【70才のタッチ・アンド・ブースト】ーイソじいの”山””遍路””闘病””ファミリー”ー

【新連載】 『四国曼荼羅花遍路-通し打ち45日の マイウェイ』

家族の原風景、満州文官屯を訪ねる-1

2019-06-23 01:25:04 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
家族の原風景、満州の文官屯を訪ねる
 私の家族は、アジア太平洋戦争の時に父が技術者で軍属であったため満州(中国東北地方)に移り住んでいました。私は5人の兄弟の末っ子で、私以外はすべて満州からの引き上げの体験をしています。現在では、父と長兄はすでに早世し、母も2007年10月に97歳で天寿を全うし(たと思っ)ています。彼岸まで戦時中に子育てをし、家族を守り続けた女性としての尊厳を持ち続け、凛々しく旅立ちました。母は、家族の原風景を語るのには少し年齢が行き過ぎていたかもしれませんが、この文書のオリジナル版を作成したとき(2001年)はまだ矍鑠としていて、特に戦時中のことや「命がけで」子育てをした時代のことは鮮明に覚えており、多くの体験談を聞かせてもらうことができました。私の兄、姉もだんだんと年を重ねてきていますが、何よりも家族の核となる母親の加齢が、家族の原風景を共有し続けることをなかなか難しくして来ていました。
  私は、戦争を知らない世代(1948年生)ですが、「命がけで」子育てし、「命がけで」生き抜いてきた父や母や兄、姉たちの戦争体験を自分も知り、そして私たちの子や孫に、戦争に翻弄された家族の原風景を語り継いでいく責任があると思い、家族の原風景である満州(中国東北地方…以下「満州」)を訪問し、この文章を記そうと思いました。


 地図にない町、満州(中国東北地方)・文官屯(ブンカントン)を訪ねて
 -「家族の原風景である満州(中国東北地方)旅行」に参加して-
(2019年6月20日版)

1.満州の大地は、私の家族にとっては第二の故郷である。

 私の父 (明治四十年生・千九百七年生) は、砲兵器製造に関わる優秀な技術者であった。一九三〇年代に、大阪砲兵工廠に技術者として勤務し、砲兵器の発明・改良で数度にわたって「天皇表彰」を受賞している。父は、設計能力も優れていたのだが、おそらくメンテナンス(修理・修繕)技術が卓抜していたのだろうと思われる。全く動かなくなった大砲を分解し、完全復旧させる事などは、得意だったと聞いている。
 父は、アジア太平洋戦争時の旧「日本軍」の多方面にわたる戦線の拡大展開にともない、軍属技術者として、東南アジア各国の最前線に単身赴任し砲兵器のメンテナンスに従事するようになった。家族の記憶だけでも、インドネシア・シンガポール・マレー半島・ビルマ(現「ミャンマー」)・タイ・台湾等に赴任している。やがて一九四〇年以降、満州に赴き、「関東軍」の戦線拡大とともに「満州」各地を転々と移動し、砲兵器のメンテナンスを行うようになった。「満州」も遥か北西部、ハルピンはおろかチチハルやハイラル、黒龍江方面まで赴き、民間人(技術者)であったのでロシア人との接触もあり、ロシア語が少し話せたようである。それが、アジア太平洋戦争の終戦にともなう「ソ連軍」の「満州」侵攻の際、本人の本意ではないだろうが、「案内人」として侵攻してきたソ連軍に「便利屋」として利用されていたらしい。
 一九四三年六月に「内地」より家族を呼び寄せ、「腰を据えて仕事に従事するように」との社命により、父は母、長女H、長男H、次男Jの四名を大阪まで迎えに来た。家族総勢五名は、大阪から汽車で下関まで行った。下関では、大陸に渡航しようと何日も待機している商売人や、開拓農民らの人たちでごった返す中を、軍属の家族は、時間待ちすることもなく、二等船室に案内され、そこから海路釜山へと向かった。釜山到着後、鉄路「満鉄」を乗り継ぎ、数日後の一九四三年六月に、当時は「満鉄奉天駅」の次の駅であったらしい「文官屯」駅に到着した。「文官屯」到着後、歩いて官舎まで行った。自宅として用意された官舎の隣家は「山田さん」という方で、到着後簡単な飲食物を頂き、ほっと一息ついたとのことである(母及び姉Hの話。以下文官屯での生活の様子は同じ。)。
 翌日は、「共栄会」という市場のような商店に、日用品の買出しに行った。当時は「配給制」であったが、その当時は、たくさんの「ロシアケーキ」「お菓子」等の甘いものがあり、「高級軍属」の家族である母は「多い目に配給された」ことや、米は馬車でのちほど配達されてきた思い出がある。このようにして、家族の「満州」生活は「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八 南満砲兵工廠官舎」から始まったのである。
 なお、大阪砲兵工廠は、戦前は国鉄大阪環状線の「京橋駅」から「森の宮駅」にかけての西部と、大阪城の北東部に囲まれた一帯の広大な敷地に威容を放って聳えていたが、戦時中の大阪大空襲で徹底的に集中爆撃され、焼き尽くされた。戦後、私の中学校時代までは、赤茶けた鉄骨がまるで不規則な枯れ木のように立っていた。現在は廃墟も取り除かれ、そのあとに造築された植栽や植林もすっかり落ち着き、瀟洒なJR「大阪城公園」駅があり、大阪城ホールや、太陽の広場のある、広大な府民の憩いの場となっている。

 このたび、やはり満州から引き揚げてきた経験を持つ先輩のGさんの呼びかけの「ゆかりの地としての中国東北地方旅行」に参加し、家族の波乱万丈の「家族史」の中で、とくに第二の故郷としての原風景を心底に培った満州を実姉H、パートナーFとGさんの友人であるFさんご夫婦、Fさんの総勢7名で訪れた。

2.“文官屯”という街

 
瀋陽(旧「奉天」…以下「奉天」現在のことを書く場合は「瀋陽」) は現在は、中国遼寧省の省都で人口は六百万人余、中国東北地方随一の都市である。戦前から、撫順の石炭や東北地方の豊かな資源、あるいは鞍山の「旧昭和製鋼所」で精錬された鋼材等をアッセンブリーした重工業で代表的な都市であった。現在もなお中国有数の重工業都市であるが、一方天然資源のほうは、撫順の石炭はかっては露天掘りで採れるほど豊富にあったのだが、最近では枯渇の状態とのことである。
  私達が訪問した二〇〇一年四月三十日は、年初来初めての雨、すなわち二十一世紀始めての雨が降った日であった。文官屯は奉天市街地の北部にあり、郊外との境界に近い街である。瀋陽駅(旧「奉天」駅)からは、戦後新しく建設された瀋陽の玄関口である瀋陽北駅を経て、長春に向かう鉄路(国営の鉄道)の一駅目が、かつての「文官屯駅」であるとの姉の記憶であるが、今回訪問して、この鉄路は本線ではなく、工場への「引込み線」ではないかと思われた。現在では廃駅となっているようだが、その場所には駅舎跡と思われるレンガ造りの建物と材木の製材所兼小規模な貯木場がある。「文官屯」の近辺には旧日本軍の満州への本格的なアジア太平洋戦争の端緒となった謀略事件である柳条湖事件勃発の地がある。柳条湖事件は、一九二八年の「満州某重大事件」といわれた「関東軍」の策略(実行者は河本大佐)による「満州軍閥」張作霖爆殺事件に引き続いて、「満州事変」の泥沼に突入してゆく直接の契機となった、「関東軍」の仕業による謀略事件で、一九三一年九月十八日夜に引き起こされた奉天郊外柳条湖での「満鉄」爆破事件である。中国では「九・一八事件」といわれている。また、「文官屯駅」から車で二十分程西に行ったところには、女真族で清朝の祖ヌルハチを次いだ太宗ホンタイジと孝端文皇后の陵墓のある北陵公園がある。北陵公園は現在世界文化遺産の認定を目指し、環境の整備を行っている。ちなみに、ヌルハチ自身の陵墓は郊外にあり、東陵と言われている。
文官屯は、地図に無い街である。今回の中国旅行に先立って、「地球を歩く」等のガイドブックはもちろん、図書館でかなり詳しい古地図や中国図書の「産業図鑑」等を調べてみたが、ついに「文官屯」は見つけることができなかった。余程小さい街なのか、それとも戦後の中国では忌まわしい満州国時代の負のメモリアルであり「禁句」となっているのか、その理由は全く分からなかった。
 一九四三年から一九四六年の間、家族は「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八 南満砲兵工廠官舎」に住んでおり、当時の戸籍謄本も現存している。今回の旅行にあたって、戦時中の「満州国」作成の「奉天」市街地地図以外に、多くの旧住所表示と現在の住所表示の対照表を入念に調べたのだが、市の中心部に「藤町」はあるが「文官屯藤見町」は記載されていなかった。「旧南満砲兵工廠」は八千人の日本人を中心に二万人以上が、機関銃や大砲を主とする旧日本軍の兵器製造に携わっていたといわれる。いろいろと推測の結果であるが、おそらく「文官屯」は基幹軍需工場の街であり、軍事機密のため地図への記載や、住所表示すらも無く、郵便物等は軍用郵便扱いで事務的に処理されていたのではないかと思われる。
  なお、現在の「文官屯」も地図に無い。「旧南満砲兵工廠」の、当時としては「超近代的」で大規模な施設跡は、戦後中国に摂取されその後最大限に有効活用され、「産業図鑑」によると、現在では西安にある人工衛星等の製造もおこなっている重航空機製造工場と並び、航空機やその部品製造を行っている、中国における二大航空機製造工場となっているようだ。その工場には数万人の技術者・製造工員等が働いており、工場の周辺を彼らの住宅である近代的なマンション群が取り巻いている。実はマンション群も含め、その一帯は現在も立ち入り禁止区域であり、今回の旅行もカメラを隠し、単なる観光客風に周辺の散策といった雰囲気にならざるを得なかった。

家族の原風景 満州文官屯を訪ねるー2

2019-06-22 01:32:19 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
3. “文官屯”の風景と家族それぞれの記憶の重なり

 
ハルピンと瀋陽を結んでいる瀋哈高速道路沿いに、女真族で清王朝の祖ヌルハチの陵墓である東陵がある。この付近には「ミステリアス・スロープ」といい、引力に逆らって上り坂はエンジンを切ってもどんどん加速度がつき、下り坂は自転車なら必至に漕がないと下がれない坂があるそうだ。日本でなら目の錯覚を利用した「不思議風景」と聞き流す話だが、ここは悠久の大地中国大陸である。思わず「本当だろうか?」と素直に思ってしまう。東陵を過ぎて、中国で数少ない高速道路の「サービスエリア」を過ごし、まもなく瀋陽の東北部郊外にある浦河インターチェンジを降りた。二〇〇一年四月三十日は、先刻の鉄嶺以来ずっと雨が降り続いている。この雨は今年に入って始めての雨、すなわち二十一世紀に降った初めての雨で、作付け前の大事な時期に私たち一行が雨をもたらしたかと勝手に思い込みながら、ほっとした気分になる。
 浦河インターチェンジからしばらく一般道を走り、やがて右折した。道路標識に「金山路」とあり、おそらく西方に向いて走っていたがすぐに左折し、また右折して鉄路を横切った。この鉄路が「旧満鉄」の「奉天」から「新京」(現長春)へ向かう鉄路(但し、本線ではなく「引込み線」と思われるが)であり、「文官屯」はもうこのあたりであることは十分に感じる事ができた。姉Hは車窓からこの辺の風景を凝視している。道なりにほぼ西方面に走っているのだろうが、踏み切りから三・四分程走ったところで、対向車線越しのレンガ塀に囲まれた敷地に「鳥居」が残っているのを発見した。「鳥居があった」と私は叫んだのだが、バスはそのまま通過した。そして二・三分走行した後少し広い通りを南方面へと左折し、工場の方面へと向かった。左手は近代的なマンション群、右手はわずかに古い街なみの雰囲気が残っている。しばらく行くと小さなロータリーがあり、それ以上は立ち入り禁止である。姉は、必死に自分の記憶を辿り寄せようと、ずっと風景を凝視しつづけているが、街の変わりように自分の記憶とあまりオーバーラップしない様子である。
 小さなロータリーでUターンし、先ほどの通りに戻り右折し、まず「文官屯」の駅の確定と「鳥居」の確認に戻った。「文官屯駅」は、地元の人たち二~三人にたずねるとすぐに分かった。先ほど横断した鉄路の延長上にあり、現在は小さなプラットホームのようなものはあるが、旅客の乗降場はなさそうである。旧駅舎なのか、古いレンガ造りの建物が残っており、あたりは小さな製材所と、貯木場であった。道路をはさんで錆びた鉄のアーチ状のものがあり、その下を「駅前通り」とでも言うような、二十メートル幅ぐらいの道路がやはり工場方面へと続いている。その道路の右側のレンガ塀で囲まれた中に、「鳥居」が敗戦後の風雪に耐え抜き、「文化大革命」の大破壊にも耐え、まるで昭和史の証人のように、一人「満州」の地に忽然と残っていたのだった。ここは「藤見神社」の跡だった。終戦後、本日私達が「藤見神社」を訪れるまでに、おそらく幾人ものこの地にゆかりのある日本人が訪れていることだろう。「鳥居」は歴史の記念碑として、又この地で果てた「満州棄民」のエピータフ(墓碑銘)として、朱塗りは剥げてしまっているが、粛然として屹立している。本殿の建物は全く跡を留めていないが、「鳥居」の手前には、兄が登ってカラスの卵を取ってきたであろう戦前からあったと思われる大木も現存していた。
 「藤見神社」跡の隣は、姉や兄が通った「国民学校」の跡地だろうと姉Hは言っていた。現在は「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」となっている。そして道をはさんで東南側に、家族の第二の故郷である「南満砲兵工廠官舎」が存在していたらしいのだが、かつての居宅の現存については全く確認できなかった。「遼寧兵器工業大学」「瀋陽工業学院」の南端から先はやはり、「立ち入り禁止区域」で、それ以上は近付けず、そこから右折し北西方面へと現地の生活道路を走った。進行方向右側は漆喰の土台のレンガ塀だが、後日兄Jにその写真を見せると、このような風景のところを通学したとのことであった。やがて最初に工場方面に右折した少し広い通りに合流した。「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽工業学院」は、戦後に作られた学校であるが、その門柱は、姉や兄が通った「国民学校」の門柱を使用しているとのことであった。
  姉は、駅から工場に至るまるでパリの凱旋門通りのように広い駅前通りから、向かって左の方へ歩いて十分ぐらい奥まった所に、神社・学校が有ったという。その更に奥に、「官舎」が有ったとのことである。今回旅行から帰った後、兄Jと話したが、やはりおなじ記憶であった。おそらく、最初に工場方面に左折した少し広い通りが、かつては姉の言うような凱旋門通りのような広い駅前通りであったのかも知れない。「文官屯」駅もその場所にあったのかもしれない。あるいは「駅前大通」ではなく、駅から少し離れた大通りであったのかもしれない。その方が、記憶とのオーバーラップがよりフィットするようだが、じっくりと歩いて実感し検証する事ができなかった。「立ち入り禁止区域」が多く、厳重な警備が行われているからである。「もう少し早い機会に、母も兄も一緒に訪問しておればよかった」と心底思った。きわめて健康ではあるが、二〇〇一年当時で九一歳の母親とともに今回日本に残った兄のために、文官屯の風景を精一杯心の中に焼き付けた。私達は、しばらくの散策後思いのたけを胸いっぱいに吸い込み、第二の故郷文官屯をあとにした。

4.‘イソじい’の家族の満州・文官屯追想のメモ

(家族の文官屯追想メモ)
 母 (明治四三年・千九百十年三月生) の「満州」文官屯にまつわる記憶は、釜山から「奉天」への汽車の車中に始まる。車窓の田園地帯には当時日本では見られなかった、黒い豚の群れが放牧されていた。二~三日後に「奉天」に到着、そのまま「文官屯」へ向かい、昼過ぎに到着後隣家の山田さんに簡単な飲食物を頂き一息ついたこと。翌日、共栄会へ日用品や食物等の配給物資を買い出しに行き、家族の「満州」生活がスタートした。「満州」では子育てに忙殺されつつ、現地で姉Tを妊娠出産した。父親は「南満砲兵工廠」で第四位にランクされる技術者で、それなりの高額所得であった。軍属であり長靴を履き長剣を拝刀していた。「将校」クラスの軍人に付き、よく軍馬の後から着いて歩いていた。仕事では、満州中を駆け回っていた。母は、夫と家族の無事を祈って毎日近所の「藤見神社」へお百度参りをしていた。敗戦後父と同時に発疹チフスを発症、入院していた病院は、ソ連軍の侵攻とともに爆破されたが、父とともにリヤカーで避難した。その後ソ連軍の略奪行為等の難をのがれ、子供たちを守りながら、一九四六年六月に何とか「引き揚げ」に辿り着くことができた。「引き揚げ」のときは、「奉天駅」の公衆便所前の瓦礫化したレンガ囲いの中で、二日間雑魚寝して汽車を待った。汽車といっても無蓋貨物車であり、雨に降られ病気でぐったりとし、動けなかった当時小学校一年生の兄Jの耳の中に雨水が溜まっていたのを見て、情けなく、悲しかったことを昨日のように思い出す。姉H、兄Hは母親とともに毛布や布団、当座の着替え、干飯などを小学生ながら持てるだけ持って「引き揚げ」て来たというのに、父は自分のそろばん、計算尺、書類入れ、硯、筆等、それに「お金」と称して新聞紙を切ったものを箱に詰めて大事に持ち、「マッカーサーからもらった金や」と言いながら、」家族の共有物は何一つ持っていなかった。もともと、自分本位で家族への思いやりのない性癖ではあったが、敗戦のショックで一時期精神のバランスを崩していたようだ。
 「引き揚げ」のとき、兄Jが腸チフス、当時「満州チフス」と言われた病気を発症した。あの、大変な腕白の兄が、四十度以上の高熱と血便に、泣く元気すらなく、ぐったりとして母の膝に顔を埋めていた。「引き揚げ船」の中で病気等で衰弱した人たちを「戸板」に載せて日本海へ流し、水葬に付したのだが、母は「Jを決して海に流さない」と、引き揚げ船中兄Jを自分の着衣の中に隠し、片時も兄を放さず抱いていたのである。
  姉H (一九三五年六月生 )の記憶は、「すずらん」や「女郎花」等が咲き乱れる地平線まで続く一面の草原。官舎の裏にはとてもきれいな小川が流れており、魚や川海老が泳いでいた。国民学校の遠足は歩いて奉天市内の日露戦争の記念館へ行った。家族で歩いて奉天の競馬場へ競馬見物にもいった。「文官屯駅」からは、「南満砲兵工廠」の方面に向かって「戦車」が何列も縦隊になって行進できる、まるでパリの凱旋門通りのように広い道が続いており、その左側の歩いて十分ほど奥まったところに「藤見神社」とその斜め向かいに「国民学校」があった。官舎はそのまだ奥にあった。敗戦後ソ連兵が侵攻し、略奪、暴行行為が繰り返された。母も姉も頭髪を丸刈りにし、男に扮し難を逃れた。父は、ロシア語が少しできたので、ソ連兵が侵攻してきた折に「案内人」として刈り出された。本人は非常に「嫌」であったらしいが、やむなく「旧関東軍の憲兵隊」の家等に「案内」し「通訳」をしたが、ソ連兵が向かう方向には予め知らせ、避難するように連絡していた。
一九四六年の「引き揚げ」は「満鉄」を乗り継ぎ「葫芦島(コロトウ)」から海路舞鶴へ向かった。七日間かけて舞鶴に到着したが、「引揚者には虱がわいている」といわれ、二日間待機させられ、「虱」駆除のため頭からDDTを散布されたことや、舞鶴到着後風呂に入れたが、「入れ」の号令後すぐ「上がれ」と言われ、温まる間も無かったことなどを記憶している。なお、「葫芦島」は現在では中国の海軍基地がある。

家族の原風景 満州文官屯を訪ねる

2019-06-21 01:35:49 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
5.文官屯での生活

 兄J (一九四〇年一月生 )は大変な腕白であった。文官屯の官舎は金網のフェンスが張り巡らされていたが、その金網を乗り越えて満人(満州在住の人たち)の集落まで行き、満人の子供達と遊んだ。パンや饅頭(マントウ)をよく貰った。神社の大木に登りカラスの卵を取ったりして子供たちの「ガキ大将」であったが、母親の心配は並大抵でなかったようだ。カラスの卵は青色で、卵を取っている最中には必ずつがいのカラスが襲ってくる。それを、はらいのけて取った卵を飲んだのだが、受精卵のため、羽毛の生えた雛が中にあることも良くあったとのことである。小学校一年生の時授業が終わると姉の教室の前まで行って待っていた。兄が一年生の時に終戦を迎え、子供たちは集団で官舎まで登下校したが、学校帰りに官舎の門番のおじさんにいつも兄だけ肩車され、かわいがられた。もっとも、父親がかなりランクの高い技術者であったことも、「ひいき」の要因の一つかもしれない。兄の記憶では、「文官屯駅」は客の乗降用の駅ではなく、物資・貨物の集配駅とのことであるが、今回の訪問で兄の記憶の方がイメージが重なるように思う。兄は、敗戦で「引き揚げ」の時、腸チフス(「満州チフス」といわれた)に罹患し、高熱・血便で真に生死の境をさまよったが、卓抜した生命力で耐え抜いた。これも、母親にとって「引き揚げ」の極めて困難な状況下のことであり、先に述べたように「異国の地で死なせてはならない。日本海に流してはならない。何とか家族全員生きて日本に戻れるように」と、大変な心労と、プレッシャーであったことだろう。
 長兄H(一九三七年三月生)は、「引き揚げ」後大阪で中学校、高等学校と進学したが、一九五四年七月、一八歳の時に盲腸炎をこじらせ、腹膜炎を併発して病死した。我慢強く責任感の強い人間で、自分の学費の一部にと夜間に日本経済新聞社でアルバイトをしながら家計を支えていた。腹痛にも我慢に我慢を重ねていたのであろうが、現在の医学ではまず死に至ることは無いだろう。痛恨の思いである。同時に文官屯の思い出の大事な大事な視座も、一つ欠落してしまった。
 父 (明治四十年・千九百七年生) は一九六七年七月、三度目の脳溢血の発作で死亡した。父にとって満州は自分の夢とロマンを思いのたけ実現させる事のできた、最高のフィールドであり、ステージであったのだろう。敗戦後、否応無く迫られた現実の環境とのギャップに、全く自分の責任であるのだが対応することができなかったのだろうが、随分と自分勝手な生き方をしてきた。母や兄、姉の中には父に他する「いい思い出」は私も含めて何もない。それでも一九六一年に最初の脳溢血で倒れた後、家でリハビリをしながらテレビで満州の画像や、引揚者の話題が放映されると、涙を流し時には嗚咽しながら凝視していた。
 姉T (一九四四年十月生 )は、現地で出生。乳飲み子のまま、新しく増えた家族として「満州」から「引き揚げ」てきた。その時は、姉Hがずっと背負ってきたとのことである。
 私は、戦後の混乱がまださめやらない一九四八年十二月、「大阪市大淀区大仁本町一丁目一〇一番地」の小学校を利用した「引揚者用合同住宅」で出生。
 姉Tが出生した時には、すでに日本はアジア太平洋戦争に敗れ、満州全域は「ソ連軍」や「国共軍」が侵攻し、中国大陸の新たな勢力再分割が怒涛のように押し寄せてきていた。母は、乳飲み子のTを片時も離さず、家族離れ離れになることなく翌一九四六年六月の「引き揚げ」に必至の思いで辿り着くことができた。「引き揚げ」の時には、兄Jの腸チフス(「満州チフス」)の発症という過酷な精神的重圧にも耐え、飢餓などの大変な苦労を乗り越えてきた。そして、舞鶴到着後、父市太郎の本家筋の故郷である、石川県鹿島郡能登中島に七月十二日に到着し、兄Jも何とか小康状態となり、新たな家族史が始まるが、その後の軌跡は別の機会で記述する。
 この母親を軸とした家族の絆は、家族それぞれが「生命がけ」の経験をし、共有し合ってきたことによって、今ある家族の絆の珠玉の原点となっているといえる。「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八」はその意味で、私達の家族にとって第二の故郷の原風景の場である。

  翌早朝六時、メーデーの休日でにぎわう瀋陽市北稜公園に、姉とパートナーと私の3人で散歩に出かけた。雑踏の喧騒がつぎからつぎへと溢れ出てくる瀋陽の休日の公園、その朝の空気をたっぷりと吸い込み、この地の名残とした。

6.中国・東北地方雑感

 私は、実は中国旅行は今回がはじめてであった。今回の旅行は、長姉が健康で活発に行動できるうちに家族の第二の原風景である中国満州を訪ね、家族のメモリアルを記録し、それぞれの家族の子供や、孫たちに残しておきたいと思ったからである。特に、私は第二次世界大戦も中国の満州も知らない世代である。私の世代は、親や兄姉の戦争の体験を繋いで、次の世代に戦争を語り継ぐ義務もあると思うし、そのために家族の原風景をこの目に焼き付けておかねばならない。その自覚も大きくあったが、一方では、はじめての中国、それも社会主義から「社会主義市場経済」への移行と称する「ダイナミック・チャイナ」にも大いに興味があった。それらのことも含めて、今回の中国旅行で印象に残ったことを、綴ってみた。

 

家族の原風景 満州文官屯を訪ねる

2019-06-20 01:38:18 | ファミリー(家族の原風景、満州文官屯)
① “勿忘九・一八” 「 九・一八記念館」を訪ねて (瀋陽にて)
 瀋陽(旧奉天)の郊外に、「九・一八記念館」がある。瀋陽北駅から文官屯方面へ行く鉄路(旧満鉄)が、一九三一年九月一八日の深夜に関東軍の謀略によって爆破され、それが中国の仕業であるとでっち上げることによって、日本軍が中国大陸に侵略していく契機(口実)とした「柳条湖事件」の勃発した地点近くにある。これを契機にアジア太平洋15年戦争がはじまる。
 中国では、日本の侵略戦争に対する抗日戦争の勝利を記録する『記念館』『博物館』『展示館』が実にたくさんある。今回の旅行でも一日目の北京の歴史博物館、二日目の長春の「偽満州国国務院」、三日目の「偽皇宮陳列館」、そして四日目の「九・一八記念館」と毎日一回は訪問コースに入っている。いずれも、執拗なまでの抗日、反日の画一的なプロパガンダで、「断頭台」や「斬首現場」「婦女子への残虐行為」や「平頂山事件」「南京事件」などの大量殺戮による山のような遺骸の写真など、旧日本軍の残虐さをこれでもか、これでもかと見せつける。そして、中国共産党の創設と八路軍による抗日戦争と、粘り強い戦いでの勝利と解放の喜び。慈悲深い中国共産党と毛沢東主席は「満州国」の「偽皇帝、愛新覚羅溥儀」を助命し、その後国務院議員になったことなどが画一的に、延々と説明されている。大体どこの『記念館』もそのような内容であるが、日本人観光客向けに、日本語の説明文(時には英文も)が併記されている。ところが、その日本語が非常に不正確でたどたどしいのだが、逆にそのことが妙に展示物のリアリティを演出しているようにも感じる。
 これらの施設は日本人観光客を目当てにしているので、どこの『記念館』『博物館』も『友誼商店』などの土産物店を併設している。しかし『友誼』とは名ばかりで、実際の商品のほとんどは粗悪品で、展示を見て「反省した」日本人に売りつけようとしているのが見え見えで、気の良さそうな人なら法外な値段を請求するという、他の途上国の下町の闇市場とやっていることはたいして変わらない。ただ、慰安婦問題や徴用工問題でもそうだが、国家間での問題解決は済んでいる、と言って侵略戦争被害者の皆さんに背を向けることは許されない。被害者にとっての悲惨な歴史経験は国家間の「賠償」では忘れられない痛苦の経験だから。
 瀋陽の「九・一八記念館」は、建物も新しく、しっかりした日本語と英語の説明看板がつけられてあり、展示内容も他では展示されていない、満州軍閥の張学良への評価と連携や、国民党蒋介石との合従連衡など、文化大革命の時期には抹殺されていた歴史が紹介されている。また、展示場の出口付近には日本のかつての「満州棄民」として異国の地に棄てていかれた日本国民達が寄贈したという『慈母の像』が建立されている。終戦時の「満州棄民」であった子供たちを、心優しい中国の人達が引き取り、暖かく幸せに育てていただいたことに感謝して、後日寄贈された像ということである。涙が出るほど情感にあふれた像であった。ただ、一方では、その何百倍も何千倍もの子供たちの「満州棄民」が、中国の貧農に引き取られ、牛馬のごとくこき使われて、やがて失意と無念のままに満州の土となった人たちが何万人もいることも歴史の事実であり、その責任の所在をあいまいにしてはならないことも忘れてはいけない。「八紘一宇」がいかに欺瞞的で無責任なことか。
 「九・一八記念館」は、建物も新しく近代的で、壁に書かれた、華国鋒の見事な揮毫による“勿忘九・一八”の文字も調和している。中国も近代化に向けて、歴史を正面に見据えようという姿勢の表れと思うが、反日の感情はどこの『記念館』でも一貫したテーマであり、歴史的事実をわれわれは糊塗することはできないだろう。今は、日本の国と日本人が歴史を真摯に正面かr見据えなければならない時だと思う。

② 長春・鉄嶺・瀋陽そして大連への鉄道の旅
 中国のそれも旧満州(東北地方)の悠久の大地は地平線まで続く一面の緑で、いろんな花が咲き乱れているというのが、姉Hの満州の思い出であった。私もそのことを聞いており、大いに期待して二日目早朝に北京空港からのCA(中国航空)機長春(旧新京)行きの飛行機に乗り込み、わざわざ窓際の開いている後部座席へと移動した。
 飛行機は、やがて高度八千~九千メートルくらいになった。地上のほうを見るとやはり日本と違って、都市や町、水田や森林が殆ど見えない。川と言っても細い幾筋かが水路のようで、あまりきれいでない流れを作っているようだ。地上はというと、四月の末というのに『一面の緑』ではなかった。地平線まで続いているのは、『くすんだピンク色』『少し明るめの黄土色』である。何だろう、一面に桜が咲いているのだろうか、などと思っていた。
 二時間弱のフライトで、CA機は長春空港に着陸した。長春空港は、ターミナルビルもなく、トイレも不潔で、また滑走路脇には旧日本海軍のゼロ戦のような戦闘機や、旧式のミグ戦闘機が駐機していたりして、軍事用の空港のような感じである。中国のローカル空港は、どこでもこのようなものなのかとも思ってしまう。長春(旧「新京」)は、満州国の皇宮があり、愛新覚羅溥儀が執政を行った都市で、日本の施設も多く残っている。旧日本の施設の多くはどこでもそうだが、堅牢で、現在でも中国の政府機関、市、中国共産党の施設として使用されている。大きな都市の駅前には大体「旧 大和ホテル」が現存し、今も活用されている。
 今回のレポートは、それぞれの都市での散策や、観光についていろいろと思うところはあるのだが、少し省略して、わが一行が長春到着の日とその翌日に観光した後、三時間鉄路で、「鉄嶺」へと移動し、そのあとバスで「瀋陽」へ、そして翌日には「瀋陽北駅」から「大連」まで四時間三十分の鉄路の旅を経験し、その印象を残したいと思う。
 長春から鉄嶺への旅は『軟座』(昔でいう一等車。二等車は『硬座』という。)の指定席で、長春駅では「軟座」専用の待合から通路を通って列車に乗り込み、快適な汽車の旅であった。ところが、二日目の瀋陽北駅からの汽車は『軟座』の指定席であったのだが、始発の瀋陽駅からすでにデッキに溢れるほどの大勢の中国人乗客が乗り込んでおり、なんとわれわれの指定席はすでに中国人一行に占拠され、大声で怒鳴り合うように話しているではないか。わが一行のガイドさんは彼らと激しく遣り合っている。普通の感覚では、われわれが指定席を確保しているのだから、彼らは文句を言わずに退けば良いのだが、『ひょっとすると指定席券の二重発券かな』と思うほど、彼らの剣幕は激しい。ところが、しばらくするとあきらめたのか、捨て台詞のようにぶつぶつ行って、席を立っていった。
 指定席はデッキの近くにあり、席に座っていると、今度はデッキのほうで別の中国人がまるで喧嘩をしているかのように言い合っている。相手は女性の車掌である。ガイドさんの話では、切符なしで乗り込もうとしているとのこと。中国人は、ものすごい剣幕で怒鳴っているが、女性車掌もまったく負けていない。五分位の恐ろしいやりとりの挙句、中国人はあきらめて下りていったようだ。『ここは中国なんだ。中国のネゴシエーションはこうなんだ。おとなしくしていると負けだ。』と、つくづくと改めて思った。
 さて、長春から鉄嶺、瀋陽北から大連への鉄路の旅で、地平線まで続く緑の草原はどこにもなかった。『くすんだピンク色』は中国の大地の色。空から見た『くすんだピンク色』は、実は『淡い黄土色』で、それは中国の大地の色だった。今は四月三十日~五月一日であり、日本の感覚では新緑が萌え出す季節である。ところが汽車の窓からは、所々集落があり、その周辺は荒れた土地とか禿山しかない。思うに、第二次世界大戦後、人民公社や合作社が『開墾』のために、木を切り倒し、山を焼き、ありとあらゆる大地を掘り起こしたのではないだろうか。その挙句、大地の保水力もなくなり、雨も降らなくなってきたのではないか。鉄嶺への旅で雨が降っていたが、今年になってはじめての雨ということである。
 鉄路に沿って、有刺鉄線が張られている。その有刺鉄線に野積みにされたポリ袋に入ったゴミがいっぱい絡み付き、大陸の風にあおられている。最初はなんだろうか、ちょっとした装飾かと思ったが、よく見ればゴミ袋とゴミの山である。インフラが整備されていない。近代化を目指す中国の大きな課題だろう。

③ ビル建設の「猛ラッシュ」
 今回訪問した都市は、北京、長春、鉄嶺、瀋陽、そして大連等であり、それぞれの都市で観光と散策を行った。どこの都市も新しい中国の経済発展を象徴するかのように、ビル建設の『猛ラッシュ』であった。それも高層・超高層のビル群で、一方では古ぼけた家々や胡同(フートン・古い集落)が壊され、瓦礫となって行き、その喧騒さに輪をかけているようだ。人々は町に溢れ、中国独特の大声の騒々しさで大変な賑わいで活気に溢れていた。長春では自動車とリヤカーの接触事故が目前であり、見ているまに大勢の野次馬が周りを取り囲み、関係ない人までもが、大声で怒鳴りあっている。
 中国は市場経済や近代化に進んでいるとはいえ、本質は社会主義国である。土地・不動産などの私的所有は認められていない。いったいあの建築ラッシュのビル群の『オーナー』や『資金源』はどうなっているのだろうかということは、私の大いなる疑問であった。
 ガイドさんの話によると、資金源は『国債』ということであり、その引き受け手は政府や市の高官、市長、万元戸などだそうである。と言うと日本でいう第三セクターとも違った、公設、公営のビルとなり、それを一部中国企業や、日本をはじめとした外国企業へのテナント貸し、公共機関等に活用されるのだろう。『オーナー』にとっては『信託事業』のようなものかもしれないが、一方では『国債』の償還がある。数十年先に償還するとなれば、今後の中国は『ハイパーインフレ』の道を歩まねば仕方がないだろうし、また外国資本が導入されていれば、元の引き上げもされなければならないだろう。
 いずれにしても、それぞれの都市には新しい中国の熱気が溢れ出している。市場経済化と近代化の道を歩みだし、人的資源、天然資源の豊富さによって、二十一世紀の第三世界の核となるであろう中国の発展を私は望んでいる。そして、日本との古き友人として、今後のパートナーシップが太くなっていくことを、望んでいる。

-ゆかりの地としての中国東北地方旅行の全行程-

 2001年4月28日 8:00関西国際空港集合⇒10:00JAL785便⇒12:05北京空港着 (現地時間-日本との時差はマイナス1時間) ⇒13:20昼食 (美女キ都大酒店) ⇒15:00北京大学散策⇒16:25中国革命博物館・歴史博物館 (但し、タイムアウトのため外から見学) ⇒16:35天安門広場・故宮(タイムアウトのため外から見学)散策⇒17:10革命博物館内友誼商店⇒18:10王府井散策⇒19:00宿舎「廣西大厦」チェックイン

4月29日 6:30宿舎発⇒8:00北京空港よりCA (中国航空) 1609便⇒9:45長春空港 (約25分離着陸の遅れ) ⇒水口氏ゆかりの学校(現在、人民解放軍の士官学校)望見、バスより旧「満州国」施設の観光 (殆どが、現在も中国共産党や、吉林省政府施設として使用しており一般公開していない) ⇒10:40偽満州国国務院見学⇒12:00昼食⇒13;10南湖大橋⇒14:00長春電影宮 (旧満映、当時は東洋最大の映画のオープンセット) ⇒15:20喫茶⇒16:00實城子跡見学 (Gさんの祖父の弟、画家金山氏が描いた旧駅舎) ⇒16:50旧日本人街吉野町等散策後、宿舎「春誼賓館」チェックイン。その後再度宿舎南方面散策、旧室町小学校 (現在も使用) 、新京神社跡等

4月30日 8:00宿舎発⇒9:00偽皇宮陳列館(吉林省博物館はリニューアル工事中)見学⇒11:00昼食 (春誼賓館、迎賓楼) ⇒12:20長春駅発 (鉄路にて) ⇒15:20鉄嶺着⇒16:00鉄嶺第一小学校、市内をバスにて観光後、高速道路を瀋陽へ⇒17:15文官屯 (瀋陽の北部市街地) 五十川家ゆかりの地を散策⇒18:30宿舎「鳳凰飯店」チェックイン

5月 1日 6:00北稜公園散策⇒8:00宿舎発⇒8:15九・一八記念館見学⇒9:40瀋陽故宮博物院⇒10:50土産物店⇒11:40昼食⇒13:40瀋陽北駅発 (鉄路にて) ⇒18:10大連駅着⇒18:40宿舎「国際酒店」チェックイン、夜中山広場散策

   5月 2日 7:00大連市内散策⇒9:00宿舎発⇒9:15大連港役場⇒10:30東北財経大学⇒11:10大連自然博物館⇒12:00フェアウェル・ランチ⇒13:00大連空港、搭乗手続き⇒14:15大連空港よりJAL790便⇒17:10関西空港着 (日本時間、中国との時差プラス1時間)

(完)