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信達一揆

2020-03-07 11:24:04 | 歴史の欠片






江戸時代後期の1749年に、陸奥国、信夫・伊達(両郡(福島市周辺)にまたがり起こった大百姓一揆。

これは寛延一揆(彦内(ひこない)騒動)と言われている。

幕府領、桑折代官所に新たに赴任した代官、神山三郎左衛門が、管轄下の村々が大凶作もかかわらず、容赦なく年貢を増徴しようとしたのに対し、農民たちは減免などを求め68か村の農民が12月11日代官所を襲った。

指導者の伊達郡長倉村(伊達市)組頭斎藤彦内らは獄門・死罪、追放などに処せられたが、要求の多くは実現した。

福島市瀬上日枝神社(山王樣)がこの一揆の発祥地とされている。

農民一揆発祥の地 と 義民中村治右衛門

碑には以下のことが記されている。


江戸時代の半ば寛延二年(1749年)

天候不順により大凶作になったのにもかかわらず信達を支配する幕領桑折の悪代官神山三郎左衛門は過重な年貢の増税を言いわたした。

農民は困窮を極めたので、有名な天狗回状を回覧し、信達六十八か村百余人の百姓代が宮代山王社に参集した。

伊達長岡の斉藤彦内が先導し、山王権現のお告げであることを宣言し一揆を起こして減免を強訴することを協議一決した。

日本で最大規模の百姓一揆と言われている。

伊達長岡の斉藤彦内、鎌田の猪狩源七、伊達崎の蓬田半左衛門、宮代の中村治右衛門らを先頭に総勢一万七千人の農民が総決起し、桑折代官所へ押し寄せ強訴し年貢増税を中止させた。

その後代官所側の吟味は厳しく彦内、源七、半左衛門は死罪として処刑。

治右衛門は追放となった。

犠牲となって多くの農民を救い死罪となった三人は義民として広く世に顕彰されたが
我が地の中村治右衛門も主導者の一人であったので其の功績を讃えて顕彰し後世に伝えるものである。

       顕彰碑発起人会
ここから2.5㎞北に母の実家があって幼い頃は良くこの神社で休憩しながら歩いて実家に行ったものです。
当時は境内の敷地の檻の中に猿が飼われていました。😉😉😄


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