自燈明・法燈明の考察

記憶と自我の関係性など

 今日は天気も良く、昼間は嫁とランチかたがた散歩に出かけてきました。まあ「緊急事態宣言」の下ですが、河川敷には人が多く出ており、やはり人間とは外に出ないと生きていけない生き物なんだなと思うと共に、これから先の新型コロナ禍の社会とは、一体どうなっていくのか、少し思いを馳せてしまいました。

 政府は今の処、21日に緊急事態宣言の解除を行う方向で進んでいるそうですが、そこに何んらかのそれらしい理由を付けている様です。しかし要は感染拡大を止める事に対して「打つ手なし」と、ほっぽり投げする感じなのではないでしょうか?
 しかしそのくせ「東京オリンピック」の開催だけには妙に前向きな処に、私なんかは日本の政治の暗部を感じています。

 やはりこれからの日本、いや、世界では一人ひとりが「賢明」に生活をしていく以外には道は無いのかもしれませんね。単にマスコミの報道や政府の情報を鵜呑みにせず、どの様に生活したら生き残れるのか、真剣に考えるべき時代に入ってきたのかもしれません。

 さて、前置きはともかく今日は「記憶と自我」に関して、今思っている事を適当に書き綴ってみたいと思います。お時間のある方はお付き合い下さい。



 大乗仏教の成立について、今日は少し読みふけっていました。大乗仏教の成立は諸説ありますが、1世紀頃で、その教義体系をまとめたのは龍樹だとありました。この龍樹とは2~3世紀頃に活躍した龍樹菩薩の事ですね。そして龍樹の思想を元に成立したのが「中観派」であり、この思想は「空」の概念をもった思想だと言います。またこれと同じく大乗仏教のもう一つの主流派に「瑜伽行唯識派」というのがあり、こちらは無著菩薩や世親菩薩が体系化した教えだと言われています。

 ものすごく簡略化して、この両派について説明すると、中観派はこの世界について、互いに異なる事象(明暗・冷温・遅早・短長・軽重など)に依存して成り立っていると考えており、この相反する事の片方でも無くなると、差異を判別できなくなる事から、もう片方も成り立たないという事に焦点をあて、そこから全ては「縁起」であり「無自性・無我」であると主張しています。一方の瑜伽唯識派では阿頼耶識が全ての事象を生み出しているという観点に立ち、最終的には阿頼耶識も「空」という事だと主張していて、この思想は法相宗へと継承されていると言います。

 これは何かとても興味深い事を述べていると思いました。

 最近、五十代になって思う事ですが、例えば二十歳から今までの事を思い返す中で「とても短い期間でありながら、この人生で様々な事を経験してきたな」と思う事があります。しかしその一方で、二十歳の時に経験していた「自我(自分)」と、五十代になった今の「自我(自分)」というのは、果たして同じ存在なのかという事を考えたりもするのです。

 確かに二十歳の時に経験した事を、五十代の私は如実に思い出す事が出来ます。しかしそれはあくまでも「記憶」の話であり、その記憶にある出来事を経験した自我と、今の私の自我がまったく同じだという事を、自分の中でも証明は出来ないのではないかと感じる事が度々あるのです。そう感じる理由の一つに、過去の出来事で当時感じた事と、その記憶を元にその出来事に対して、いま感じる事という事の中身が微妙に異なっているという事が多々あるのです。

 こんな感覚、皆さんの中にはありませんか?
 果たして私だけなんですかね。。。

 過去の自分と現在のこの瞬間の自分とを、強く結びつけ「自我」の同一性を持たせているのは「記憶」です。ただその記憶をリアルタイムに感じていた自分自身と今瞬間の自分というのは、本当に当時と一貫性のある「自我(自分)」であるのか、そこにちょっとした疑問を持つ事があります。

 そもそも「自我(自分)」という根拠自身、未だ完全に解明はされていません。仏教の唯識派と言えば法相宗ですが、先にも紹介した様に、この宗派の説く「心王(心の本質)」は阿頼耶識だと言っています。これは端的に言えば、過去からの「記憶」こそが心の本質であるという事です。そういう意味では、瞬間瞬間に様々な事を感じて思考している「自我(自分)」というのはその記憶を感受している末那識や意識であり、実は心の本質ではないという事にも成り得ます。

 その事からふとこの「唯識派」の考え方を読んだ時、今の私の感じている事に近しいとも思いました。唯識派の考えの一端とはこの事なのだろうか、ちょっとそんな事すら考えたりもしました。

 しかし一方、法華経では阿頼耶識の更に根源的な心の奥底に「阿摩羅識」という「心王(心の本質)」を立てています。こうなると単に、過去から現在まで記憶しているものによって「自我」を感じるという事でもなく、その過去からの記憶の更に深い処に、実は自分の一貫性を持つ部分があるという事も考えられるのです。そしれその事について、天台大師智顗や日蓮は「九識心王真如の都」と呼び、それを「無始無終の仏界」とも呼んでいます。

 さあさあ、少し込み入った話になってきました。ここまでくると、恐らくこれを読んでいる人の中には混乱してくる人も居れば、「訳わからん」と言って、ほっぽり投げたくなる人も出てくるでしょう。

 と言う事で、今回はここまでとしますが、実はこういった心の本質の問題を理解する事が、人生の生き方にも大きく影響をしてくると私は個人的に思っているのです。だからこんな「宙に浮いた様な話題」は今後も続けていきます。

 今回はここまで。


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コメント一覧

斉藤 単己
はなのさん

私は仏界というものは、実は十界論とは別のレベルの事だと考えています。多くは十界論から、感情や行動、また自分の想いといった心の働きの一つだと理解していますが、実はそれらを引き起こす心の根源を仏界と呼んだのかもしれません。
はなの
度々すみません。
先のコメントで良心は仏界かと書きましたが、
大聖人は「仏界ばかりは現じがたし」と書かれてましたので、菩薩界かもしれません。
又、人を思いやれる人間らしい心の
人界かもしれません。
考えるとよく分からなくなってきました。
失礼しました。
はなの
このようなお話は嫌いじゃないです。
九識心王真如の都が仏教で説かれる仏界という表現ですが、世間的な言葉にすれば良心ではないかと考えます。
良心は仏心であり慈愛に満ちた他を思いやる優しい心ですから。
良心は極悪人が人の優しさにふれ目覚めた時、
自己が行った悪行を見つめ涙し後悔反省する力の源になります。
悪人の良心も他人の優しさにふれ、奥底に隠されていたものが出てきたというのは、唱題によって沸々湧き上がる菩薩仏界の命とよく似ていると思うのです。
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