自燈明・法燈明の考察

戦争について考える

 さて、最近の日本の中を見ると、新型コロナウィルスの感染症や、それに伴う中小企業の倒産。また仕事があっても収入減の問題などが大きな話題かと思います。またその一方で、何か社会のタガというか、以前であれば大問題になる様な問題、例えば福島第一原子力発電所の汚染水の海洋投棄等が、特に国内では話題にも上らず問題にもならず、簡単にスルーされていたりしています。

 一部の都市伝説的な話では、新型コロナウィルスのワクチン接種をキッカケとして、世界の主要諸国では、国民の管理体制を強化し、その管理体制を構築した後に、「人工削減」へと人類社会は動いていくという話も耳にします。これはまだ与太話程度に認識されていますが、確かに今の日本やアメリカ政府、また世界保健機関(WHO)の動きを見ると、完全に否定も出来ず、何かかなりきな臭い話にも思えます。

 ただ未来の事は判りませんからね。

 さて今日の本題です。
 私が創価学会の中で活動家として動いていた時、真剣に核軍縮とか世界平和について考えていました。まあ「真剣に」とは言っても、それは飽くまでも創価学会から与えられた情報の中だけで考えていただけで、それは現実に即した事ではありませんでした。



 創価学会では立正安国論に書かれている事、また「世界から称賛されている池田会長の思想を広める事」で、この世界で人類の相互理解を進展させる事ができ、世界を平和にする事が出来ると教えていますが、実際に世界の現状、また人類のこれまでの歴史を理解すると、そんな生易しい事で平和は実現出来る事ではありません。私は学会活動から離れ、様々な事を知る中で、その事が理解できました。

 そもそも戦争とは国家が外交の上で、交渉決裂した時に国家間で発生する状況です。要は交渉決裂したら武力でケリを着けよう。そんな発想で行われる国家の行動です。だから戦争を防ぐには、外交力も必要ですし、そもそも武力を保持していれば、それが抑止力となり戦争はそう容易く発生しないという説もあります。

 よく「武力を持たなければ戦争は起きない」という事が言われます。確かにこれは正論であり、この場合には戦争が起きようがありません。しかし一方で武力放棄をした場合には、もし他国から侵略された場合、100%その他国に従属しなければならないという事が条件となります。また「その前に外交力を持てば戦争は防げる」という話もありますが、国家間の外交というものは、その国家の背景に武力があって成り立つ事もあるようです。

 以前に日本人で「紛争解決請負人」ともよばれた伊勢崎賢治氏が出演した番組を見た事があります。この人は世界中の紛争地域で仲裁活動をしていたそうですが、そこでは限定的でも武装は必要である事を述べていました。要は武装を持たない人間は、紛争の交渉をコントロールできないというのです。

 各国の大使館や在外公館には「在外公館付き武官」が居るのも、その表れでしょう。つまり戦争と武力を単純に紐づけして、「武力持てば戦争」「武力放棄すれば平和」という単純な話では無いのです。

 と、、ここまでは戦争の「表の話」です。
 実は戦争を理解するには、もう少し踏み込んだ事も理解しなければならないのです。

 以前にタレントで「元・傭兵」として世界中の紛争地域を駆け抜けた経験を持つ、テレンスリー氏は、自著の「俺は戦争下請け屋」をいう本の中で、戦争を起こすのは「資本だ」と断言していました。要は戦争で儲ける企業や組織が戦争を起こしているというのです。

 歴史的に見ても「戦争は国家が行う最大の公共事業である」という話がありました。つまり世界的に景気が悪化すると、どこぞで戦争が発生し、そこで消費される武器や弾薬などで、大儲けする資本家達が沢山出てくるというのです。

 これは的確な言葉だと思います。
 アメリカの第35代大統領のドワイド・D・アイゼンハワー大統領が、1961年1月17日に離任演説をしましたが、そこでは以下の様に言っています。

「我々は、政府の委員会等において、それが意図されたものであろうとなかろうと、軍産複合体による不当な影響力の獲得を排除しなければなりません。誤って与えられた権力の出現がもたらすかも知れない悲劇の可能性は存在し、また存在し続けるでしょう。
この軍産複合体の影響力が、我々の自由や民主主義的プロセスを決して危険にさらすことのないようにせねばなりません。」(豊島耕一訳)

 アメリカは、二十世紀に入り多くの戦争に関与してきました。そして即応で武器を国が調達する為に、軍部と産業界の繫がりを強固にする必要があり、結果として「軍産複合体」というものが発生したというのです。近年のアメリカが世界中の紛争に関与する裏には、この軍産複合体があるのは周知の事実です。

 また資本だけが戦争を起こすという事ではありません。先日まで読んでいた「エデンの神々」の中には、以下の記述がありました。

「戦争の利用価値は、金銭的な利益だけとは限らない。戦争は、大きな人間集団を社会的・政治的にコントロールする有効な手段となりうる。十六世紀のイタリアは数多くの独立した公国からなり、国同士がしばしば交戦状態に入っ た。 ある君主が近隣の都市を征服した場合、その被征服市民たちの間にわざと内紛を引き起こさせることもあった。これこそ人間を政治支配する効果的な やり方で、際限なく対立抗争する結果、被征服市民たちは、一致団結して当の 征服者に立ち向かうことができなくなる。 角突き合いの争点は二の次三の次だ。対立する市民 たちが、征服者の君主に対してではなく、仲間同士で争い 合ってくれさえすればいいのだ。」

 こうなると、先の「資本による戦争」と共に考えてみるのであれば、戦争の本質は単に「資本」だけではなく、その奥に人類をコントロールする働きという側面も見えてしまいます。

 「戦争反対」とか「世界平和」を考える場合、こういった戦争の姿は最低限理解しておく必要があると思いますし、その上で自分達の思想を以って、どの様な行動をする必要があるのか。より具体的な考え方も出来ると思うのです。しかし残念ながら、そういう標榜をする団体や組織では、そういった重要な事を会員に教える事はありません。

 私は「護憲」「平和」を言うのであれば、こういった事柄も大事な事だと考えています。


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