久しぶりに記事を更新します。
個人的な事で、以前にも少しこのブログで書いていますが、私は「怪談」というのが結構大好きなんですね。まあこの世界の不可思議さというのが、怪談を聞いていると、たまに垣間見る事が出来たりします。
そんな怪談の中で、三木大雲師という日蓮宗の僧が話す怪談というのも結構好きだったりします。
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この2つの怪談では、ある企業の管理者が体験した不可思議な事から、実はこの管理者が以前に部下を精神的に追い詰めた事により、その部下が自殺してしまい、そこから人を指導する側の在り方とか、輪廻転生の話とか、あとは死後の世界を信じない人のが垣間見た「地獄の入り口」の話から、人がこの世界に生まれて来た意味等について仏教説話を入り組めて話をしています。
トータルとしては、とても良い話なのですが、この話で私が個人的に思った事について少し書いてみたいと思います。
◆輪廻転生について
この話の中では「輪廻転生」という話が出て来ています。輪廻転生というのは有るのか無いのか。これは仏教というカテゴリでは常に議論になる処で、原始仏教では「無い」と言いますが、大乗仏教の中では「ある」という話もあります。では私はこの事についてどの様に考えるかと言えば、「有るとも言えるし、無いともいえる」という風に感じています。
輪廻転生と言う話は「業因業果」とセットで語られますが、恐らく根本的には「過去世の原因によって、現在世の在り方が決まり。今世の生き方で来世が決まる」という前提の輪廻転生は無いと私は思うのです。どちらかと言えば、自分自身の心の在り方により、その心が円満になるために、不足した経験を常に今世で獲得する為に、「カルマ(業)」として、自分自身が産まれ出る際に選択して生まれてくる。いわゆる仏教で言う処の「願兼於業」という概念による「輪廻転生」というのは有るのかもしれません。またそもそも、ここでいう「自分=自我」という事も、前の記事で書きましたが「末那識(自我の本体)は阿頼耶識に向い錯誤して生じている概念」という事もありますので、ここで永遠の過去から未来永劫に続く「自我」というのも、完全に他者と分離した存在では無いし、そこの根源は全ての有情(生命的な存在)の共通意識とも言える「九識=阿摩羅識」から派生している感覚なのかもしれません。
そうなると、単なる「他者とは独立して存続する自我」が経験する様なものでも無いように思います。
◆地獄の入り口
この説話の中にあった「地獄」とは、これはおそらく、その人が今世で生きてきた自身の心が集大成として見せているビジョンでは無いかと思います。実際に死後にその様な世界は無く、もし経験するとすれば、その死にゆく「自我」により創り出されたものであり、翻ってみれば、今世のその人の生きて来たものがビジョンとして表出しているに過ぎないと思うのです。
ここで三木大雲師は地獄界から天界など、要は十界論について展開していますが、この十界論にしても、それぞれが良いとか悪いとか、高いとか低いではなく、心とはそういう姿を持ち合わせているにすぎず、結局は自身の心の中にある「九識=阿摩羅識」から九界(地獄から菩薩界まで)は派生しているものでしかないというのが私の解釈です。この心の苦しみを死後に死者に善行を回向する事で変えられるとか回避できるとか、そういう事でも無いと思うんですけどね。
ましてや法華経を呪文の様に読誦すれば、死や死後の苦しみが回避できるとも思えません。
私達がこの世界に生まれて来たのは、あくまでも「経験する為」であり、その経験によって「記憶」は阿頼耶識に蓄積され、九識に具わる心の根源的な働きが、その阿頼耶識を通す事で末那識(自我)を錯誤して創り出している。では果たしてこの末那識ではさも「周囲から独立した意識」として感じる実感が、この先、未来永劫続いていくのだろうか。そもそも「過去から未来に一方通行の流れとしての時間」というのも存在するのか。
なーんて、そんな事を考えたりすると、単純に日本の仏教でいう「輪廻転生」とか、僧侶などが言う「死後の回向」というのも、実はあまり重要事でも無いように私は思えたりするのです。
ちょっとヤヤコシイ話をしてしまいましたが、この三木大雲師の怪談を聞いていて、そんな事を考えてしまいました。まあ私の戯言として読んでいただけたら幸いです。
でもまあ、三木大雲師の話は面白いんですけどね。。。