IWCK.猪苗代ウィンドサーフィンクラブ風の又三郎

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キリシタン殉教の地(岩手県藤沢町大籠)

2022-07-05 21:06:44 | 歴史の欠片

 

 

かねてから来たいと思っていた大籠キリシタン資料館!

かなりの辺境の地で周りは山々に囲まれていた。

暑い日差しが容赦なく射して、道端のあちこちにタチアオイの花が所々に咲いていた。

また、この地域には住んでいるのかいないのか数軒の藁葺き屋根の家が残っていた。

資料館で15分ほどのキリシタンに関するビデオを観た後、300段もある階段を登って行くとクルス館がある。

 

見おろせば低い山並みに囲まれている辺境の地である!

この地で確か340人以上のキリシタンが迫害され殉教した。

 

資料館でもらった殉教の地を巡る。

A4版程の小さな地図にその遺跡が記載されてある。

半日かけて、その7割ほどを訪ねた。

動画に載せてないのや、かなり道幅が狭く草が茂って行けない場所もあった。

探しても見つけ出すことが出来なかった場所もあった。

 

暑いのと、ほんの小さな看板しか表示がないのでかなり苦労した。

今は忘れて去られた様に草が生い茂っていた所もある。

 

途中、尿意をもよおしたが、この様な迫害の地で立ちションをすることも出来ないので堪えた。

暑い中、4時間近く探し回ったので汗が吹き出て来る。

冷たい飲み物を飲みながら地図を頼りに走り回った。

 

殉教地を見た後、三陸沖を見ながら気仙沼の道の駅(上品の郷)に来た。

着いたのが夕方6時過ぎ!

この道の駅には温泉があって、汗だらけの体を流し休んでいたら8時過ぎた。

 

豪華な食事をと思ったが、ナビで探してもなかなか出てこないし、時間的に閉まっている所もあって見つけられない!

仕方ないのでラーメンでもと行ってみると閉店後だった。

 

すぐ近くにスーパーがあったので寿司を買って車中で食べた。

味気なかった。

 

ナビで調べたら自宅まで140Km!

今日はここで車中泊するよ!

一部区間だけ高速道路で来たが、休憩を入れると5時間かかった。

帰りも.気仙沼から4時間近くかかる。

 

明日は美味しい物でも食べて、何処か観光して帰りたいね!

やはり海が見える所にしょうっと!!

 


服部安休とキリスタン塚

2020-03-09 14:07:04 | 歴史の欠片
服部安休は織田信長の小姓で森蘭丸の孫!1672年会津領の神社管領に就任し1675年猪苗代の土津神社(はにつ神社)の初代神官となる。
直ぐ側のお墓には十字が刻まれたものがあった。

当時の猪苗代の殆どがキリシタンに改宗していたのだ。
キリシタン塚
ここより200メートル下に処刑場(猪苗代の町からスキー場の登り口。葉山温泉の入口付近)があって隠れ切支丹が処刑され、後にここに葬られた。





直ぐ上には土津神社がある。



亀ヶ城跡(猪苗代町)
天司のけやき(日本一の巨木)
天司の名はキリスト教弾圧の時代、隠れキリシタンが密かにこの木を信仰の対象として天守(ゼウス)を天司と偽って呼んだことに由来するものと言われている。



幹回りが15メートルもあるというけやき!
実際、どれなんだか分からずじまいだった。
幹の付け根の場所に小さい祠あると言われているが、探しても見つからなかった。☠️☠️














信達一揆

2020-03-07 11:24:04 | 歴史の欠片






江戸時代後期の1749年に、陸奥国、信夫・伊達(両郡(福島市周辺)にまたがり起こった大百姓一揆。

これは寛延一揆(彦内(ひこない)騒動)と言われている。

幕府領、桑折代官所に新たに赴任した代官、神山三郎左衛門が、管轄下の村々が大凶作もかかわらず、容赦なく年貢を増徴しようとしたのに対し、農民たちは減免などを求め68か村の農民が12月11日代官所を襲った。

指導者の伊達郡長倉村(伊達市)組頭斎藤彦内らは獄門・死罪、追放などに処せられたが、要求の多くは実現した。

福島市瀬上日枝神社(山王樣)がこの一揆の発祥地とされている。

農民一揆発祥の地 と 義民中村治右衛門

碑には以下のことが記されている。


江戸時代の半ば寛延二年(1749年)

天候不順により大凶作になったのにもかかわらず信達を支配する幕領桑折の悪代官神山三郎左衛門は過重な年貢の増税を言いわたした。

農民は困窮を極めたので、有名な天狗回状を回覧し、信達六十八か村百余人の百姓代が宮代山王社に参集した。

伊達長岡の斉藤彦内が先導し、山王権現のお告げであることを宣言し一揆を起こして減免を強訴することを協議一決した。

日本で最大規模の百姓一揆と言われている。

伊達長岡の斉藤彦内、鎌田の猪狩源七、伊達崎の蓬田半左衛門、宮代の中村治右衛門らを先頭に総勢一万七千人の農民が総決起し、桑折代官所へ押し寄せ強訴し年貢増税を中止させた。

その後代官所側の吟味は厳しく彦内、源七、半左衛門は死罪として処刑。

治右衛門は追放となった。

犠牲となって多くの農民を救い死罪となった三人は義民として広く世に顕彰されたが
我が地の中村治右衛門も主導者の一人であったので其の功績を讃えて顕彰し後世に伝えるものである。

       顕彰碑発起人会
ここから2.5㎞北に母の実家があって幼い頃は良くこの神社で休憩しながら歩いて実家に行ったものです。
当時は境内の敷地の檻の中に猿が飼われていました。😉😉😄


金曲一揆

2020-02-17 22:46:45 | 歴史の欠片
1749年、この年は梅雨が長引き、7月になっても寒気が襲い猪苗代地区は大凶作になった。
農民たちは食料に窮した。
その頃の磐梯山周辺では蕎麦ガエ、蕎麦焼きもち、蕎麦だんご等、3食の内1食は粉食でその他は木の根、草の根を食べ麦飯等はあまり食べられなかった。
飢饉になると餓死する者も続出し幼児の死亡率はかなり高かった。
金曲地区は猪苗代湖畔の志田浜と天神浜の中間にあるで、この地に端を発した農民の不満は猪苗代地方62ケ村に瞬く間に広がり会津藩主に強訴を決して立ち上がった。
猪苗代で上がったのろしは会津全域に広がり、数万人の農民が会津城下に迫った。
年貢半免、労役徴収の反対、郡奉行の罷免を求め手にナタ、鎌、鍬等を握り七日町木戸に押し寄せた。
数万人の農民が一斉に声を上げ、叫びせまり、その内の6百~7百人が木戸に殺到して扉を押し破り押し入ろうとした時、藩兵達が数十丁の鉄砲で一斉に射撃を始めた。
その煙が町内に漂い真っ暗になるほどだったと言う。
農民たちは鉄砲に驚き、逃げ惑い大勢の人が踏み倒されて圧死し、また鉄砲に当たり死んでいった。
農民たちは離散したが、この一揆の問題に藩も真剣に対処し農民たちの要求を受入れ郡奉行の罷免、年貢の減免を約束し一揆を治めた。
しかし、この一揆の首謀者300人を捕らえ死刑10名(刑の執行は火炙り、さらし首の極刑)追放、入牢、叱責280人と言う処分が下された。

※いつも天神浜でウインドをやってるオイラはつい最近その事を知ったのだ。😱😱💀

信達地方の石高と村の数!

2020-02-17 22:05:10 | 歴史の欠片
天正19年蒲生氏が会津に入部、そして慶長3年に上杉氏が会津に入り
会津地方、信達地方(福島県福島市及び伊達地方)を治めて福島城と梁川城がその中心的な拠点であった。

信達地方の総高は12万石であったが、上杉氏は荒地の開墾に力を注ぎ実質24万石はあったようです。

この時代の村の数は180村位だった。

寛文4年から信達地方は幕府領となり陣屋において代官が支配したようです。

その後、何代か後に代官になった拓殖氏が陣屋を福島から桑折に移し、これ以降様々な私藩私領が移封されて、1686年頃に福島十万石藩主堀田氏が106町を支配、1700年頃に桑折二万石藩主、奥州氏(松平氏)が20村を支配
1729年、梁川三万石藩主、松平義昌が入り30村を支配していた。

その後も信達地方は一万石から二万石位の小藩ができていったようです。