沖縄対策本部

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沖繩対策本部長■ 琉球処分とは琉球庶民の救済である

2011年11月06日 16時50分12秒 | 沖繩の歴史

 

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■ 琉球処分とは琉球庶民の救済である 

■「琉球処分」とは非常に平和的な国家統一事業だった 

歴史書では明治時代に琉球王国が廃止され沖縄県が設置された事を「琉球処分」と称しています。それはあたかも日本政府が琉球国の住民の意思を無視し武力で琉球王国を滅ぼしたかのような印象を与えています。しかし、「琉球処分」といっても実際には日本軍により殺害された人は一人もいません。沖繩県が設置された翌年の明治13年、日本への服従を嫌って清国へ救援を訴えに密航した親清派の人々がいます。清国に脱出した琉球人の事を「脱清人(だっしんにん)」と呼んでいます。幸地、国頭、二人の親方は脱清人を率いて福建省総督に面会し、首里城落城を訴え救援を求めました。総督は「日本兵は何万人か、琉球人の殉死は何百人いたのか」と問いました。その質問に対し幸地は答える言葉がありませんでした。何故なら日本兵はわずか450人、殉死者はおろか戦死、自決は一人もおらず無血の首里城明け渡しだったからです。それは戊辰戦争、西南の役で1万人以上の死者を出した明治維新と比べても非常に平和的な国家統一事業だったのです。


■朝命の遵奉の決断を下していた尚泰王 

実は当時の琉球王、尚泰王は、進んだ思想の持ち主でした。彼の側近にも世界情勢をよく見えている役人が複数いました。例えば「自ら進んで版籍奉還する事が国益である」と首里王府に提案した待講の津波古政正や、「琉球が生き延びるには日本の一部になるしかない」と考えていた三司官の宜湾朝保などです。尚泰王は彼らから世界情勢を学んでいたのです。そのため、日本政府から清国との朝貢・冊封関係を断つよう勅命がくだされ議論が紛糾する中、「朝命を遵奉すべし」と決断し命令を下しています。しかし、頑固党と呼ばれる親清派閥の勢力から圧力を受け王命を撤回させてしまいます。彼らは琉球国民のためではなく、既得権益のために王国を存続させたかったのです。残念な事に尚泰王の優柔不断さの結果、日本政府は強行的な手法を取らざるを得なくなってしまったのです。

 

■「琉球処分」とは親清派琉球士族の処分であり琉球庶民の救済である 

沖繩のマスコミでは日本政府が米軍基地を沖縄県に押し付けることを第二の琉球処分とか第三の琉球処分などということがあります。この表現は事実と全く異なっています。琉球処分の「処分」とは既得権益を求めて日本への服従に対して抵抗運動を執拗に続けていた親清派の士族グループに対してであり、一般の琉球国の住民に対してはむしろ救済だったといえます。松田道之は、沖縄県を設置する任務で沖繩に派遣されました。彼は密偵を使って庶民の実情を把握して居ました。その密偵からの報告によると「士族の4割は内地の新政を望んでいるが、口にするのを恐れている。」「平民は琉球藩の過酷な政治を恨み日本の直轄を望んでいる。」ということでした。実際、琉球処分前の沖繩では、寺小屋もなく農民は字の読み書きも習うことができず、農奴のような生活をしていました。それが、沖縄県の設置以降は、農民も学校に通えるようになりました。これにより沖縄でも身分制が廃止され、努力しだいで誰でも出世できるようになったのです。 

現在、首里城祭などでは華やかな王朝文化を再現していますが、琉球国の庶民全員がこのような華やかな文化を満喫していたわけではありません。首里城の華やかさは朝廷だけのも庶民には全く関係の無いことだったのです。逆に庶民はこの朝廷が冊封や朝貢で華やかな儀式を行うために大きな税負担を強いられていたのです。

(仲村覚)


<尚泰王(しょうたいおう)>ウィキペディアの解説

http://p.tl/xSey

1843年8月3日(道光23年7月8日) - 1901年8月19日)は、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王(在位:1848年6月8日 - 1872年10月16日)、後に日本の華族として琉球藩王(在位:1872年10月16日 - 1879年4月4日)、侯爵。童名は思次良金。父は、第18代国王尚育王。

1848年6月8日(道光28年5月8日)にわずか4歳(数え年では6歳)にして即位した。

1853年(咸豊3年)にはペリーが琉球に来航し、翌1854年に琉米修好条約を締結した。さらに、1855年には琉仏修好条約、1859年には琉蘭修好条約を結んだ。

元来、琉球は日本と清(中国)に使を送り独自性を保っていたが、他府県の廃藩置県も済んだ翌年の1872年(同治11年、明治5年)に、日本は強引に尚泰を琉球藩藩王に冊封し、東京に藩邸を与えた。然うして1879年(光緒5年、明治12年)の琉球処分により琉球藩に沖縄県が設置されると、藩王の地位を剥奪され居城の首里城も追われ、琉球王国は消滅した。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、華族として明治政府より東京在住を命じられた。尚泰の次男尚寅、四男尚順は後に沖縄に帰ってきている。

のち華族令の発令に伴って尚泰は侯爵となった。1901年(明治34年)に59歳で没。墓所は沖縄県那覇市の琉球王家の陵墓・玉陵(たまうどぅん)。なお、尚家は現在も存続している。

「命どぅ宝」は尚泰王の言葉と言われることもあるが、本来は演劇中のセリフである。


<津波古政正(つはこせいせい)> 朝日日本歴史人物事典の解説

http://p.tl/o0dh

生年: 尚【外6BB4】13.8.21 (1816.9.12)  没年: 尚泰30 (1877) 

幕末琉球の政治家。首里の士族家の生まれ。中国名は東国興。北京の国子監に留学し,帰国後さまざまな職を歴任したのち尚泰王の国師(教授役)となる。理知的でバランス感覚を持つ政治家として知られる。明治政府による琉球処分(沖縄県設置)の動きをめぐって王国内部が紛糾した際も常に冷静な判断を王に意見具申したが,激動の渦中で死去したため,その資質は十分に生かされなかった。高弟に『琉球見聞録』の著者,喜舎場朝賢がいる。 (高良倉)


<三司官 宜湾朝保(ぎわんちょうほ)>1823~1876 JCCweb美術館より

http://art.jcc-okinawa.net/rekishi/giwanchobo/

宜湾朝保尚灝20年(1823年)3月5日 - 尚泰29年(1876年)8月6日)は、琉球王国末期の著名な政治家で歌人。当時の正式な呼称は宜湾親方朝保。

琉球藩を受け入れた 王国最後の政治家

十九世紀中葉、日本が明治維新を成し遂げた激動の時代。
若くして琉球政治の最高職・三司官に就任した宜湾朝保は維新を祝う使者として東京に派遣された。そこで新政府から琉球を日本の藩とし、国王・尚泰(しょうたい)を藩王とする詔勅が下され、使者一行は驚くが、宜湾は世界の大勢とと自国の立場を鑑みこれを受諾した。以降、琉球を日本に取り込むための施策、所謂(いわゆる)琉球処分が段階的に行われていった。
亡国の危機に瀕した琉球王府では議論が沸騰したが、宜湾はこの様子を「衆官の議、もっぱら己の門閥(もんばつ)を保つを先にする」と評し「ただ国家を安んずる」ために多難な琉球を新しい時代に導こうとした。しかし親清派の士族達からは「売国奴」と呼ばれ、激しい非難の集中砲火を受けたため病に伏し、やむなく三司官を辞した。彼が憂悶のうちに没したその三年後、強権的に琉球王国は廃され沖縄県となった。

「野にすだく 虫の声々かまびすし たが聞き分けて品定めせむ」  宜湾朝保

宜湾朝保は当代一の国際感覚を持った政治家であり、琉球最大の歌人とも称された文化人だったが、失脚後は不遇な晩年を送った。


 

<尚泰王(しょうたいおう)> <宜湾朝保(ぎわんちょうほ)>

                

 

 


<参考文献>

 

     




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沖繩対策本部長■【拡散依頼】チャイナネット日本語版に掲載された捏造された沖縄の歴史

2011年11月06日 16時22分53秒 | 琉球独立工作

 

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■チャイナネット日本語版に掲載された捏造された沖縄の歴史

チャイナネットに写真35枚を使って捏造した沖縄の歴史を紹介しています。

無断転載を禁ずると書かれているのですが、あまりにもひどいので、このブログにそっくりそのまま無断転載をする事にしました。

このサイトの歴史によると沖繩の歴史は、3つの時代にわかれており、最初が明王朝の属国だった「明王朝藩属国時代」、そして次に秦王朝の属国だった「清王朝藩属国時代」そして、日本政府により沖縄県が設置されてから現在に至る期間が「後琉球王国時代」だそうです。

琉球国は明・清と冊封・朝貢関係にありましたが、それが属国になる事を意味するわけではありません。

今後、捏造にしっかり論破できるだけの歴史的事実を明らかにしていく予定です。

今、私たちが知らなければならない事は、中国共産党は中国国内に向けて「沖繩は中国の属領だ!」という宣伝工作を行っているということです。

彼らが嘘をつくには必ず明確な意図があるはずです。つまり、沖繩を直接的、間接的に侵略する大義名分を作っているということです。

沖縄県民はこの事実を1日でも早く知らなければなりません。

 

■清戦争前と同じ課題と対峙している沖繩

日清戦争前にも中国と日本は琉球の主権について衝突しており、その時にも清国は「琉球は古来より清国のものだ」と主張していました。

その時に、親清派の人たちの中には、清国に密航して亡命し琉球王国の復国を要請したり、様々なロビー活動を行った人々がいます。

そのような人を脱清人(だっしんにん)と呼ばれています。

当時の琉球国の人々は日本語は理解できたけど中国語は理解できなかったのです。それにもかかわらず自らの既得権益のために琉球国の復国を清に要請した人々がいたのです。


■今、沖縄県民の態度が問われている

今中国は軍事力を急速に拡大し沖繩を狙っています。このような時にもし、脱清人(だっしんにん)のような人が沖繩に存在すると中国人民解放軍が沖繩につけいる隙を与えることになります。中国は過去の歴史を踏まえて「日本は琉球国を不当に植民地化し、日本と同化政策をとっている」と主張する事が可能になります。

沖縄県の領土問題、主権問題は国家の問題だから日本政府に任せておけば良いという考えも大きな間違いです。

無条件に中国から観光客を呼び込み仲良くし、中国とともに発展すること事が沖繩の未来をつくると思ったら大きな間違いです。

沖繩の未来は、日本と共に発展する中にこそあるのです。

沖繩は日本防衛の最前線です。沖繩を守ることこそ日本を守ることです。

そして、沖繩を守るためには、沖縄県民の態度こそが最も重要なのです。

誇りある日本人として、誇りある沖縄県民として、来年の祖国復帰40周年を盛大に祝い、来年秋の天皇皇后両陛下の行幸啓を沖縄県民総出でお迎えすることこそ日本の未来を造ることになると確信しています。


(仲村覚)

 

 

PDF版ダウンロードはこちらから http://p.tl/HlaR

 


図説「琉球の過去と現在」(35枚)

http://japanese.china.org.cn/photos/2010-10/29/content_21229554.htm

タグ: 明王朝 太祖 朱元璋 琉球

発信時間: 2010-10-29 13:11:05 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

瑞泉。国王が中国の冊封を受ける際にだけ、この水が供された。

 

12世紀、琉球諸島の南部、中部、北部に、それぞれ南山、中山、北山の三国が現れる。


明王朝藩属国時代

 

1372年、明王朝の太祖・朱元璋が中山王・察度に詔勅を発布。北山、中山、南山の三国が明政府に朝貢し、琉球は明王朝の藩属となる。

1392年、朱元璋の命により、福建省出身の造船・航海に長けた技術者、三十六姓が琉球に移民。

1416年、中山王・尚巴志が北山を征服。

1429年、中山王・尚巴志が南山を征服し、統一王朝の琉球王国が誕生(第一尚氏王朝)。琉球と明王朝の藩属関係により、琉球の各代国王は明王朝の冊封を受けなければならなかった。

1470年、第一尚氏王朝が滅亡し、尚円が第二尚氏王朝を樹立。明王朝の冊封を受ける。

1400年‐1550年、琉球王国の黄金時代。商業が高度に発達し、中国、朝鮮、東南アジア、日本と貿易を行う。

15世紀‐16世紀、大量の海賊“倭寇”が琉球諸島を荒らし回る。

1609年(万暦37年)、豊臣秀吉の対外拡張政策を引き継いだ徳川家康は、琉球王国に近い鹿児島の薩摩藩・島津家久率いる3千人の兵を派遣し、琉球を侵略。琉球国王を捕虜とする。


清王朝藩属国時代

 

東京を訪れた琉球国の使者

1654年、琉球国王は中国の清に使臣を派遣し冊封を求める。清王朝の順治帝は尚質王を琉球国王に封じ、琉球は清朝の藩属となる。

1853年5月、米国海軍准将・ペリーの艦隊が琉球に来航。

1854年3月、ペリーは日本と「神奈川条約」を締結。ペリーは日本に対し、琉球の那覇港の開放を求めるが、日本側は「琉球は遠い国であり、日本側にはその港の開放を決定する権利はない」とした。

1854年7月11日、ペリーは日本との交渉が終了した後、琉球へと急ぎ戻り琉球国政府と交渉。最終的に、中国語、英語の2言語で正式に条約を締結し、那覇港が開放される。

1866年、最後の琉球国王、尚泰が王位を継承。

1872年、日本は琉球王国が日本に属する“内藩(令制国)”であり、琉球諸島は日本の領土であると宣言。1372年に始まる中国の琉球に対する宗主国の地位を認めず公に琉球を侵略し、かつ、中国との琉球問題の交渉の引き延ばしを図る。

1875年7月24日、日本は琉球国王に対し、清王朝への朝貢の停止を強制。

1879年3月30日、日本は最後の琉球国王・尚泰に上京を命じ、琉球に沖縄県を置く。琉球王国は滅亡する。


後琉球王国時代

 

 

昔の琉球人の婚礼

1879年、日本と中国が琉球問題についての交渉を開始。中国側は琉球諸島を3分割し、日本に近い奄美大島を日本の領土、琉球本島及び付近の島々を独立した琉球王国とし、南部の先島諸島を中国の領土とする案を提示。日本側は琉球を2分割し、琉球本島及びその北方の島々を日本の領土とし、南部の先島諸島を中国の領土とすることを提案。(交渉では魚釣島の帰属については触れなかった)。

 

1880年9月、中国側は交渉の最後に妥協して、「分島・改約案」に署名。日本が提案する方法で琉球を二分するが、清朝皇帝はこの不平等条約への同意を拒み、中国側代表に日本との交渉の継続を指示。その後、日本側が去ったため、交渉は決裂。

1882年、天津領事・竹添進一郎が清政府と琉球問題の交渉を再開するが合意には至らず、琉球問題はそのまま日清戦争まで持ち越される。

1894年‐1895年、日清戦争の後、敗戦国となった中国は台湾、澎湖諸島を割譲し、琉球諸島問題については発言権などなかった。以降、琉球諸島が一つの国家であり、中国の藩属国である事実は忘れ去られる。

1898年、日本は琉球人に兵役を強制。

1901年、最後の琉球国王・尚泰が死去。

1916年、全沖縄教師大会は沖縄の教師に、学校で琉球語を使用した生徒を侮辱的な方法で罰するよう要求。

 

 

 

官職

1945年、第二次世界大戦の後期、米国が琉球本島に侵攻し、日本兵は琉球人に崖から投身自殺するように迫り、或いは、洞窟の中で食糧不足になる不安を減らすため大人しく撲殺されるよう迫った。また、琉球語を使用する者をスパイ嫌疑で殺害。戦争で琉球の人口は1/4に減少する。

1945年-1972年、米国の占領期、米国は琉球で異化政策を実行。米国の琉球占領に対し、中華人民共和国は「この諸島は米国が不法に占拠する日本の領土である」との態度であった。

1947年4月、国連は「旧日本委任統治島嶼に関する協定」により、北緯29度以南の琉球諸島及び元は中国に属していた釣魚台諸島(尖閣諸島)を米国の信託統治領とする。

1951年、日本と米国は中国代表が不参加の状況で「サンフランシスコ平和条約」を締結し、琉球諸島と合わせて魚釣島の施政権を日本に譲渡。しかし、土地の主である琉球の人々はこれに反対し、大通りに集まって涙を流した。

1972年5月15日から現在までに、日本は再び琉球諸島に対する統治を回復し、同化政策を実行し続けている。琉球諸島は現在も日本の47地方自治体の中で経済的には最下位にある。

 

普段着と礼服

 

 

尚王

 

(転載おわり 以下省略)

 


 

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