さて、祈りが叶う、叶わないについて三個目の記事です。
今回は「祈りが叶わない」と感じる人の心について、少し記事として書いてみたいと思います。
創価学会では「信仰体験」という事で語られるのは、例えば大病したが奇跡的に生き延びる事が出来たとか、仕事で資金繰りが大変だったのが、ひょんなことからその問題が解決したとか、様々な話があります。先日、自宅で嫁がリモート開催の「支部女性部長会」というのをやっていて、その話の内容を聞いていましたが、参議院選挙で大勝利して行こう!その為に活動体験を座談会で取り上げて、盛り上げましょう。という事を女性部幹部が言っていました。
やはり「力ある宗教」という事を手っ取り早く示すのは、こういった「信仰体験」を語る事なのです。人が宗教にハマり込んでしまう切っ掛けというのは、多くが様々な人生の問題に直面し、それを宗教で解決しようとの事から始まりますが、それには「祈ったら叶う」という事が、とても重要な事でもあるのです。
多くの人にとって「祈りが叶う」という事が、宗教に求めていると言う事なんでしょう。
私は人の能力として「思考が具現化する」という事はあると考えています。これは考えている事というより、信じている事と言っても良いでしょう。ただここで信じていると言っても、仏教の教理や近年の量子力学で判明している事から、信じているのであって、何も根拠なく信じている訳ではありません。
しかしこの「思考が具現化する」とは言っても、やはり「祈りが叶う」「叶わない」という事は常に議論となるところであり、多くの人にとってはこの能力を信じる事は出来ないと思うのです。
「人の思考が具現化できるのなら、誰も苦労しないだろう」
その様に考えるのではないでしょうか。
例えば大病を患ったとしても、それを回復した自身の姿をイメージし、それを具現化する事で病が治るという事ならば、大病を患ったとしても、何も悩み苦しむ必要はなくなりますし、下手すりゃ薬や病院も必要なくなります。しかし現実に、こういった祈りの殆どは叶わないのです。
私はこの叶う叶わないという事について、前の記事では「社会」という観点からこの事について考察をしてみました。
要は社会の中では多くの人が様々な思考をして生活しているので、そこで個人の思考があったとしても、具現化する際には他の人達との間で、まるで干渉しあう様にこの能力が働いてしまう事から、実際に個人の思考が容易く具現化する事が出来ないという事だと考えています。
◆人の心の構造を理解する事
あとこの事(祈りが叶う、叶わない)にはもう一つの要因があると私は考えています。それは「人の心の多層構造」によるものです。
あとこの事(祈りが叶う、叶わない)にはもう一つの要因があると私は考えています。それは「人の心の多層構造」によるものです。
大乗仏教では、人の心は多層構造となっている事が説かれています。華厳経では阿頼耶識(蔵識)という、過去からの記憶が蓄積された部分を心の本質と考えており、天台宗や日蓮宗では阿摩羅識(九識)を心の本質として考えています。何れにしても、大乗仏教では人の心は多層構造だと説いているのです。
この九識論については 九識論 - 自燈明・法燈明の考察 で以前にも記事にしていますので、参考として下さい。
この事について、欧米では19世紀頃に心理学者のフロイトやユングによって「深層心理」という事が述べられる様になりましたが、大乗仏教ではそれよりも遥か以前にこの事を思考していた事に、私は大乗仏教が人の心に対する洞察を深めた教えである事を感じています。
この心の多層構造が、この「祈りが叶う・叶わない」という事と、どの様に関係しているのか、少し説明してみたいと思います。
私達が日常、自分自身の意識であり心だと感じているのは、九識論では「六識(意識)」と言われる部分です。ただこの意識とは、更にその奥底にある「末那識(自我)」の影響を受けており、おそらく心理学でいう「深層心理」とはこの「末那識」が該当すると私は考えています。
この「末那識」で考えている事を、実は私達の日常生活の中の意識で認識する事は出来ません。これはよく心理学でも言われていますが、日常的に私達が考えている事とは別な事を深層心理で考えているという事は良くある事なのです。
そして「思考が具現化する」という事の「思考」とは、この場合の「六識(意識)」だけという事ではありません。恐らく七識以下、九識論でいう九識に至るまでの心の働きによって、具現化する事が決まると思うのです。
これは以前に紹介した「ザ・シークレット」という本にも書かれている事なのですが、例えば「お金持ちになりたい!一億円を手に入れたい!」という思考を具現化するとしましょう。その場合「一億円を手に入れられる」と100%信じて生活する事、そしてそれを実現した事をイメージして感謝して生活する事が大事だと言われています。
しかしそうは言っても、そんな荒唐無稽な事を本気で信じて、そうなった事を心から感謝する事は、人にとってはもの凄い困難である事は誰にもわかる事でしょう。その様な事をしようとしても「そんな事なんてある訳が無い」「なんて馬鹿らしい事をしているんだ」「無理だ」など、様々な思考が心の中を渦巻く事は、誰でも解ると思います。
つまり「思考が具現化する」という事があっても、この思考自体、人は制御する事も出来なければ、認知する事も出来ないのです。
単に表層的な意識で「〇✕したい」「~の様になっていきたい」と考えた処で、それはあくまでも思考の表層的な思考に過ぎず、それが具現化する事なんてありえないのです。
しかし人が日常の中で意識できるのは、この表層的な意識でしかなく、そこで考えていた事で「祈った」としても、その「祈りが具現化」して「祈りが叶う」という事には成り得ないのです。
でも人はこういう事から「そらみろ、祈りなんて所詮は叶う訳がない」と思い、その事から「思考が具現化する」という事についても、けしてそれを信じようとか理解しようとか思わなくなってしまうのです。
創価学会では「祈りとして叶わざる無しの御本尊」という事を良く言います。しかし実際に「祈りが叶う」という事は殆ど無く、結果として創価学会で日蓮や仏教の一端に触れたとしても、それ自体を否定的する人達を量産してしまっているのです。
「何だよ!結局何も叶わねーじゃねーか」という感じですね。
私はこういう組織の指導性(曰く、御利益重視の姿勢)がオカシイという事を考えているのです。
創価学会は「現世利益を求める宗教」と揶揄されます。しかしこの事を切っ掛けとして、自分自身の心の構造について思いを馳せる事になるのであれば、それも意味がある事だと思うのですが、どうも今の創価学会の中ではそこまで思考を深める事は出来ない様ですね。皆が目の前の「現証」に振り回されてしまっているのです。