【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

1. 脳動脈瘤発見。そしてインフォームド・コンセントまで

2020-02-09 23:07:47 | 楽しく元気に『闘病』日記
-脳動脈瘤発見!!-
  私の父、市太郎は一九六一年の五四歳のときに脳卒中を起こした。その後一九六七年の六十歳のときに三回目の脳卒中の発作を起し、死亡している。当時のこと は定かではないのだが、周りの人の話によると『突然発作を起こして倒れた』ということである。ずっとかなりの高血圧であったこともあり、くも膜下出血では なかったかと思う。 
 私の兄は、一九八二年の四二歳の時にくも膜下出血を起こした。自分が社長をするダンボール製造加工会社で仕事が終わってすぐ に「頭が割れるように痛い」と言い出し、軽い嘔吐をした。すぐに帰宅し、その後四~五日の間仕事を休み、かかりつけの医院に通った。医師から、国立大阪循環器病センターを紹介してもらい、そこで受診し検査の結果『脳動脈に奇形がある』ことが判明、開頭手術を受け、くも膜下出血の処置と奇形部分の切除とクリッピング手術を受けた。幸い、くも膜下出血はごく軽度であり、後遺症は残らなかった。兄は二〇〇二年にも軽い脳内出血を起し、甥の奔走で大阪の富永病院へ行き、そこで最先端の医療を受け、アンギオの結果、小さくない脳動脈瘤が発見された。再びの開頭手術でクリッピング手術を受けることとなったのである。現在、アフターケアの検査などはしていないが、元気にしている。

 二〇〇六年現在の私も五十七歳で「危険年齢」をすでに迎え、遺伝的な危険因子も気にもなっており、高血圧症で日頃受診しているNクリニックの院長に相談した。そして脳外科などの最先端医療をしており、兄も脳外科手術を受けたT病院で受診すべく、紹介状を書いてもらった。
 
 二〇〇六年一月二十日(金)
 パートナー同行の上、初めてT病院で受診。朝九時に病院に着いて診察を申込み、四診で受診し、状況を説明しMRI検査をすることとなった。MRI検査待合の二階へ行くと多くの人が検査を待っていた。検査は午後一時三十分頃開始というので、待つ間病院近くの定食屋さんで食事をし、その後喫茶店でコーヒを飲んだ。 ただ、T病院のMRI室や診察室、救急処置室や脳外科手術のライブをモニターで放映している緊張溢れる雰囲気が何とも言えない緊張感となってはなれず、どんな結果が出るかの不安が結構気持ちを圧迫してきて、まったくくつろぐ気分にはなれなかった。
 病院に戻り、MRI検査の待合では、最先端を行く脳外科手術や脳腫瘍摘出の手術をライブで中継している。病院のポリシーとして『手術室を密室にしない』『手術の技術に対する絶対的な自信である』旨の説明が書かれてある。
  MRI検査は初めてなので少し緊張していた。やがてMRI検査が始まった。狭い機械の中に頭部が入っていき、『ガリガリ』『ガガガガ』などのかなり強烈な音が周りからする。緊張のうちにMRI検査が済むと、再び1階の診察室前で待つように指示を受ける。今度は一診で受診とのことで待っていた。
  やがて名前が呼ばれた。担当医はI医師という。毛髪は茶髪にしておりベテランではあるのだろうが、若くも見える。後日看護師さんに「I先生は何歳?」と聞くと、「年齢不詳です」とのこと。MRIの写真を乾先生が説明してくれる。「二箇所に比較的大きい脳動脈瘤らしきものがあります。」といわれた。I先生から今後の治療法の説明があり、結果手術をするのが良いという。I先生は「いつ脳動脈瘤が破裂するかわからない」というし、脳外科の看護師であったパートナー は「早くアンギオをしなさい」という。
 私は、今は自覚症状や不自由もなにも無く、健康に過ごしているのに、『なぜだ!』という絶望感・不安感に襲われる。近々絶対に休むことのできない出張もありそれが終わってからということで、深い意味も無く「一月二十七日にアンギオをお願いします」と言ってしまった。本当は嫌で嫌で仕方が無かったのだが、周りからせきたてられてのなりゆきである。I先生は「そうですか。それでは入院の予約をしましょう」といって、看護師さんに指示している。私はさっさと機械的に進められていく自分の運命に、だんだんと目の前が暗くなってきた。手術の前に、脳動脈瘤の部位や大きさを確認するために、アンギオの検査をするとのこと。この検査は、右足の付け根の動脈から、カテーテルを頸部まで挿入し、造影剤を注入して脳動脈の血管造影撮影を行う検査である。動脈からカテーテルを入れるため、検査後に止血等のため安静が必要で、入院の検査となる。検査入院日を一月二十七日(金)に予約 し、本日は診察を終え帰宅した。

 
-いよいよ、アンギオの検査。果たしてどうなるか、大変不安-

 二〇〇六年一月二十七日(金)
 
 朝、近所のTクリニックで腰痛のリハビリ治療を受けた後、十時にパートナーとともに出発。十一時にT病院着。検査入院の受付を済ませて、八階のナースセンターに行くように指示を受ける。八階の病室に案内されて、検査衣、ティージ帯に着替えた。やがて、点滴を入れられ、剃毛をされていくうちに、いよいよアンギオの検査が現実のものとなって迫ってきて、緊張が高まってくる。
 前回のMRIでは「2箇所で脳動脈瘤の疑いが高い」ということである。Nクリニックへ送られてきた診断書にも『多発性脳動脈瘤の疑い』とは書かれてはあるが、まだ『確定』というわけではない。本音のところでは、アンギオの検査はもう逃れられないけれど、結果として『手術をしなくても大丈夫です』という診断になるように、願っていた。
 パートナーが食事に出ている間に、あれこれと思いが巡ってきた。 十四時三十分、ストレッチャーに乗せられて検査室に移動。パートナーもついてきたが検査室の中待合で待機。私は検査室に入り検査台に移る。検査台には頭部が動かないように固定枕があり、そこに頭部をはめ込む。外来の診察を終えた乾先生がやってきて、いよいよ検査が始まった。

 「少しチクッと痛むよ」

 といいながら、最初に右足の付け根に局所麻酔が二~三箇所注射される。少し痛むが、たいしたことはない。麻酔の後すぐにその部位から動脈にカテーテルが入れられが、それも痛いというほどでは無い。カテーテルは頸部の動脈まで挿入されるのだが、何も感覚が無く、痛みや苦痛もない。
 カテーテルを挿入してから、「右のほうに薬を入れますよ」といわれ、ポンプのような音がして一瞬右頭部や耳がボアーッと火照るような感じがした。造影剤が注入されてレントゲン写真を撮ったのだろうが、余り気分の良いものではなかった。次に左頭部、もう一度右頭部を撮り、最後に頭部全体を撮影し、その都度造影剤を注入した部位が熱く火照った。
  アンギオ検査は二十~二十五分くらいで終わり、カテーテルの挿入部位を止血し、重し(砂袋)を乗せて、病室へと戻った。暫くは止血のため安静で、ベッド上から動いてはいけないとのこと。         


-インフォームド・コンセント-
アンギオ検査の後、止血のため病室で安静にしていた。トイレにも行けず、点滴を続けているため小用が近く、ベッドの上での用足しとなりパートナーに手間をかけた。さすがに看護師であり、手馴れたもので随分と助かった。
 午後七時過ぎに担当のI先生の回診があり、アンギオの後の止血は順調であり、検査結果等について説明するとのことで、パートナーと一緒にカンファレンス ルームへと行った。検査の結果は、二箇所あった脳動脈瘤の疑いのうち、一個所は動脈が巻いているだけで問題は無いが、もう一個所は7mm程度の脳動脈瘤ができているとのこと。病名としては「右末梢性前頭葉動脈瘤。」

 「この大きさであることと、遺伝の危険因子を考えると、一年で2%ぐらいの動脈瘤破裂の危険性があると考えられます。一年で2といっても十年になると20%のくも膜下出血の危険性があるということです。」
 「治療をするとすれば、血管内治療で動脈瘤にコイルを埋め込むのは、瘤の形から難しい。開頭手術による、顕微鏡下でのクリッピング術になるでしょう。」「治療をして手術そのもののリスクは0.1%~0.2%のアクシデント的な危険性がある。手術による後遺症のリスクも3~5%あります。左半身の運動. 感覚マヒや、前頭葉障害としての記憶障害や性格が変わること、ろれつが回りにくくなること、若年性の認知性、脳の痙攣等が発症することがあります。合併症や感染症の危険もありますし、術後出血や術後てんかんのリスクもあります。動脈瘤に癒着した細い動脈や、動脈瘤そのものに細い動脈が繋がっていたら、万全の処置を施しますが、それでも瘤をクリッピングするときに細い動脈にダメージを与え、脳に何らかのダメージが残る場合があります。その他、脳動脈瘤起因の 脳梗塞、新生脳動脈瘤も危険性は残ります。」

  そのようなインフォームド・コンセントが延々一時間以上あり、最初はメモにとっていたが、だんだんと気力が無くなってきた。『何でやねん』『何も悪いことしてないやないか』『そんなリスクをおかしてまで手術せんでもええやないか』『破裂したらそのときのことや』などと心の中で叫んでも、開頭手術に向かって インフォームド・コンセントと回りの事態の流れはどんどんと進んでいく。

   「手術をお願いします。」

   そう言わざるを得ないような『成り行き』であった。パートナーも、一生懸命メモを取っており、開頭手術に納得の様子である。インフォームド・コンセントの後午後九時ごろにパートナーは帰っていった。                

2.いよいよ開頭手術

2020-02-09 23:03:53 | 楽しく元気に『闘病』日記
-アンギオの検査の後、脳動脈瘤の手術の決断。そして手術の承諾へと、事態はどんどん進む。不安もたかまるが、どうとでもなれと言う気持ちにもなってきた。-
 二〇〇六年一月二十八日(土)
  朝から心臓のエコー検査と、フォルダー心電計による二十四時間の心電図検査を受ける。心臓のエコー検査では心臓の弁の動きがモニターで見える。一生懸命に働いている自分の心臓や弁の鼓動に、愛おしさが沸いてくる。フォルダー心電計装着のためもう一日検査入院の延長となった。心臓検査のあと、外来に降りて、次回の診察予約は二月十七日の十二時となった。この診察日に、正式に手術の承諾と決定を行うこととなる。
 この日は午後三時三十分頃にパートナーが見舞いに来た。いろいろと話し、夕食をとって暫くすると午後七時ごろに、三女のEが見舞いに来た。暫く三人で話したあと、パートナーとEは帰っていった。
 
 二〇〇六年一月二十九日(日)
  朝八時に朝食。その後看護師さんにフォルダー心電計を取り外してもらい、『自由の身』となって、九時三十分に検査入院は終了し、退院となった。
 二〇〇六年二月十七日(金)
 この間の診察や検査、インフォームド・コンセントを受けて、本日のI先生の診察で手術日の決定等を行うことになっている。アンギオで入院の際に『手術を三月二日にお願いしたい』といっており、了承されていた。しかし、後でいろんなことを考えているうちに実は三月二日は『仏滅』であることが分かった。私は、そのようなことに対しては全く信用もしておらず、気にもしない性格である。だが、今回はさんざん手術のリスクや後遺症などのインフォームド・コンセントを聞いており、さすがにパートナーとも相談し、手術日を変えてもらおうと思った。最先端医療を実践する病院で、そんな理由で手術日を変えて欲しいといったら、一喝されるだろうなと思いながら、理由を聞かれたらそのときは『どうにもならない仕事が、急に入った』と言い訳しようと考えていた。
 そんなことを考えながら、午前十時に家を出発した。十一時にT病院着。受付を済ませ、I先生の診察がある一診の前で待っていると、やがて名前が呼ばれた。
 「どうですか。手術をするかどうかはイソじいさんが決めてください。決断は着きましたか。」
「はい。手術をしていただくことにしました。ただ、手術日ですが、三月三日にしていただけませんか。」
 「ちょっと待ってください。三日は金曜日で、私は外来の診察日だからできません。他の日にしてください。」
 「それでは、土曜日ですが四日でお願いできるでしょうか。」
 「結構です。それでは三月四日に手術をしましょう。」
 そのようなやり取りがあり、手術日が決定した。I先生は看護師さんに手術室の押さえや、カンファレンスの段取りを指示している。私には、改めて手術のリスクや手術による後遺症のリスクを説明してくれる。そして、来週の二十四日に来院し、手術の際の思わぬ出血の準備と、頭蓋骨を接着するための接着剤を作るために、自己血を四百CC採決することとなった。
 手術のほうは、前日の三日に入院し、四日午前九時より手術となり、いよいよ開頭手術に向けてカウントダウンが始まり、私は、スケジュールどおりに、あたかもベルトコンベアの上をただ流されていく状態のようになってきた。
 診察が終わり、帰路の途中ナンバウォークで昼食。パートナーといろんな思いを話す。柄にも無く手術がうまくいかなかったら、職場での私物はどこにあるとか、誰に連絡するか、メモを作っておくとか、そんなことも話していた。

-「脳動脈瘤破裂前クリッピング術」初めての(殆どのの人は経験ないか)開頭手術に、もはや命をあきらめた覚悟。-

二〇〇六年三月四日(土)
 朝の六時過ぎに起床。開頭手術の当日というのに結構熟睡した感じである。起床してまもなく看護師さんが点滴を持ってくる。やがて八時過に兄が、八時二十分頃にパートナーがやってきた。手術の予定は午前九時三十分からであり、いろいろと思いを話していたが、どうも話が上ずってしまう。やはり相当緊張しているようだ。
 午前九時には看護師さんがやってきて、簡単な説明の後いよいよ三階の手術室に移動。歩いての移動である。足元はしっかりと歩いて行ったつもりである。手術室の開扉ペダルを看護師さんが踏むと重たく冷たい扉が開き、中待合へと入って行く。家族は手術室の中待合までで、そこで家族と別れ、パートナーは

 「大丈夫だからね」

  という。私はいよいよ手術室の奥の扉の中へと入っていくと扉は閉じられた。椅子に座って待機。中にはもう一つ扉がある。暫くすると準備ができ、その中へ入っていった。下はタイルで冷たい。私は手術台の上に横たわると、麻酔医の先生がやってきて、
「点滴のところから麻酔を入れます。少しチリチリとした感じがするかもしれません。」
とのこと。開頭部の剃毛も導尿チューブの挿管もしていない。麻酔をかけてからのようだ。全身麻酔をすると自発呼吸ができなくなり、そのため人工呼吸器のチューブを挿管し、機械的に人工呼吸に切り替えるのだが、人工呼吸チューブの挿管もしない。すべて、麻酔が施された後にするようだ。多少不安であったので、そのことも事前に説明があったほうが安心する。
私は、麻酔が効きにくい体質だ。かつての盲腸炎の手術のときも、左腕のリンパ腺が化膿し切開したときも、ほとんど麻酔が効かず、激痛なんてものではない。まるで拷問のような死ぬほど痛い思いをして大いに難儀した経験がある。今回も麻酔が効かなかったらいやだなと思いながら、麻酔が効くまでどれくらいかかるかな、2~3分かなと思い数を数えてみることにした。
  しかし、案ずるまもなく麻酔医の先生が点滴のところから麻酔を入れると、三も数えられず殆ど『瞬間的』に意識がなくなったように思う。手術の最中のことは、当然のことながら覚えていない。ただ、意識の奥底で、『自分は今脳動脈瘤のクリッピング手術を受けているのだ』といった覚えが時々うっすらと浮かんできたように思う。
暫くして、家族らは二階の待合に移動し、私の手術のライブ中継を見ていたとのことである。パートナーの話によると、ライブ中継は開頭して能動脈の瘤の部分に至った十一時二十八分に開始され、十二時四十八分には顕微鏡下の手術で脳動脈瘤にクリッピングが施された。パートナーはかつて脳外科病院の看護師長をしており、後日パートナーの話によると、上手な手術でさすがに器用で手早かった、とのことである。
やがて、無事脳動脈瘤のクリッピング手術が終了し、午後三時にICUに戻ってきた。I先生から
「イソじいさん、イソじいさん。無事に終わったよ。手術は成功したよ。」
と声をかけられた。全身麻酔からの覚醒は早く、声をかけられているときにはすでに覚醒していた。なんとなく『ろれつ』が回りにくかったが、手術の終わった安心感からかいろんなことを話しかけたことを覚えている。看護師さんが、
「イソじいさん、びっくりしましたよ。呼吸のチューブを抜管(ばっかん)したとたんに、『今、何時や』と聞いたんですよ。」
「それで、どうなったん。」
「今二時半ですよ。手術は終わりましたよ。よかったですねと言ったら、『ああそうか』と言ってまた寝たんです。」
ということらしい。

-脳動脈瘤にクリップがうまくかかり一安心。しかし、これからが手術後の闘病-

やがて、パートナーや娘たちがICUに入ってきて対面。とりあえずは無事終了したことで安堵し、よかった、よかったと言いあった。私のほうは、『ろれつ』がよく回らない。それに顔面が大きく腫れているらしい。また、麻酔が覚醒してくるにつれて、頭が猛烈に痛くなってくる。『頭が割れるほど痛い』のだが、実際に割れているのだから仕方がない。痛み止めの『痛い痛い』注射を打ち、薬を飲むが、たいして治まらない。
そのうちにパートナーと娘たちは『それじゃ気をつけて』といいつつ、最後に吸飲みで水を飲ましてくれて、家に帰った。
ICUは重篤な患者や術後の患者ばかりになり、それからが大変だった。夜になると一人の中年男性患者が、
 「痛い、痛い」と言いながら、手術の切開部を留める金属性の留具を自分で抜いているようだ。さかんに看護師さんを呼んでは、大声で「抜け」といっているが、その都度看護師さんにしかられ、挙句はベッドに手足を縛り付けられたようだ。この人は一晩中
 「放せ、ほどけ」と大声でわめいていた。
 
 また、もう一人の 男性の患者は、痰が絡むのか
  「ガー、カー、グー」とうるさい。痰を誤飲して呼吸ができなくなったり、肺に入って肺炎にでもなれば大変なのに、吸引をしないのかなと思う。もう一人の女性患者は着ているものを全部脱いでしまっているようで、やはり看護師さんにたしなめられている。ICUだから仕方がないのだが、うるさくてうるさくて、その上私自身も術後の頭が割れるように痛くて、さすがに一睡もできなかった。

3. 入院生活で自分の人生を振り返り、そして退院。ファミリーに感謝

2020-02-09 22:57:48 | 楽しく元気に『闘病』日記
-無事手術も「成功」して一安心。-

二〇〇六年三月五日(日)から入院期間中

 入院期間中のことは、日記風に手帳にメモをとっているが、どうも記憶も判断も「グチャグチャ」な状態で、若干記録に事実と異なることがある。しかし、とりあえず書き留めたことを整理すると、以下のようになる。とりあえずは、「あったこと」はメモにして残している。しかし、「記憶」として認知していることとは、違っていることが少なくない。まずは、メモを掘り起こしたい。
 3月日(日)は面会時間にはパートナーがやってきた。パートナーが来るとほっとする。朝九時からCTスキャンで術後の状態を検査。検査の後、ICUから普通病室六〇八号室に移動となった。そのうちに三人の娘たちが順番に見舞いにきてくれる。
食事はおかゆをとり、流動食とはいえ昨日から食べていないのでおいしかった。頭のほうはやはり『割れる』ような痛さだ。十八時過ぎに日曜日と言うのにI先生がやってきて、CTの説明があった。右前頭葉部に少し出血があるが、自然に吸収されていくとのことで、とりあえず術後は順調だが、しばらくは車椅子を使用し、用の無いときはベッドで安静とのことである。
 三月六日(月)やはり仕事のことが気になり、職場のY・Kさんに電話を入れた。少し仕事の上で動きがあるが、結局何もできない。もう、しばらく仕事のことは考えないようにしようと思う。本日は、大学時代の恩師で昨年秋に癌で亡くなられた「真田先生を偲ぶ会」の事務局会議の日だ。これも申し訳ないが何ともしようがない。
 三月七日(火)長姉、次姉が見舞いにきてくれた。次姉は東京からである。夕方、パートナーがきて体を洗拭してくれた。その後着替えも済ませ、久々に気持ちがよかった。
 三月八日(水)本日より、おかゆから普通食となった。おいしかった。パートナーは昼前にきて、夕方に帰った。その後、二十時前にI先生が回診にきて様子を聞かれる。かなり落ち着いてきたことを報告すると、経過が順調なので
「散歩などの外出をしてもよろしい。頭を洗わないで風呂に入ってもよい。」
 ということであった。

-手術も成功して術後の安静と回復を期す闘病生活。自分を振り返ることの大事さがよくわかった気がする。-

三月九日(木)昨日入浴の許可をもらったので、十時三十分に入浴をした。久しぶりの入浴で本当にくつろいだ。風呂から上がると、兄が見舞いにきており、
「順調な回復でよかったな。」
 とのこと。ただし、日記のメモにはそう書いてあるのだが、本当に入浴したのか、今となってはちょっと違う気がする。確か、頭の手術創の抜鈎(ばっこう…手術創を止めて あるホッチキスのような金属を抜くこと)の後に入浴の許可があったように思うが、何かメモと事実が混同しているようだ。

三月十一日(土)朝十時頃に、次女と三女、まもなく兄が見舞いに来た。そのうちに長姉と次姉も見舞いにきてくれて、ずいぶんとにぎやかになる。十一時前になると主治医のI先生が回診に来て、様子を聞かれる。順調に回復してきており、その旨を言うと、あっさりと
「それでは、抜鈎(ばっこう)しましょう。」
と言うことになった。
「リムーバー(確かそういったと思う)を持ってきて。」
と看護師さんに指示し、リムーバーを手にするとあっというまにブチィッ…、ブチィッ…、と抜き始めた。少し肉に食い込んでいる分チクッとするが、だんだんとすっきりと開放感が拡がってくる。
「先生。傷口を止めるのがホッチキスなら、それを抜くのはバッ(抜)チキスですね。…」
我ながら、誰も笑わないまったく面白くない洒落を言い、一同白ける。どうも気が軽くなり、口も軽くなっているようだ。
本日より点滴が一日に一本となり、それまで静脈に入れっぱなしであった点滴用の針も抜き、都度針刺しをすることとなった。頭の三角巾もはずし、いずれにしてもすっきりとした。
(外出、外泊、入浴の許可はこの日に言われたと思うのだが、日記のメモには八日に言われたと書いてある…)
本日京都の立命館大学では、十四時から癌でなくなった大学時代の恩師を偲ぶ会、十六時三十分からはゼミ同窓会総会が行われており、私は実行委員や事務局を仰せつかっていたのだが、こういうことになって何の足しにもならなくなってしまった。力及ばなかったが、病室から京都の方を仰ぎ、黙祷をささげた。

-手術が終わり闘病生活。混乱しつつも順調に回復-

三月十二日(日)パートナーと次女が見舞いに来る。午前中は、せっかく外出許可が出たので、病院近くの、ナンバウォークまで散歩に出かけ、ブックファーストで本を買う。「ウェブ進化論」他2冊。
  本日のメモには、「退院」などと書いてあり、一週間分混乱しているようだ。

 三月十三日(月)本日はパートナーは仕事のため、夕方まで来ない。さびしい思いをしていると、十五時に次女が見舞いに来た。取り留めのない話をしたが、次女が私のことを本当に心配しているのがひしひしと伝わってくる。少し遅くなったが十九時にパートナーが見舞いにやってきた。ほっとする。

 三月十四日(火)本日は十時に入浴。抜鈎して頭も洗ってすっきりする。最近は、なるべく体を動かすように、病院内ではできるだけ歩き、できるだけエレベーターにも乗らないように心がけている。
 五階にある浴場から上がり、部屋に戻りくつろいでいると、十一時頃に長姉と次姉が見舞いにきてくれた。術後の順調な経過に二人とも安心してくれている。昼食はグラタンのシーフード風。おいしかった。病院食なのだから、量もカロリーも塩分も計算されているのだろうが、それしか楽しみがないというか、いつもいつもおいしく頂いている。それでもってダイエットも進んでいる。
 長姉と次姉は十四時前に帰った。しばらくすると、パートナーが見舞いに来た。

 三月十五日(水)~三月十七日(金)毎日本を読んだり、短時間外出し散歩したりの日々である。毎日パートナーか娘が見舞いに来てくれて、気持ちが休まる。適当にわがままも言ったりしている。術後の経過は「日にち薬」で日に日に体調と体力が回復してくる気がするが、パートナーの助言もあり、過信はしないように心がけている。主治医のI先生から、十九日の日曜日に退院の許可が正式に出た。

-いよいよ退院の許可が出た。体力、気力の回復を目指す。-

三月十八日(土)朝は入浴後散歩。明日に退院を控えてなんとなく気持ちが軽い。点滴に来た担当の看護師のNさんも
「いよいよ退院ですね。退院してからも注意して、良くなってくださいね。私は明日は休みですが、ちゃんと引継ぎをしていますから。」
と言ってくれる。パートナーと上の孫のYuが見舞いに来る。Yuは性格の優しい子で、この間本当に心配しており、明日の退院を教えるとパッと明るい顔になり、喜んでいた。私もうれしくなってくる。パートナーと孫は夕方までいて私に付き合ってくれた。
夜の八時過ぎに主治医のI先生が回診に来た。明日の退院にあたって、退院後の生活上の注意、ケアの治療、高血圧などの他の疾病の治療等についての説明等があった。本日は、土曜日で朝は手術日で、おそらく午後は検査かカンファレンス。そして夕方から夜のこの時間もまだ回診と、本当に熱心でよく仕事をされる医師だと敬服する。

-いよいよ退院の日。これから自宅療養と復活を目指す日々だ。-
 
三月十九日(日)本日はいよいよ退院の日。朝食の後、少し散歩で、ナンバウォークに出かけ、本と、売店で缶コーヒを買って飲む。この間の入院の余韻を少し楽しみ、十二時前に病院に戻ると、パートナーと次女が既に来ており、はや退院の荷造りを終えていた。
 「どこへ行ってるの。ぶらぶらとして。」
 「ちょっと、退院を前に散歩に行ってた。」
  「何をしてるのよ。」
 いつもの調子である。
 十一時三十分には退院の準備がすっかり整った。十二時に最後の病院の昼食を食べ、食事の片づけを終えいよいよ退院である。
  
十五日前の三月三日に、両手に荷物を持って手術への不安と術後の今後の生活も含めた漠然とした不安を一杯に入院してきた病棟に、今は安堵の気持ちと、もう一度再起を期すぞという気持ちを持って、病室を離れようとしている。気持ちはすっきりとしている。十三時にナースステーションに挨拶し、看護師さんたちに、
 「おめでとうございます」
 と口々に言われて、それに送られパートナーと次女とともに、病棟を後にした。
 『さようなら。ありがとう。I先生、看護師のNさん、看護師の皆さん、ヘルパーさん、病院のスタッフのみなさん。ケアのためにまた来るけれど、本当はもう入院しないようにしたいです。』
 私の、思いであった。
 その後、私は四月二日まで自宅療養でリハビリの生活を送った。その間に、三女は「全快祝い」といって、寿司をご馳走してくれたり、日航ホテルの中華レストランで中華料理をご馳走してくれた。上の孫のYuも手紙をくれたりした。家族の心温まる励ましと思いやりは、本当にうれしかった。こんなことがきっかけであると言うのは、あまり良くはないのだろうけれど、家族の連帯と信頼を心から感じることができて、私にとっての幸せというものをつくづく実感させてもらったと思う。
 その後、四月二十一日にケアのために通院し、順調な回復であり、また七月二十一日にも通院し診察を受けた。体のほうは順調に回復していると思う。毎日、西院から金閣寺近くの職場まで自転車で通勤し、歩くときも「早足」を心がけている。術後の不自由はとりあえず何もない。七月の診察時に乾先生に
 「夏休みに三泊四日でそこそこ厳しい登山に言っても良いですか。」
 訪ねると、
 「どうぞ、どうぞ行ってください。結構ですよ。」
 とのことである。
 とにかく、現在は術後の経過は順調である。しかし、家族のため、自分のため、あまり過信することなく、着実に着実に、少し自分で見つめなおした人生を切り拓いて行こうと思う。                           (完)