代わりにはなり得ないだろう。
だが私は私の方法で、それを成そうと決意した。
病院の屋上。
既に体は回復していたが、一応入院という名目でここに滞在していた私は、本来関係者以外立ち入ってはならないその場所で、同室の男と汗を流していた。
オリンピックの準決勝を明日に控え、軽めの調整をしようと部屋を抜け出そうとした私に、その男が同行を申し出てきたのが今から何刻前だっただろうか。
暫しの思案。だが組み手の相手が得られるのは好都合だったし、何より、少し照れ臭そうに泳いだ軍帽の下の目がとても好ましく思えた事もあり、私はその申し出を有難く受けたのだった。
上着を脱ぎ、二人、未だあちこちに包帯を巻いた体を並んで動かす。
始めは確かに自分の調整を手伝って貰っていた。
だが次第にその目的は軌道を外れ、いつの間にかこの男への稽古指導の時間となっていった。
太陽は暖かく、風が体の汗を優しく撫でてゆく。
そんな空の下、屋上の床を蹴る音、そして体が体を打つ音が、心地良く響き渡る。
ーー本当に、今日は良い天気だ。
経緯を思えば、こんなに急速に打ち解けるというのも何処か妙な心地がした。
照れ臭い。しかし、それ一言では説明の付かない、甘やかな一方でどこか胸の痛みを伴うようなーー、これまでの修行と格闘漬けの人生で一度も感じた事の無い類(たぐい)の感情が、己の奥底に芽生えていた。
ーー何とも説明に困る・・・だが、悪い心地では無い。
全ては成り行き、なのであろう。
ならば無理に逆らわず、流れに任せてみるのもまた一興。
しかし確かなのは今、私は目の前の男ーーブロッケンJr.ーーと過ごすこの奇妙な時間を、心から楽しんでいた。
「はぁ・・・やっぱあんたには敵わねぇなぁ。もっと基礎からやり直さねぇと駄目なのかな」
「そうだな。足の使い方をもう少し工夫した方がいい。だが、年の割に筋はいい。技術を磨くには、それなりの時間と経験も必要だからな」
「ホントか?」
「ああ。同じ格闘家同士、世辞は言わんよ」
実戦を模擬した手合わせ。
もちろん超人同士なので、余計な寸止めなどはしない。
左から、右から。様々な方向から緩急織り交ぜ、必死に攻めるも遂に息が続かなくなったJr.に、私は暫しの休憩を提案していた。
座り込み、通用口の扉がある壁に背を預け息を整える若い男。その正面で僅かな汗を浮かべ平然と立つ年上の男に悔しさを隠しもせず、しかしそんな自分を見る目にはもう、かつての憎悪は微塵も宿ってはいなかった。
ーー本来、お前はこういう顔なのだな・・・。
つい数日前まで、私への復讐心以外のどんな表情も見せなかったJr.。
だが今や、まさに憑き物が取れたかのようなその顔は、年齢以上に幼く映るほどに、屈託無く晴れ晴れとしていた。
息は大分落ち着いてきたようだが、まだその体は薄ら赤身を帯びていた。
平時では包帯との境界が分からない程白い肌。一切陽光を浴びないようにしたところで、ここまで見事な色と質にはなりはしまい。
そこに刻まれた両肩の刺青も精悍ではあるが、一方で何処か惜しい心持ちになる程、それは美しいものだった。
血が成した珠玉。
改めて、此奴は確かにあの男の子供なのだと思った。
絶え間無く吹く穏やかな風のお陰で、身の内の熱も完全に落ち着いていた。
部屋に昼食が運ばれてくるまでには、まだ幾許(いくばく)の時間がある筈。
ならば、もうひと手合わせしても良いかと、目の前に座るJr.に声を掛けようとした。だが不自然に肩を動かす奴の姿を見て、私は違う言葉を掛ける事にした。
「まだ痛むのか?」
「え、ああ・・・大丈夫。全然痛くはねぇよ。ただちょっと、引っかかるような感覚があっただけさ」
「無理は禁物だぞ。必要に応じて安静を選択するのも、格闘家の大切な務めだ」
「それを言うなら、あんたこそ平気なのか?明日試合なのは俺じゃなくてあんただぜ。てか、逆に俺の練習に付き合わせてるみたいになって・・・楽しかったけど。本当にもう、何処も痛くねぇの?」
「先日も言ったが、私は特に回復が早い体質でな。それに、血が止まりさえすれば、動いた方がさらに治りも良くなるのだよ」
「へぇ・・・」
感心ーーよりももう一段上を見るような特別な眼差しを自分に向けたJr.。
自分と私との違いを、今度は悔しがるというより驚いていると表現した方が妥当な顔で、私の体のあちこちに視線を向けていた。
「すげぇな。一流の超人て、みんなあんたみたいなのか?」
「いや。どちらかと言えば私が特異なのだろうよ。だが・・・確かにお前は少し回復が遅いようだな」
「二流で悪かったな」
「はは、そういう意味ではない。独特の気の流れとでも言うのか・・・それこそ、お前の体質によるものだろう。歯痒いかもしれんが、こればかりは鍛えても、格段にどうにかなるものでもあるまい」
「・・・そんなもんなの・・・か?」
「ああ。体を流れる気にも二種類あってな。戦いに必要な気は鍛える程増すが、治癒に必要な気は違う。体を癒す気はそれぞれが生まれた持った・・・と、つまりは体質だな。それより違和感は肩だけか?足の動きが悪かったのも、怪我の影響ではないのか?」
「・・・・・・え、ああ・・・」
「お前は超人にしては少し骨が細い。もちろん、まだ成長期だから致し方ない部分もあるだろうが・・・。身長が落ち着いたら、もう少し下半身の筋力を増やしてみるといい」
「・・・」
「そうすれば体の動きもさらに良くなるだろうし、今より怪我もしにくくーーーーどうした?」
ふと湧き上がった老婆心に、ついつい饒舌になってしまっていた私の言葉の何かに、思い当たる事でもあったのか。
「・・・」
「何だ・・・どうした?」
まるで、この男の周囲だけ時が止まってしまったかの様に。
Jr.は真っ直ぐ私の目を見たまま、全く、微動だにしていなかった。