部屋よりさらに薄暗い階段を登る。
手入れは行き届いているものの、やはりかなりの年代物なそれは、いちいち俺の歩みに抗議の声をあげる。
二階には大小合わせて六つの部屋があり、Jr.が一番見つかる確率が高いのは、奥の左の部屋だ。
なので俺は、何時もひとまずそこを目指す。
前の屋敷に比べれば何分の、いや何十分の一か。
それでも普通の家よりずっと広い。
廊下を歩く俺の脳裏には、これまでの奴との記憶ーー思い出、と呼ぶには明るさと密度が足りない気がするーーの断片が浮かんでは消える。
とはいえ、数だけはそれなりに及ぶが、場所は室内のみだし、登場人物もJr.だけ。
写真にして並べたら、きっと自分でもいつの事なのか、一つもまともに答えられない自信がある。だがそれでも、良く思い出す記憶と殆ど思い出せない記憶。そう区別出来る程度の違いはある。
例えばこんな記憶ーー。
屋敷の一角。Jr.の部屋に通された俺の目にまず留まったのは、本やら新聞やら、様々な紙で出来た山だった。
そして目的の部屋の主は、しかめっ面でその山の一部なのであろう分厚い何かを、ペンを片手に読んでいた。
「お勉強中か?なら今日は帰ろうか?」
「え、ああ、お前・・・。いや、丁度、そろそろサボりてぇなって思ってたとこだよ」
そう言って、にこやかに俺を迎え入れた奴の軍服は、何時もの緑ではなく黒だった。
「珍しい色だな。一瞬別人に見えたぞ」
「ああ、これ?午前中、葬式だったんだ」
「葬式?」
「そう、部下の一人の。って言っても、顔見たの今日が初めてだったんだけどさ」
服の色と話す内容。それらとJr.の口調とのギャップが余りに大きすぎて、一体どう反応すればいいのか量りかねていた俺に、奴は胸ポケットから小さな銀色の何かを取り出して見せた。
「これは・・・徽章か?」
「ああ。持ち主が死んだら、頭首が棺を埋める直前に回収するってルール・・・慣習?、なんだ」
そう言ってしばらく手のひらの上の徽章を見つめていたJr.は、再びそれをポケットに仕舞うと、俺が腰を下ろしていたソファの隣に座った。
「先月も一つ回収したんだ。だから、これで・・・徽章を持つのはとうとう俺一人って訳」
「・・・・・・そっか」
「うん。まあだから、いよいよ俺が頑張るしかねぇみたいでさ。・・・で、この有様」
と、苦笑を浮かべた隣人が指差した先には、さっきの紙の山。
「ただ、興味がねぇもんを覚えるのって、倍疲れるんだよなぁ」
「まさかあれ全部か?てか、一体何の資料なんだ?」
「法律とか経済とか・・・あと、なんか分からねぇけど歴史ぽい何か?偉い爺さん達と話するのに、これくらい知ってた方がいいって」
「社交界の嗜(たしな)みってやつか?ロビンじゃあるまいし、お前のイメージじゃねぇな」
「俺もそう思う。でも、ファ・・・親父もやってたって言われたら、黙って頷くしかねぇしさ」
そう言い終えると、さっき徽章を仕舞った胸に手を当てたJr.は、軽く溜息をつきながら目を閉じ、そして再び俺に向き直った。
「まあ、一族最後の超人だし、やれるだけの事はやるさ」
また、こんな記憶ーー。
あの最後の戦いから久しく行われていなかった正義超人のファンイベント。そのフランス大会に参加した俺は、終了後その足でJr.を訪ねた。
アメリカから始まり日本で終わる大掛かりなそれに、全参加を打診されていた俺だったが、流石に海を超えるのは面倒で、近場のみの参加で勘弁してもらっていた。
そして案の定だが、Jr.の姿は何処にも無かった。
「へぇ、じゃあ結構盛り上がったんだ」
「ああ。仲間で俺の他に参加してたのはウルフだけだったがな。奴、残念がってたぞ。久しぶりにお前に会えるって、楽しみにしていたらしい」
「はは・・・それは悪い事したな」
他愛ない調子での会話。
だが俺の内心はかなり揺れていた。
Jr.との、この妙な関係が始まってから、二人の間で具体的に仲間の話をするのは、これが初めてだったからだ。そしてもちろん、俺はJr.の事を仲間の誰にも、ただの一度も口にしてはいなかったーーというか、色々な意味で言える訳がない。
そんな、実は中々にデリケートな話題。
俺は感付かれるのも承知で、普段以上に普段通りを装っていた。
「だが、お前のところにも要請は来ただろう。都合はつかなかったのか?」
「え・・・ああ、ちょっと無理だった」
「・・・反対されたか?」
「まあ、それもあったけどさ。けど、俺じゃなくても、他にもドイツの超人は居るし、もうそんな出しゃばらなくてもいいかな、って思って・・・さ」
「何言ってやがる。国じゃ、決勝トーナメントまで残った、元オリンピックの代表だろう?」
もしかしたらこの言葉は、とんでもなく奴を傷付けていたのかもしれないーーが、その事に気づいたのはずっと後のことだ。
俺の言葉に一瞬目を泳がせたJr.。
しかしすぐに気を取り直し、俺に苦笑混じりでこう言った。
「・・・でもまあ、俺、人間だしさ」
そして、そこそこ最近の記憶ーー。
深く深く、己をJr.の体に沈め、欲を放つ。
そして自分の手の中で解放を求め続けていた奴の中心に、望むものを与えてやる。
何となく流れのまま、床の上で抱き合い事に及んだ俺達は、しばらくその余韻に浸り、やがてどちらともなくのろのろと体を起こした。
季節は夏に差し掛かる手前だったが、夜はまだ冷えた。窓から入ってきた風に、小さく震えた白い体を、俺はまだ熱が残る自分の腕で包んでやった。
そんな折、ふいに思い出したようにJr.が口を開いた。
「なあ・・・前から聞こうと思ってたんだけどさ」
「何だ?」
「お前もさ・・・あの戦いで死んで、そのあと生き返ったじゃん」
「ああ、そうだな・・・それが?」
「生き返って・・・でも、この体って、本当に俺達の体なのかな」
「・・・?どういう意味だ?」
自分の腕の中に収まるJr.の視線は、開いたり閉じたりを繰り返す奴自身の手に向けられていた。
「俺達のじゃなきゃ、誰のものなんだ?俺は今、確かにお前を抱いてる。それが幻かなんかだとでも?」
「いや・・・どう言ったらいいのか、俺も分かんねぇんだけど・・・。ただ、ずっと疑問に思ってて」
「何をだ?」
「戦った時の傷が・・・無くなってること」
奴に問われるまで、全く気にした事も無かったその疑問。
部屋の片隅に置かれた古い室内灯の、その頼りない光を頼りに、Jr.の右肩を探った。
確かカーメンとの戦いで大怪我を負ったそこには何の痕跡もなく、ただ滑らかな曲面が広がっていた。
次いで俺は思い付くまま、自分の鎖骨の上あたりーーキン肉マンとの戦いで、俺が自ら抉(えぐ)った傷があったはずの場所ーーを手でなぞってみたが、そこにも、特に引っかかる感覚は無かった。
「そういや・・・無いな。んな事、考えもしなかったが・・・」
「うん。傷はあっても、全部、生き返ってからのやつなんだよな・・・。特に腹とか・・・俺、かなり派手にやらかしただろ?」
「ああ・・・そうだったな」
「けど何故か、全部無くなってる・・・」
「・・・」
そう言いながら自分の体を、そして今度は俺の二の腕や胸に手を這わせる奴に、俺は何と声を掛けて良いか分からず、ただ奴を抱く腕に力を込めるしかなかった。
「タダで生き返らせてもらっといて。それで・・・こんな文句言うなんて、罰当たりだよな・・・って思って、何となく言わずにいたんだけど・・・」
「・・・」
「けど、実は、結構前から・・・頭から離れなくて・・・さ。確かに形も力も同じだし、普通に動くし、それに・・・」
「・・・」
「それに、相変わらず・・・徽章の力を借りなきゃ超人でいられない。だから、やっぱそれって、俺が俺って証拠なんだけど、でも・・・」
「・・・」
「前と違う・・・んだ」
「・・・違う?」
「うん。ちゃんと言えなくて・・・悪りぃけど。でも・・・一つ、確実に・・・・・・違う」
Jr.がこんな風に、途切れ途切れに言葉を続ける。
それは大抵答えの出しようのない内容で、よって殆どの場合、俺はただ聞いてやる事しか出来なかった。
だがこれだけは、長年の付き合いで感じてーー確信してーーいた。
奴は今、泣きたいのだ。だが、肝心の涙が出てこないのだ。
「俺・・・今の俺って、一体”何”なんだろう」
残念ながら、それにはっきり答えてやれるのは神しかいない。
迷える哀れな仔羊ならぬ牛は、腕に一層力を込める事しか出来なかった。