えんかん 磐田演劇鑑賞会

観劇へのお誘い   "文化のシャワーに洗われる心"

被災地を訪ねて

2013年05月30日 | 運営委員会

  
被災地を訪ねて
     
 東日本大震災から一年半ほど経った昨年秋。被災地から、「忘れられるのが怖い」という声が届くようになっていた。忘れるはずがない。あの時、世界中が大きな衝撃を受けた出来事だもの。ただ、それでも時間は容赦なく記憶を風化させていってしまう。被災地を訪ねる旅を考えたのはそんな時だった。
・・・しかし、なかなか具体的な計画を立てられないまま季節は過ぎて行った。今年に入り、宮城にいる仲間のブログの言葉が背中を押した。「自分の目で見てほしい」「肌で感じてほしい」「それも大切な支援」。


同行の三人とともに、前日の平泉から石巻に向かった。JR石巻線は一時間に一本以下のペースととても少ない。単なる物見遊山ではないなどと自分に言い聞かせながらも、大きめのバックを抱えて少しだけ引け目を感じながら車内を見れば、石巻へ向かう人は意外に少ない。石巻駅でタクシーを。二時間で被災地を回りたいと告げた。

 
タクシーを降りたのは旧北上川の西岸、河口近くにある高台の公園。日和山という。ちょうど今満開の桜が出迎えてくれた。そこは市民の憩いの場ともなっているとても眺めの良い所だ。しかし、あの日からその光景は一変した。咲き誇る桜の向こうに見えるのは、今は瓦礫が取り除かれ何もなくなった更地が海岸まで広がるばかり。全焼した門脇小学校の生徒をはじめ沢山の人がこの山に逃れ助かった。報道番組や新聞で見ていたとはいえ、いざ目の前にすると言葉が出ない。


 石巻は宮城県で震災の被害がとび抜けて大きかった地域。今も行方不明者の数は多い。自身も被災しているという運転手は、「時間は超過するかも知れませんが、女川まで行きましょう」と言った。我々にとって、女川といえば“原発”が後からついてくるくらい原発のイメージの強い街だ。
 
津波の被害は海岸線の地形により大きな違いをみせた。女川までの道中、海との間口が狭い万石浦(遠州でいうと浜名湖を小さくしたような感じ)沿いの被害は大きくなかったようだ。それが女川の高台にある病院に着いて愕然とした。三階建て位のビルが今も横倒しになって津波の大きさを物語っている。ここは二〇メートルを超す津波に襲われた。我々の立っているところの病院の一階の天井まで押し寄せたというから想像を絶する。

 石巻駅前の観光みやげ店に立ち寄り、『大津波襲来』という報道写真集を手に取った。ページをめくると、あの時誰もが息をのんだ生々しい写真が再び目に飛び込んできた。本を二冊ほど購入し、レジにいた店員の女性に地元の方ですかと聞けば、女川の出身だという。あれ以来一度女川を訪れただけとのこと。何故とも聞けずにいると、「子供の頃よく遊んだところだもの・・・。もう元には戻らないでしょう。」と。そう、被災地にとって復興は元に戻ることを意味しない。それでも復興を。人の心も含めた復興を。

 石巻で心残りがあるとすれば、時間の都合でリニューアルオープンしたばかりの『石ノ森萬画館』に立ち寄れなかったことだろうか。街の其処此処で石ノ森章太郎の漫画のヒーローたちが私達を見ていた。子供たちの味方だもの、被災地に対してきっと手を貸してくれるに違いない。


 翌日は季節外れの雪の降る中、仙台文学館を訪れた。初代館長は井上ひさし。特別展で『正岡子規・みちのくの旅~はて知らずの記』を見る。
“秋風や旅の浮世のはてしらず”
を手帳に記した。


 宮城にしろ岩手にしろ、井上ひさしにとっては切ってもきれない土地。幸いというべきだろうか、彼は昭和三陸地震(一九三三年)と東日本大震災の大きな地震をどちらも知らないで逝った。対照的に宮沢賢治は明治三陸地震(一八九六年)の年に生まれ、昭和三陸地震を見て亡くなった。井上ひさしが生きていたらどんな思いであの津波の光景を見つめただろう。
 藤原清衡が現世における浄土を表す寺院として建てた中尊寺、宮沢賢治が求めた地上のユートピア、井上ひさしの吉里吉里国、それと今復興に向けて歩もうとしている被災地の姿が旅を終えてひとつに繋がった。
ちなみに井上ひさしの『ひょっこりひょうたん島』の登場人物は、本当は全て亡くなった人たち(幽霊)だ。みんなでユートピアを探し、幽冥界をはじめとしていろんなところに行く。あの日海に消えた人たちの思いを込めたまちづくりを願わずにはいられない。

(文・夢、写真・松)