気で、話しかけてくる。

2時20分にT先生Y先生それに担当の看護師Mさんには会えなかったがナースステーションで挨拶をし、エレベーターに乗って、北棟8階801号室を後にした。

 

病院を出て家に帰る途中、3時過ぎに茶屋町改札前のベーカリーで昼の間食、チーズパンを食べた。連れ合いの飲んでいたコーヒーを少し、それも水に薄めて飲んだ。それでもその美味しさは何とも言えないほどだった。

 

4時10分20日ぶりに家に帰る。入院の荷物を片付けたりスリッパを洗ったりする。孫たちもそれとなく嬉しそう。6時30分連れ合いの心のこもった夕食。8時30分には、夜食でカロリーメイト。

さあ、これから体力を回復し、社会復帰だ。シャットアウトしていた仕事もいち早く追いつき、リードしていかなければならない。“再出発”の決心が沸々と沸いてき